後藤順『のぶながさん』(ブイツーソリューション)。
9月に森川雅美の作品を取り上げた。そのとき、森川が私の批評を批判して「(谷内が)取り上げた作品のいくつかは、私には日常雑記か、私小説の行分けにしか思えないものも、少なからずありました。」と書いていた。きょう取り上げる後藤の作品は、森川が指摘する「日常雑記」という分類に入るのかもしれない。私は日常雑記でも、あるいは小説の行分けでも、そこに「詩」は存在すると思う。ものを見つめ、そこでことばが本当に動くなら、その動きは私には「詩」なのである。
「茶碗」という詩は、茶碗が割れるということを描いている。落ちて割れることもあれば、投げつけられて割れることもある。夫婦喧嘩で茶碗が飛び交い、それが割れるということもある。そのとき、こころはどう動くか。ことばは、そのこころの動きをどれだけ深くつかみ取り、立ち上がることができるか。
3連目。
「茶碗がわれる音がこわい」がいい。「われる音がこわい」がいい。「音がこわい」がいい。「こわい」がいい。こんなふうに無防備になって立ち上がることばがいい。「こわい」と無防備にかたるとき、こころはただ震えているだけだ。その震えが、そのまま詩集のページから伝わってくる。詩集と私のあいだにある空気が、その震えに共振する。
こころは、それがどんなにかたくなであっても、硬さを装ってみても、ほんとうはやわらかい。いつも形をかえている。空気のように変化している。
3連目から突然引用したが、1連目は次のように書き出されてる。
こころは「空気」である。「真空」ではない。だから「音」に反応する。「音」とは何か。ものがぶつかりあうときの振動が空気を伝わって「音」になる。空気はただ単にそれを伝えているだけではない。ときには「おびえ」ながら伝える。空気の中の「こころ」は後藤の「こころ」そのものでもある。
「空気」をこそ後藤は描いている。父の闘病を描く。父の死を描く。そのとき後藤は父の闘病そのものではなく、病気と闘う父とそれを見つめる後藤のあいだに存在する「空気」、その「空気」の淀んだ感じ、何かがとどこおっていて、こころがスムーズに伝わらない感じを描く。こころはスムーズに伝わっていくべきものなのかもしれないが、ほんとうは、そうではないかもしれない。伝わらずにもがくこと。そのもがきのなかにこそ、ほんとうの思いがあるかもしれない。こころとは矛盾を抱え込んでいるものである。愛と憎しみはいつでも一緒に存在する。一緒に存在するからこそ、ときに愛が純粋になり、憎しみも純粋になる。愛なら愛、憎しみなら憎しみ--という存在の仕方では、純粋になるというときの「なる」という動きがない。動きのないものは、つたわらない。ものがぶつかりあうとき、その振動が「空気」のなかで音に「なる」ように、愛と憎しみがぶつかりあい、こころのなかで純粋に「なる」とき、愛は愛として輝き、憎しみは憎しみとして強くなる。そういう変化を後藤は「日常」として描いている。特別なことがらではなく、そういう愛や憎しみの生成は「日常」である。「日常」から離れず、「日常」のことばのなかで、そのことば自身を鍛えている。
この1行は、そういう「日常」の「空気」のなかで静かに震えている。
「日常」を大切にするこころは、次のような深い深いことばも引き出す。
「太る」とはこういうときにつかうことばであった、と知らされる。こうしたことばにふれるとき、「日本語は美しい」と思う。そして、こういう美しさは「日常」以外からは生まれてこないとも思う。
「日常雑記」もまたことばを鍛える。「詩」はその鍛えられた力のなかにある。
9月に森川雅美の作品を取り上げた。そのとき、森川が私の批評を批判して「(谷内が)取り上げた作品のいくつかは、私には日常雑記か、私小説の行分けにしか思えないものも、少なからずありました。」と書いていた。きょう取り上げる後藤の作品は、森川が指摘する「日常雑記」という分類に入るのかもしれない。私は日常雑記でも、あるいは小説の行分けでも、そこに「詩」は存在すると思う。ものを見つめ、そこでことばが本当に動くなら、その動きは私には「詩」なのである。
「茶碗」という詩は、茶碗が割れるということを描いている。落ちて割れることもあれば、投げつけられて割れることもある。夫婦喧嘩で茶碗が飛び交い、それが割れるということもある。そのとき、こころはどう動くか。ことばは、そのこころの動きをどれだけ深くつかみ取り、立ち上がることができるか。
3連目。
こころとはどんなもの
ふにぁふにぁの粘土みたい
たたかれてもわれないが
雨がふる日は地べたに潜る
ほんとうに硬いものは
ぼくのこころじゃないから
茶碗がわれる音がこわい
「茶碗がわれる音がこわい」がいい。「われる音がこわい」がいい。「音がこわい」がいい。「こわい」がいい。こんなふうに無防備になって立ち上がることばがいい。「こわい」と無防備にかたるとき、こころはただ震えているだけだ。その震えが、そのまま詩集のページから伝わってくる。詩集と私のあいだにある空気が、その震えに共振する。
ほんとうに硬いものは
ぼくのこころじゃないから
こころは、それがどんなにかたくなであっても、硬さを装ってみても、ほんとうはやわらかい。いつも形をかえている。空気のように変化している。
3連目から突然引用したが、1連目は次のように書き出されてる。
(がちゃん)
ものが割れた音
真空であれば聞こえまい
気弱な空気はおびえる
こころは「空気」である。「真空」ではない。だから「音」に反応する。「音」とは何か。ものがぶつかりあうときの振動が空気を伝わって「音」になる。空気はただ単にそれを伝えているだけではない。ときには「おびえ」ながら伝える。空気の中の「こころ」は後藤の「こころ」そのものでもある。
「空気」をこそ後藤は描いている。父の闘病を描く。父の死を描く。そのとき後藤は父の闘病そのものではなく、病気と闘う父とそれを見つめる後藤のあいだに存在する「空気」、その「空気」の淀んだ感じ、何かがとどこおっていて、こころがスムーズに伝わらない感じを描く。こころはスムーズに伝わっていくべきものなのかもしれないが、ほんとうは、そうではないかもしれない。伝わらずにもがくこと。そのもがきのなかにこそ、ほんとうの思いがあるかもしれない。こころとは矛盾を抱え込んでいるものである。愛と憎しみはいつでも一緒に存在する。一緒に存在するからこそ、ときに愛が純粋になり、憎しみも純粋になる。愛なら愛、憎しみなら憎しみ--という存在の仕方では、純粋になるというときの「なる」という動きがない。動きのないものは、つたわらない。ものがぶつかりあうとき、その振動が「空気」のなかで音に「なる」ように、愛と憎しみがぶつかりあい、こころのなかで純粋に「なる」とき、愛は愛として輝き、憎しみは憎しみとして強くなる。そういう変化を後藤は「日常」として描いている。特別なことがらではなく、そういう愛や憎しみの生成は「日常」である。「日常」から離れず、「日常」のことばのなかで、そのことば自身を鍛えている。
茶碗がわれる音がこわい
この1行は、そういう「日常」の「空気」のなかで静かに震えている。
「日常」を大切にするこころは、次のような深い深いことばも引き出す。
雨雲が去り晴れる
たたむ雨がさは太っている
「太る」とはこういうときにつかうことばであった、と知らされる。こうしたことばにふれるとき、「日本語は美しい」と思う。そして、こういう美しさは「日常」以外からは生まれてこないとも思う。
「日常雑記」もまたことばを鍛える。「詩」はその鍛えられた力のなかにある。