詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリバー・ストーン監督「ワールド・トレード・センター」

2006-10-09 23:57:58 | 映画
監督 オリバー・ストーン 出演 ニコラス・ケイジ

  9・11テロ。貿易センターへ救出に向かった警官がくずれるビルの下敷きになる。そして奇跡的に助け出される。その様子を描いている。ただし、力点はその救出の様子でも、 9・11テロのむごたらしさでもない。「家族」というものの存在、それが人間の生きる力になっているという今、アメリカを覆い尽くしている感情である。
  9・11テロでの死者は約3000人。この3000人という人のことを私たちは考えることができるか。ひとりひとり個別の人間として識別し、それぞれに愛情をもってなにごとか想像することができるか。私にはできない。そして、この想像できないということに対して、私自身しようがないという思いがどこかにある。また、3000人という固有名詞を取り去った抽象的な数としてしか考えられないところに、このテロのおそろしさがあるとも思うのだが……。
 実際の当事者、自己に巻き込まれた犠牲者、そしてその家族にとっては、3000人とはどういう存在だったのか。
 この映画では、3000人についてはほとんど描かれていない。「私の夫はどうなったのか」「私の父はどうなったのか」「私の息子はどうなったのか」という、ほとんど1人への思いが語られるだけである。死者が何千人になろうと、家族にとって死者はそのうちのひとりではなく、あくまで絶対的なひとりなのである。そのことを映画は延々と語る。
 そして、その家族のひとりを思う気持ちの延長線上に、たとえば同僚(同じ警官として仕事をしている仲間)が「ひとり」として立ち上がってくる。だれにとっても、常に犠牲者は「1人」である。けっして「3000人」ではない。これは、逆の言い方をすれば、ひとりのことを真剣に心配し、苦悩する家族が3000以上あったということである。悲しみは3000人なのではない。その何倍もあったのである。
 「家族」に焦点をあてることで、悲しみをより自分に引きつけ、そして深める。そうしたことを狙った映画であることはとてもよくわかる。よくわかるがゆえに、私は同時に、何か不快なものを感じる。不快なものを覚えずにはいられない。こんなに簡単に図式化してしまっていいのだろうか。 9・11を犠牲者を悲しむ家族、そして犠牲者は家族のことを思いながら亡くなっていったというような話に図式化してしまっていいのだろうか。
 何が原因で 9・11が起きたのか。そのことへの問いかけがすっぽり抜け落ちてしまって、テロリストは家族を悲しませる、家族の祈りがテロリストに打ち勝つ力だというのでは、何かが違っているといいたくなってしまう。
 何かが違う--その象徴的なシーン。瓦礫の下敷きになりながら警官はキリストの幻想を見る。また、ある海兵隊出身の牧師(?)は神(キリスト)の声を聞いて、事件現場へ生存者の救出に向かう。そのとき描かれるキリストの絶対的な正しさ。これはキリスト教徒にとっては必然的なことなのかもしれないが、こういう「神」の描き方をしている限り、テロリストたちの祈りは、絶対にアメリカには届かない。
 テロリストたちにはテロリストたちの「神」がいる。
 「ワールド・トレードセンター」はその「神」を視野の外に置き、キリスト教の神(イエス)のみが絶対であるという誤解を育てることにもなるのではないか。アメリカの「家族」、アメリカの「神」--それだかげ浮かび上がってくるような気持ちがして、妙に落ち着かない気分になってしまう。

