詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千島数子「ことばの長い影」

2006-10-02 23:11:30 | 詩集
 千島数子「ことばの長い影」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1985年5月号の作品。きのう飯田の詩の感想を書きながら、ふと千島の詩を思い出した。ことばを丁寧に選択している感じ、その丁寧さで飯田と千島は似ているかもしれない。(飯田、千島に限らず、すぐれた詩はみなことばの選択が丁寧である。推敲がきいている。)ただし、そのつかみとってくるものは、まったく逆のように思える。対照的な作風である。

ことばの影が長くのびる
罪のかかとが高い靴をはく

 この魅力的な書き出しは「罪」という抽象的なことばによって輝いている。「罪」そのものは具体的なものであるけれど、千島はその具体的な部分を書かない。そのかわりに「かかとが高い靴」という具体的なもの、肉体をしげきするものを描く。そのとき、嘲笑であるはずの「罪」が「具象」という「抽象」をおびる。「比喩」になる。「比喩」とは何かのかわりである。その何かはわからないが、わからないまま、何といえばいいのだろうか、頭の上に掲げて、そこへ向けてことばを動かす。このとき、ことばが背伸びをする。そこに「若さ」というか、新鮮で、透明なものが動く。輝きが走る。「かかとが高い靴」をはいた若い女性の足のような、はりつめた筋肉のようなものが動く。あ、詩だ、と思う。「新人」の詩というものは、常にこういう輝きであふれているものだ、と思い出す。
 書きたいことが、つまりこの詩で言えば「罪」というものが、自分とどういう関係にあるか、どう消化していくかということが、わかっていて書き始めるのではない。それがどういうものかわかるために書き始める。そういう精神の背伸びの美しさが、ここにある。「かかとが高い靴」をはいた美しさがある。スニーカーの美しさ、はだしの美しさではなく……。

悔しいから後悔はしなかったけれど
ことばで身投げばかりしているわたしは
未来をゆがめ
影をゆがめ
あなたまでのいちばん遠い距離を模索する

 ことばはあくまで抽象的である。抽象的であることによって、あるいは比喩であることによって、精神の美しさを保ち続ける。たとえば「いちばん遠い距離」のような、作者にしかわからないもの、メートルなんかでは測れないもの、他人を拒絶したものによって。
 ただ、ことばはあくまでことばである。どうしたって最後は肉体というか、具体的な存在と切り結ばなければならない。

明るいめがねをかけても
読みこなすことのできない生活
降りしきる雨をぬぐう
ことばのワイパー
自問自答の道のり
胸に沈む剣山は花を求める
なぐりつけても
なくりつけても
くずれない夜
すでに
腕に痛みはない

 「腕」の「痛み」。
 だが、この肉体は、まだ「ことば」のままである。だからこそ「痛みはない」としか言えなかったのかもしれない。「痛み」は本当は実在しなかったのかもしれない。「腕」そのものも実在しなかったのかもしれない。
 頭でつくりだされた比喩であるかもしれない。
 しかし、これはこれでいいと思う。千島は、何かを書こうとしている。書けるものを、つまり、彼女のことばを受け止め、定着させてくれる存在(もの)を探している。そうするしかないほど、精神は、先へ先へと進んでいく。そういう時分が書かせる詩なのであり、そういう時分に正確に向き合っている美しさがある。

 飯田の詩や千島の詩を読んでいると、あ、もう一度、若い時代にしか書けないような、精神と存在が触れ合いながら離反し、また近付いて……というような詩が書きたいなあと、思う。また、そうした詩を読みたいなあ、とも思う。

