小島数子『明るむ石の糸』(私家版)。
小島の詩を読んでいると一種の酩酊に陥る。あ、ことばを読み違えたのかな? いや、やはり、そう書いてある。そして、たしかにそう感じるときがある。今、ではなくて、記憶のなかで……。そんなふうに思ってしまう「酔い」である。
たとえば「ひそやかに屹立せよ」の2連目。
「鳴く姿も聞くことになり」の「聞く」に私の記憶は酔ってしまう。「見る」ではなく「聞く」。姿を「見る」ではなく、「聞く」。「聞く」にこういう使い方があるとは頭では思わないが、肉体は、そういう使い方があってもいいと思う。あってもいいと信じている。私は、無数の蝉が一斉に鳴いているのを見たことがあるが、そのことを思い出すと、私は、それを聞いたのか見たのかわからなくなる。頭のなかに夏の光に輝く木々があり、木々に降り注ぐ光を跳ね返して蝉が鳴いている。夏の強靱な光がその鳴き声から放射線状に広がっている。それは、見る、聞くが同時におこなわれ、体のなかでふたつの感覚がとけあったまま、区別がつかなくなるような酔い、酩酊の感覚である。
私は、こういう酩酊の感覚、酩酊の一瞬が非常に好きである。なぜ好きなのかわからないが、こうした酩酊のなかでは、私が私でなくなるという気持ちがするからだ。私という存在がとけだして、世界と一体になる、という感じがするからだ。
世界と一体となるからこそ、次の行もぐいと迫ってくる。
小島が聞いているのは蝉だけではない。姿だけではない。小島がそのとき立っている「場」といしての「土」さえも感じるのである。それは「聞く」という動詞で把握できるのか、「見る」という動詞で把握できるのか、まだ、はっきりとはわからない。「感じる」としか掛けない何かである。
小島は、あるいは小島のことばはといえばいいのだろうか。それは「酩酊」のなかでとどまらない。酩酊のなかで放心しない。自分がどうなってもかまわない、というふうに、酩酊に身を任せてしまうことがない。酩酊から、徐々に覚醒をめざして歩き始める。というよりも、酩酊を利用して、何かを探し出し、それにたどりついた瞬間に一気に覚醒することを願って歩き始めるといえばいいのだろうか。
このとき小島が探しているものは、とても「重い」。「土のような重みを感じる」と小島は書いているが、たしかに、そんなふうに重いのだと思う。そして、それは何か、非常に奥深いところにあるものである。「見る」とか「聞く」とかいった自己を安全な場所において(対象と離れた場所にいて)把握できるものではないのだと思う。
「明かりになることを行く者は」の冒頭。
手と目の融合。その「酩酊」をとおして小島は何を見るのか。「見る現実の源である現実」「見る現実はなく現実そのもの」「現実そのもののもつ真実」ということばが、小島がとらえようとしているものを浮かび上がらせていると思う。
覚醒した視力(見る)だけではとらえきれないものがある。それはたとえば手(触覚)と目が融合したときにつかむことのできる存在である。形である。「目」の記憶の蓄積、記憶でゆがんだ目を触覚が洗い流す。触覚がつかみだす真実。
小島は、ひとつの感覚がとらえる世界が真実の世界とは思っていない。いくつかの感覚が融合して動いているのが世界の真実だと感じているのだろう。そして、既成概念で凝り固まった感覚をほぐすには、別の感覚の存在が必要なのだ。たとえば、「千手観音」は目に頼らない。手を目の変わりにして世界をつかむ。それは「目の感覚」を「触覚」で洗い直すことでもある。
それにしても、この作品の第一行、
とはなんと強いことばだろう。「見る」-「見える」現実は、「目」でとらえた現実にすぎない。そこに「目」以外のもの(この作品では「手」)が加わって、「目」だけでみたものを洗い流していくとき、そこに「現実の源である現実」が姿をあらわす。それをつかむまで引き下がらないという強い決意が現れている。この決意が、「重い」ものを引き寄せるのだと思う。この「重い」ものを引き寄せようとする力は、今の現代詩にあっては非常に貴重なものだと思う。
小島の詩を読んでいると一種の酩酊に陥る。あ、ことばを読み違えたのかな? いや、やはり、そう書いてある。そして、たしかにそう感じるときがある。今、ではなくて、記憶のなかで……。そんなふうに思ってしまう「酔い」である。
たとえば「ひそやかに屹立せよ」の2連目。
そこには
