詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』

2006-10-24 14:11:33 | その他(音楽、小説etc)
 ガルシア・マルケスわが悲しき娼婦たちの思い出』(木村栄一訳、新潮社)。
 90歳の誕生日に処女と淫らな夜を過ごしたいと願う男の物語である。男は実際に14歳の少女を娼婦館の女主人から紹介してもらう。読者の好奇心をひっぱりまわすストーリーテリングの巧みさがガルシア・マルケスの特徴だが、そうしたストーリーの変化よりも、細部が楽しい。特に90歳の老人のこころの純粋さが美しい。その美しさをきわだたせる文章がすばらしい。

 私はそれまで、恋のために死ぬというのは詩の中の話しでしかないと思っていた。しかし、あの日の午後、猫だけでなくあの子まで失ってふたたび家にもどったが、そのときふと恋のために死ねるだけでなく、私のような老人で、しかも身よりのない人間でも恋わずらいで死ぬような苦しみを味わうことがあるのだということを思い当たった。けれども、同時にその逆、つまり恋わずらいがもたらしてくれる喜びが何ものにも代えがたいというのも真実だと気づいた。

 「けれども」以下の文章、そこに「真実」ということばで定義されていることがらの美しさには、思わず読みながら傍線を引き、このことばを覚えておかなければ……と思ってしまう。こうしたことばが、一種の波瀾含みのストーリーのなかに散りばめられている。そこに目を奪われるが、同時に私はほかの部分にもうなってしまった。心底感心してしまったのは、ちょっと違った部分だ。
 「私のような老人で、しかも身よりのない人間でも」の「しかも身よりのない人間でも」ということばに私は衝撃を受けた。その意味(内容)ではなく、こうした文章の流れで、ふいに「しかも身よりのない人間でも」ということばが出てくる唐突さに驚いた。このことばは唐突であると同時に、「しかも」(ガルシア・マルケスのつかっている)現実の否定的な部分を強調するだけでなく、ナンセンスである。恋にとって、身よりがあるかないかなど、彼が老人であるかどうかよりもっと無関係なことであるだろう--と私には思える。だが、そういう無関係なことを引き寄せる(書く)ことで、書かれていることがらが急にリアリティーを持つ。そのリアリティーの強さに感動してしまう。
 「しかも身よりのない人間でも」ということばは、ガルシア・マルケスの描く90歳の男以外には、たぶん思いつかないことばだろう。そして、そのことばがなくても、この小説は成り立つし、あいかわらず美しいのだが、そうしたそれがなくても成り立つものを、物語の邪魔にならない範囲でさっと挟み込む手際にガルシア・マルケスの魅力がある。
 「つまり恋わずらいがもたらしてくれる喜びが……」という文章がなければこの恋の物語は真実をひとつ欠くことになる。「しかも身よりのない人間でも」という唐突な挿入句はなくても物語の真実は成立する。だが、それがないと物語も真実も、空想になってしまう。空想になってしまう世界を現実へ引き戻すのが「しかも身よりのない人間でも」ということばだ。
 そして現実、そのリアリティーがいつでもすぐそばにあるからこそ、あらゆる夢が、ロマンチックなものが肉体となって出現してくる。つまり、動き回る。愛が空想ではなく、憎しみ、怒りとともに出現し、暴れ始める。こころを切り刻む。「真実」が「真実」以外のものになりながら、その「偽物」が真実よりも強くこころを支配するという「愛」が動きだす。現実というものがそうであるように、愛も憎しみも怒りも常に動いており、リアリティーというのは、その静止した存在を見るときに感じるのではなく、それが動くときに感じるものだ。リアリティーとはこころが受け止める「傷」のようなものかもしれない。

 そうした「傷」が「名言」のなかにあらわれているのが、娼婦館の女主人の次のことばだ。

つねづね言っているんだけれど、嫉妬というのは真実以上に知恵が回るものなのよ。

 そして、このことばは次のことばと対になっている。

嫉妬のあまりあなたが勘ぐったことが本当だっていいじゃない。

 もう「ほんとう」なんて自分の外にはないのだ。リアリティーというのは、こころが動くその動きそのものなのだ。
 そう思ったとき、また私は思い出すのだ。最初に引用した文章のなかの「しかも身よりのない人間でも」という文章のとてつもないリアリティーを。「身よりがない」からこそ恋をする。恋を愛に変えていこうとする。そこで生まれ変わろうとする。そして、その瞬間、それまで見てきた90歳の男が突然輝きだすのだ。
 その「変身」へのエネルギーが満ちた小説である。最後がとてもまばゆい小説である。

コメント (1)
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