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ジョナサン・グレイザー監督「記憶の棘」

2006-10-02 23:05:28 | 詩集
監督 ジョナサン・グレイザー 出演 ニコール・キッドマン、キャメロン・ブライト

 1日に取り上げた「レディ・イン・ザ・ウォーター」と同じようにとても単純な脚本でできている。ただし、「記憶の棘」の方がはるかにおもしろい。愛するものを失った悲しみがニコール・キッドマンの演技と、ニコール・キッドマンをだますキャメロン・ブライトの演技によって、絶望的に深くなっていくからである。
 ストーリーは単純だ。ニコール・キッドマンの夫が死亡する。10年後に再婚話が持ち上がる。少年(キャメロン・ブライト)は偶然、ニコール・キッドマンが夫にあてたラブレターを手に入れる。そして、そこに書かれていることばに動かされ、亡くなった夫「ショーン」でと言い始める。
 ニコール・キッドマンはラブレターで彼女自身の感情のすべてを語っている。忘れられないできごとをすべて語っている。それを読んだ少年は、彼女のこころの細部を全部知っている。何を言えば感動するか、ということをすべて知っている。ニコール・キッドマンが知っている夫のすべてを知っていて、そのラブレターに書かれていたとおりに振る舞う。
 そのたびにニコール・キッドマンは愛のすべてを思い出す。愛していたときの感情すべてを思い出す。その感情のなかで、少年は少年ではなく、しだいに「夫」になっていく。
 ところがニコール・キッドマンの手紙には書かれていないことがあった。夫に愛人がいたということだ。ニコール・キッドマンは愛人の存在を知らなかった。ニコール・キッドマン自身は最後まで愛人の存在を知らないが、愛人だった女が少年が「ショーン」の生まれ変わりではないことを見抜く。愛人について何も知らないからである。(ニコール・キッドマンの手紙に何も書いてないからである。)
 少年は嘘がばれてしまってニコール・キッドマンの前から立ち去るが、いったんよみがえった愛の記憶は消えない。消えかけようとしていた愛がニコール・キッドマンを苦しめる。
 --このストーリーをニコール・キッドマンが演じると、その青い眼から苦悩が暗い炎となって燃え上がる。彼女自身が夫をどんなに愛していたか--手紙はそれを具体的に書いていたのだが、その書いていたことのひとつひとつが、手の届かないものとして具体的に立ち上がってくる。手が届かない、というのは「ショーン」と名乗ってあらわれたのが少年だからである。10歳の少年とセックスはできない。ニコール・キッドマンのすべてを知っている--すべてを理想の形で(つまりニコール・キッドマンの大切な記憶の形で)知っているのに、その少年と一体になることはできない。その不可能性が、よりいっそうニコール・キッドマンを切なくさせる。
 そんなはずがない、ありえない、と思いながら、少年にだんだんひかれていく、ひかれていくたびに美しくなっていくニコール・キッドマンがすばらしい。
 おとなの愛を残酷になぞってみせる少年、キャメロン・ブライトの演技がまたすばらしい。思春期前の少年には自分のしていることの残酷さがわからない。愛というものがどういうものか、ただ好奇心で覗いてみているだけである。覗いてみている--覗き見というのは、とても視野が狭い。見える範囲が限られている。少年にはニコール・キッドマンだけしか見えない。彼女は手紙に書いてあった通りにこころを動かし、体を動かす。そのことがますます少年の視野を狭くしていくのだが、そのことに少年はもちろん気がつかない。この気がつかないという感じ(ある意味では「無垢」という感じ)、剛直な感情が少年の表情からあふれている。とてもすばらしい。キャメロン・ブライトがいなければ成り立たなかった映画である。キャメロン・ブライトが完全に理解して演技しているのか、そういう表情を監督、カメラマンが引き出しているだけなのか、どちらとも判断できないが、そらおそろしい役者である。10年後、20年後にどんな演技をするのだろうか。ずーっと見続けたい役者である。



 ストーリー紹介のような批評になってしまったが、映像についても書いておく。冒頭のシーン、夫(ショーン)がセントラル・パークをジョギングしていて心臓発作(?)を起こし死ぬまでの映像がとても不思議な映像で、ぐいぐい引き込まれていく。ジョギング姿を後方やや上部がら半分見下ろすような角度の映像が多いのだが、これはいったい何の(だれの)視線? こんな視線はありえない。人工的な、架空の視線である。この映像によって、これからはじまる世界は、実は人工的なもの、架空のもの、作為に満ちたものであるということを暗示している。
 この暗示までなら、映画を見慣れている人ならだれでもわかると思う。
 そしてこの暗示のために、(さらにはきのう見た「レディ・イン・ザ・ウォーター」の影響もあって)、私は最初、「童話」だと思って映画を見ていた。夫が死んで、少年に生まれ変わる、そしてニコール・キッドマンの前にあらわれる……。そういう「童話」だと思っていた。
 ところが、「童話」ではありえない生々しいニコール・キッドマンの演技がはじまる。まわりの人たちが徐々に狂っていく映像、内面をえぐるような演技がつづいていく。ととのったインテリアのなかで人間の感情だけがはがされていく。むきだしになっていく。そのころは、これが架空の視点、虚構の世界であるという暗示を忘れてしまっている。
 最後の方に、少年がセントラル・パークの木の上にのぼるシーンがある。この映像で、冒頭のシーンが解明される。少年の視線、大地に足をつけた少年の視線--大人より低い位置にある少年の視線ではなく、少年が何かを利用して高みから見下ろすようにして展開する世界がこの映画であるということが、映像として解明される。ことばではなく、映像として、こういう説明をする丁寧さが、全体にみなぎっている。
 いい映画である。

コメント (1)
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