粒来哲蔵『穴』(書肆山田)。(その2)
「穴」は「墓穴」のことである。「おれ」はどうやら死んでしまっている。それなのに「おれ」は誰かと対話する。死んでしまっても意識がある、という点では「鉈」に近い世界である。
作品は次のように始まる。
この作品が魅力的なのは、「おれ」と誰かの対話がゆっくりと進んでいく点にある。読み通せば、この作品が「墓穴」に埋められる人間と、埋める人間の対話であることがわかるのだが、その対話の住み具合が、とてもゆっくりしている。「穴がある、という。おれは--わかっている、という。」という行は、まるで現実で何かをすることを拒んでいるときにいう「わかっている」(いまは、それをしたくない)ということばの響きにとても似ている。ここでは「時間」が遅延させられているのである。
想像力を「現実をゆがめるちから」ときのう書いたが、きょうは「想像力とは時間の動きをゆがめる力」と書いてみよう。
ことばによって時間はどんな動きでも墓穴を掘って埋めるまでを1行で書くこともできれば、粒来のように何行にもわけて書くこともできる。そんな操作ができるのは「想像力」である。
もちろん、その「ゆがみ」が不定形であったら、とても「時間がゆがめられた」という印象にはならないだろう。「でたらめ」と思うだけだろう。時間の進み方は時計の秒針のように均等で、なおかつゆっくり進むとき、そこに「ゆがみ」が生まれる。「ゆがみ」は矛盾したいい方になるが「正しく」ゆがまなければならない。一定の距離感でゆがまなければならない。「想像力」の物差しは一定でなければならない。
この作品で、粒来は、そうした「物差し」を、1行ずつ、誰かと「おれ」との対話で校正することによって提示している。誰かと「おれ」という一定の関係が繰り返されることによって、その繰り返しのなかから「物差し」が生まれる。そして、その「物差し」をつかい続けることによって、その「ゆがみ」が正確なゆがみであるということが明らかになり、正確であるがゆえに、信頼に足るものになる。つまり、粒来の書いていることが、死んだ人と誰かの対話という日常ではありえないことなのに、ことばの上ではあってもかまわないものとして立ち上がってくる。
「物差し」を一定にする。対象と自己との距離を一定にする。これは、詩にしろ、散文にしろ、「文章」の基本的なことではあるのだけれど、こういう基本が守られていない作品が多いように思う。
粒来のようなベテラン詩人の作品に対して「物差し」がしっかりしている、安定していると評価するのは、いわずもがなのことになってしまうが、こんなふうに正確な「物差し」のリズムに出会うと、やはり、そのことを書いておかなければと思ってしまう。
粒来の書いている世界は「死後の世界(?)」というようなものであり、それは一種の非現実なのだが、それが現実のように迫ってくるのは、この「物差し」の正確さのためなのである。
ゆっくり始まった時間は、最後までゆっくり進んでいく。一度もスピードを上げない。一度もスピードを落とさない。
その絶妙な正確さがことばのなかに存在するからこそ、最後の「急に糞がしたくなる」がおかしい。笑ってしまう。死んだ人間と、それを墓に埋めようとする人との対話自体がおかしいといえばおかしいが、それが最後の「急に糞がしたくなる」によっていっそう強まる。
*
「物差し」のついでに。
このとき「穴がある」と言っている人間は誰なのか。それは最後までわからない。明かされない。明かされないけれど、対話を通して、その誰かが「おれ」にとっては何らかの親しみのある関係であることがわかる。
問いかけの気楽さ、返答の気楽さ。そこから浮かび上がる親密感。それも最初から最後まで変わらない。
「物差し」にはいろいろな種類があり、からみあって作品の世界をつくっている。「親密感」「親しさ」という「物差し」をずーっと目撃し続ける(読み続ける)からこそ、「急に糞がしたくなる」というような、気の置けない相手にしか言わないようなことばが登場しても違和感がない。軽い笑い、軽いおかしさとなる。
軽く書き流した風に読んでしまう作品だが、細部にまで配慮が行き届いたすばらしい作品だと思う。詩集の表題にしている理由も、なるほどなあ、と納得してしまう。