たくさんの蠅が飛んでいて
追い払いきれないので
蝉と思おうとしたことがあった
蝉の鳴き声を聞くと
鳴く姿も聞くことになり
土のような重みを感じる
「鳴く姿も聞くことになり」の「聞く」に私の記憶は酔ってしまう。「見る」ではなく「聞く」。姿を「見る」ではなく、「聞く」。「聞く」にこういう使い方があるとは頭では思わないが、肉体は、そういう使い方があってもいいと思う。あってもいいと信じている。私は、無数の蝉が一斉に鳴いているのを見たことがあるが、そのことを思い出すと、私は、それを聞いたのか見たのかわからなくなる。頭のなかに夏の光に輝く木々があり、木々に降り注ぐ光を跳ね返して蝉が鳴いている。夏の強靱な光がその鳴き声から放射線状に広がっている。それは、見る、聞くが同時におこなわれ、体のなかでふたつの感覚がとけあったまま、区別がつかなくなるような酔い、酩酊の感覚である。
私は、こういう酩酊の感覚、酩酊の一瞬が非常に好きである。なぜ好きなのかわからないが、こうした酩酊のなかでは、私が私でなくなるという気持ちがするからだ。私という存在がとけだして、世界と一体になる、という感じがするからだ。
世界と一体となるからこそ、次の行もぐいと迫ってくる。
土のような重みを感じる
小島が聞いているのは蝉だけではない。姿だけではない。小島がそのとき立っている「場」といしての「土」さえも感じるのである。それは「聞く」という動詞で把握できるのか、「見る」という動詞で把握できるのか、まだ、はっきりとはわからない。「感じる」としか掛けない何かである。
小島は、あるいは小島のことばはといえばいいのだろうか。それは「酩酊」のなかでとどまらない。酩酊のなかで放心しない。自分がどうなってもかまわない、というふうに、酩酊に身を任せてしまうことがない。酩酊から、徐々に覚醒をめざして歩き始める。というよりも、酩酊を利用して、何かを探し出し、それにたどりついた瞬間に一気に覚醒することを願って歩き始めるといえばいいのだろうか。
このとき小島が探しているものは、とても「重い」。「土のような重みを感じる」と小島は書いているが、たしかに、そんなふうに重いのだと思う。そして、それは何か、非常に奥深いところにあるものである。「見る」とか「聞く」とかいった自己を安全な場所において(対象と離れた場所にいて)把握できるものではないのだと思う。
「明かりになることを行く者は」の冒頭。
見る現実を選ばず
見る現実の源である現実そのものを選ぶ
全く異なる方法
全く異なる内容
全く異なる光
見る目を使わず
目のある手を使う
見る現実はなく現実そのものがある
見る現実に関係する善を為さず
禅寺の千手観音のように
目のある手の力によって
光をめざし
現実そのもののもつ真実を浮かび上がらせる
見る現実の全く下にあるので
目のある手を使わないと届かず
現れてこない真実
手と目の融合。その「酩酊」をとおして小島は何を見るのか。「見る現実の源である現実」「見る現実はなく現実そのもの」「現実そのもののもつ真実」ということばが、小島がとらえようとしているものを浮かび上がらせていると思う。
覚醒した視力(見る)だけではとらえきれないものがある。それはたとえば手(触覚)と目が融合したときにつかむことのできる存在である。形である。「目」の記憶の蓄積、記憶でゆがんだ目を触覚が洗い流す。触覚がつかみだす真実。
小島は、ひとつの感覚がとらえる世界が真実の世界とは思っていない。いくつかの感覚が融合して動いているのが世界の真実だと感じているのだろう。そして、既成概念で凝り固まった感覚をほぐすには、別の感覚の存在が必要なのだ。たとえば、「千手観音」は目に頼らない。手を目の変わりにして世界をつかむ。それは「目の感覚」を「触覚」で洗い直すことでもある。
それにしても、この作品の第一行、
見る現実を選ばず
とはなんと強いことばだろう。「見る」-「見える」現実は、「目」でとらえた現実にすぎない。そこに「目」以外のもの(この作品では「手」)が加わって、「目」だけでみたものを洗い流していくとき、そこに「現実の源である現実」が姿をあらわす。それをつかむまで引き下がらないという強い決意が現れている。この決意が、「重い」ものを引き寄せるのだと思う。この「重い」ものを引き寄せようとする力は、今の現代詩にあっては非常に貴重なものだと思う。