詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ふじむらまり「つきのひかり」

2006-10-16 23:10:06 | その他(音楽、小説etc)
 ふじむらまり「つきのひかり」(「読売新聞」2006年10月03日夕刊)。
 私は俳句はほとんど読まない。偶然、不思議な句に触れた。

ゆりの木をはなれて白しけふの月
手の甲につきのひかりのおもさあり
白萩やははの言の葉かろからず
秋水にそひ西洋のひとひとり
おもちやかぼちやと思ひしがすこしまよふ
秋風のきのふあさくさへは寄らず
きらきらきら月の桂のしだれけり

 最初の句に私は驚いた。
 月の白さを、その白がユリの花から乖離して空に浮かんだものと見ているのだろう。頭の中に、地上のユリ、天の月、そのふたつを分離し、同時につなぐ秋の透明な空気が広がる。透明とは、遠く離れたものを引き寄せる力のことだと思ったりする。
 しかし、私は何か、体のなかがむずむずするような、不思議な気持ちになる。頭は透明な空気に洗われているのに、体のなかになにかが濁ったまま、取り残されている。体の芯まで透明に染まりきることができない。
 なぜなのだろう。「ゆりの木」。あ、ユリはふじむらには「木」なのか。そして、それが私の感じる「むずむず」と繋がっていると思うのだ。ユリはたしかに背が高い。茎もなかなか太い。足元に咲く花に比べると「木」なのかもしれない。そして、「木」だからこそ、「はなれて」ということばも生きているのだと頭で理解する。「私」(ふじむら)とユリの距離(「木」によって強調される高さ--目、あるいは体との距離)が「はなれて」ということばを引き出しているのだとわかる。私→ユリ→月と動いていく「距離」を「はなれて」ということばのなかで把握しているのだ。なるほどなあ。「はなれて」とは、こんな具合につかうのか、と一瞬、ことばの奥深さに触れた気持ちにもなる。
 しかし、やはり「むずむず」は残ってしまう。頭で納得すればするほど、よけいに「むずむず」が増幅されてしまう感じがする。
 なぜだろう。
 「白し」と「けふの月」がつきすぎているのだと思う。
 「白し」と「けふの月」のあいだに「切れ」があればそうでもないのだろうけれど、べったりとくっついてしまっているために、頭で考えるほど「距離感」がないのだ。
 まったく別の存在が出会った、そしてその「一期一会」に驚いている感じがないのだ。ふたつの存在が出会って、いままでの自分が自分でなくなってしまうという驚きがないのだ。
 「切れ」とは「透明感」、そのふたつを近づけ、衝突させ、そのことによっていままでの「距離感」を否定するもの、新しい「距離感」(あるいは空間的広がり、時間的広がり、つまりは精神的、感覚的広がり)をつくりだしていくものだと思うが、そういう「切れ」が欠けているのだと思う。
 こういう「切れ」はたぶん「頭」ではなく、肉体でつかみ取るもの、自己の存在を、自己以外の存在に同化させてしまって、その同化のなかで、自己を生成しなおすときにつかみ取るものだと思う。そういう肉体の運動がふじむらにはないのかもしれない。

 2句目も不思議である。
 重さを測るとき、私は手の平をつかう。手の平になにかを載せる。手の甲に載せたりはしない。

 3句目もいやな感じがする句である。ふじわらは、「つきのひかり」の7句について彼女自身で解説している。

 秋のひと日、東京・向島の百花園に母とあそんだ。草花や行き交う人々を眺めているうちに、ふと、日本人とは古来よりもののあはれに心魅かれる人々の総称ではないかと思った。
 草花や小さな生き物に心を寄せる気持ちを尊いものと感じた。そしてまた、母の愛情などというものは、目に見えないものでありながら、じつに確かなものであるとも感じられた。
 俳句は目に映るものの他に、目に見えないもの、感じたものを詠むことができる。

 この解説はほとんど3句目の句についての解説(補足説明)といえるものだと思うが、この「頭」で書かれたことばが何か不気味である。
 「俳句は目に映るものの他に、目に見えないもの、感じたものを詠むことができる。」というよりも、俳句は目に見えないはずのものが見えたときに生まれてくるものでないといけないのではないのか。頭で考えると見えない、母の言葉の重さは目に見えないし、手でも測れない--それなのに、目で見え、体で感じてしまう。そしてその錯覚(酩酊)の一瞬から何かが覚醒する、新しい感覚が世界を切り開く、新しい感覚のなかへ自分自身が生まれ変わる、そういう「運動」を575でとらえたのが俳句ではないのかなあ、と思うのだ。

 ふじむらの俳句は私は今回はじめて7句読んだだけなので、こんなことを書いていいのかどうか、自分でも少し疑問に思うのだが(即断しすぎていないかと疑問に思うのだが)、なんだか、ふじむらは頭がよすぎる。頭がよすぎて、頭でことばを動かしてしまうというような印象が残った。





コメント (1)
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