「穴」は「墓穴」のことである。「おれ」はどうやら死んでしまっている。それなのに「おれ」は誰かと対話する。死んでしまっても意識がある、という点では「鉈」に近い世界である。
作品は次のように始まる。
穴がある、という。--見ると成程穴なので用心する。
穴がある、という。おれは--わかっている、という。
この作品が魅力的なのは、「おれ」と誰かの対話がゆっくりと進んでいく点にある。読み通せば、この作品が「墓穴」に埋められる人間と、埋める人間の対話であることがわかるのだが、その対話の住み具合が、とてもゆっくりしている。「穴がある、という。おれは--わかっている、という。」という行は、まるで現実で何かをすることを拒んでいるときにいう「わかっている」(いまは、それをしたくない)ということばの響きにとても似ている。ここでは「時間」が遅延させられているのである。
想像力を「現実をゆがめるちから」ときのう書いたが、きょうは「想像力とは時間の動きをゆがめる力」と書いてみよう。
ことばによって時間はどんな動きでも墓穴を掘って埋めるまでを1行で書くこともできれば、粒来のように何行にもわけて書くこともできる。そんな操作ができるのは「想像力」である。
もちろん、その「ゆがみ」が不定形であったら、とても「時間がゆがめられた」という印象にはならないだろう。「でたらめ」と思うだけだろう。時間の進み方は時計の秒針のように均等で、なおかつゆっくり進むとき、そこに「ゆがみ」が生まれる。「ゆがみ」は矛盾したいい方になるが「正しく」ゆがまなければならない。一定の距離感でゆがまなければならない。「想像力」の物差しは一定でなければならない。
この作品で、粒来は、そうした「物差し」を、1行ずつ、誰かと「おれ」との対話で校正することによって提示している。誰かと「おれ」という一定の関係が繰り返されることによって、その繰り返しのなかから「物差し」が生まれる。そして、その「物差し」をつかい続けることによって、その「ゆがみ」が正確なゆがみであるということが明らかになり、正確であるがゆえに、信頼に足るものになる。つまり、粒来の書いていることが、死んだ人と誰かの対話という日常ではありえないことなのに、ことばの上ではあってもかまわないものとして立ち上がってくる。
「物差し」を一定にする。対象と自己との距離を一定にする。これは、詩にしろ、散文にしろ、「文章」の基本的なことではあるのだけれど、こういう基本が守られていない作品が多いように思う。
粒来のようなベテラン詩人の作品に対して「物差し」がしっかりしている、安定していると評価するのは、いわずもがなのことになってしまうが、こんなふうに正確な「物差し」のリズムに出会うと、やはり、そのことを書いておかなければと思ってしまう。
粒来の書いている世界は「死後の世界(?)」というようなものであり、それは一種の非現実なのだが、それが現実のように迫ってくるのは、この「物差し」の正確さのためなのである。
ゆっくり始まった時間は、最後までゆっくり進んでいく。一度もスピードを上げない。一度もスピードを落とさない。
その絶妙な正確さがことばのなかに存在するからこそ、最後の「急に糞がしたくなる」がおかしい。笑ってしまう。死んだ人間と、それを墓に埋めようとする人との対話自体がおかしいといえばおかしいが、それが最後の「急に糞がしたくなる」によっていっそう強まる。
*
「物差し」のついでに。
穴がある、という。--見ると成程穴なので用心する。
穴がある、という。おれは--わかっている、という。
このとき「穴がある」と言っている人間は誰なのか。それは最後までわからない。明かされない。明かされないけれど、対話を通して、その誰かが「おれ」にとっては何らかの親しみのある関係であることがわかる。
問いかけの気楽さ、返答の気楽さ。そこから浮かび上がる親密感。それも最初から最後まで変わらない。
「物差し」にはいろいろな種類があり、からみあって作品の世界をつくっている。「親密感」「親しさ」という「物差し」をずーっと目撃し続ける(読み続ける)からこそ、「急に糞がしたくなる」というような、気の置けない相手にしか言わないようなことばが登場しても違和感がない。軽い笑い、軽いおかしさとなる。
軽く書き流した風に読んでしまう作品だが、細部にまで配慮が行き届いたすばらしい作品だと思う。詩集の表題にしている理由も、なるほどなあ、と納得してしまう。