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岩本文秀の「スキン」

2006-10-09 23:48:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩本文秀の「スキン」(「ドッグマン・スープ」3)。
 「ドッグマン・スープ」で私がおもしろいと思ったもう一作は、岩本文秀の「スキン」である。「一部 盗視」「二部 結合」「三部 自慰」。1977年から2000年にかけての岩本の性生活が描かれている。性生活(性交描写)にはおもしろい部分はない。性交はよほどのことがないかぎり、だれがしても同じようなものである。同じようなものであるけれど、それは毎回個別の表情をもっているはずである。その表情が描かれたとき、それは文学として立ち上がるのだが、岩本は、そういうものを描かない。個別の表情を描かない。それでも(あるいは、それだからこそといえばいいのだろうか)私がこの作品にひかれたのは、その性交に個別の表情がないからである。セックスのなかで個人がどんなふうにしてエクスタシー(自己を超える)を体験したか、その結果、それまでの自己とどう違ったかということが書かれていないからである。セックスの虚妄、それがあからさまに立ち上がってくるからである。
 性交に個別の表情がないように、また、岩本の描く性交の「場」というか、「時代」にも個別の表情がない。表情にならないまま、ただ素材として並べられている。表情がないというのは、ある存在が他の存在と結びつくことで、そこにひとつの揺るぎない関係ができ、その関係によって存在そのものの内部に「意味」ができることであるが、そういうものが岩本のことばにはない。そういう内部を拒絶して、ただ、そこに存在する。そうして、その存在を一つ二つではなく、大量とまでは言えないけれど、かなりの数の存在を描く。量を描くことによって、個別の表情がないにもかかわらず、あるいは、個別の表情がないからなのか、その出会いのなかに、一種の虚無同士が出会ったときのような、何か引っ張りこむような力が生まれる。
 たとえば「一部 盗視」。

一九七七年一月
大阪南部・河内弁のメッカ
山の上に総合大学
見渡す限り田畑
民家と学生寮点在
大学まで徒歩一〇分
学生マンション
鉄筋三階二棟
二階一棟
共同便所
洗面所
食堂
風呂
洗濯機
焼却場
一階三五号室
木製ドア
ロック付ノブ
サッシ窓
手前半畳土間
六畳和室二間
半畳吊り押入れ各一
LPガス不可
電熱器自炊可
家賃一六〇〇〇円
水道電気代込み食事別
仕送り五〇〇〇〇円

 羅列された名詞は個別を装いながら、何も個別の表情をあらわさない。その時代に共通するものを並べることによって、それぞれが個別の表情をなくしていく。そして、時代そのもののなかへ消えて行ってしまう。時代そのもののなかへ消えていくために、それぞれが個別の表情を放棄しているといってもいいかもしれない。そして、その表情が消えるのを見ると、その虚無に対抗するように、私のなかで、なんとかそういうものに表情を与えたいという欲望が生まれる。
 時代のなかへ消えていったものを取り戻したいというような気持ちに誘われる。

 岩本はたいへんな策士なのかもしれない。

 岩本が策士であると感じるのは、引用した時代の風景だけでなく、登場人物も「個」を装いながら「個」として自立してこない表現にある。

メンバー三名
部屋の主
デザイン学科二四歳男
岡山出身
美術学科彫塑線香二二歳男
大阪出身
映像学科二〇歳男
広島出身

 岩本は人間を描くのに固有名詞をもちいない。そういうものを省いてしまって、学科と年齢と性別だけにしてしまう。「抽象」にしてしまう。
 それ、その「抽象」は、ほとんど「虚無」と同義語である。
 そして、その虚無が、なぜか、背景の無意味な写真(酒樽の鏡割りのアップ)と、無関係であることによって、なにごとかを獲得しようとしているように見える。何か感じたいならかってに感じればいい、それが「詩」だとでも言っているようでもある。岩本は自分では詩を書かない。読者が、岩本のことばをくぐることで、読者自身の「詩」と向き合えばいい、と言っているようでもある。
 存在は単独では単なる存在である。それぞれに「意味」はない。存在が何らかの「意味」をもつのは他の存在との「関係」がつくられたときである。岩本は、そういう関係を書かない。ただ名詞を並べる。その関係を読者にまかせる。

 こういうことばとの出会いは、確かに真っ白な紙の上ではおもしろくないかもしれない。視覚的に何かを刺激する「画面」の上にあって、ことばが、あらかじめひっかきまわされる、あるいはことばが何かと拮抗しようとしているという騒々しさのようなものがあったときに、そのノイズゆえに、ことばが力を蓄え込んでいるように見えるのかもしれない。聞こえない音、聞こえないメロディーとリズムを読者の耳が、肉体がもとめる。その刺激として岩本はことばを提示する。そのために写真を利用している。そういう「策略」もたしかに「詩」のひとつだと思う。そう思わせる乱暴さが岩本のことばにはある。

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