詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有田忠郎「火と塩の歌」

2006-10-05 23:29:09 | 詩集
 有田忠郎「火と塩の歌」(「乾河」47)。
 とても不思議なことばが出てくる。

ヴェネツィアの ペストの舟は 黒い くろい*
(そう、黄金の邸(カ・ドーロ)も 沈み 始めた)

 「くろい」ということばに私は立ち止まってしまった。
 文末の「* 」は有田のつけた注釈である。末尾に

* 黒死病の屍をのせてゆく喪の舟としてゴンドラは黒く塗られき
                     (葛原妙子

 と紹介されている。それを読んだあとでも、私は、なお「くろい」につまずいたままである。注釈を読んだからこそ、つまずいたままである、とさえいえる。「黒い」と書いたあと、なぜ有田は「くろい」と書いたのだろう。「黒い」を残したまま「くろい」と繰り返したのだろう。
 有田にとって「黒い」と「くろい」はまったく別な色なのである。科学的に違うとか、色素的に違うとかというのではなく、感覚的(官能的といった方がいいかもしれない)に違ったものなのである。
 これはもちろん、この行を読んだだけではわからない。
 有田は「乾河」に「ヴェネツィアの乾酪(チーズ)」というエッセイを書いている。に葛原の歌を引用している。「水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪(チーズ)黴びたり」。そして、その歌の「眼目はむろん「恍惚として」にある。」と書いている。
 引用されていない別な歌が意識の奥にあり、それが「黒い」を「くろい」と書き直させているのである。最初から「くろい」と書くのではなく、「黒い」と書いたあとで、本当はそれは「くろい」のだと書き直し、書き直したことを明確にするために「黒い」を残している。
 「くろい」は「黒」を「恍惚として」眺めたときに見える「黒」のありようなのである。醒めた意識ではなく、恍惚とした意識のなかで、それは「くろい」のである。

 --こうしたことをいくら書いてみても、読者には、それがどんなふうに違うかは実際のところはわからない。
 わからないと承知した上で、有田は「黒い くろい」と書いているのだと思う。書かずにはいられないものが、ここにはあるのだ。
 それは何か。
 有田は葛原の歌に感動した。ことばのよろこびを、葛原の歌から受け取った。そのことこそ、有田は、この詩のなかで書きたいのだ。
 葛原は「黒く」という表記をつかっている。その「黒」を含む歌を読んで、有田は何かを感じた。そして、その感じは、葛原が「黒く」と書いているものとは違うと感じた。「くろい」と書かなければ(書き換えなければ)、有田の肉体に入ってこないと感じたのだ。そのこと、「黒」ではなく「くろ」と書いてほしいという欲望のようなものを、有田は書いているのである。

 「黒い」と「くろい」。
 ここから書くことは、私の単なる想像である。有田の詩についてというより、私のことばに対する一方的な思いである。
 「黒い」と書くとき、視線は「黒」に触れているが、それ以外の感覚は触れていない。「くろい」と書くとき、視線よりも別なもの、たとえば指先のようなもの、触覚がそれにふれている。「くろい」という文字はそのままうねりながら、指先からしのびこみ、筋肉をたとり、血管をたどり、脳の中まで入り込み、それから再び、肉体の隅々までひろがっていく。ちょうど「黒死病(ペスト)」の菌が侵入し、肉体を脅かすようにして。
 「黒」という角張った文字では、そういうことが起きようがない。
 死は忌むべきものである。しかし、それは同時に、何か恍惚とさせる。死と恍惚はどこかで繋がっている。「くろい」という文字のように、何かがうねって、そのうねりそのものとして繋がっている。
 「黒」と書くと死そのものだが、「くろ」と書くと、死と肉体がつながり、その苦悩の中に、不思議なことに「恍惚」がやってくる。
 そんな感じだ。



 きょう私が書いたことは詩の批評でも感想でもないかもしれない。単なる私の「誤読」であるだろうと思う。だが、私は、こういう「誤読」をすることが本当はいちばん好きだ。いちばんの楽しみだ。

 有田は、私にとっては、長い間「理知の人」であった。今でももちろん「理知の人」には違いないのだけれど、どこかに肉体もあって、その肉体が「恍惚」を求めているという感じが伝わってきて、なんだか奇妙にうれしいのである。
 有田にとっての「恍惚」が歌(短歌)と関係している(あるいは「俳句」も含まれるかもしれない)ということも、私にとっては驚きのひとつである。
 シオランの翻訳などを読むと、有田の苦悩(愉悦)は宗教的なものだろうかと想像してしまうのだが、その底には、「ひらがな」的なもの、日本語の肉体のようなものもあるのだと、最近、思うようになった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする