千島数子「ことばの長い影」(「現代詩手帖」10月号)。
「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1985年5月号の作品。きのう飯田の詩の感想を書きながら、ふと千島の詩を思い出した。ことばを丁寧に選択している感じ、その丁寧さで飯田と千島は似ているかもしれない。(飯田、千島に限らず、すぐれた詩はみなことばの選択が丁寧である。推敲がきいている。)ただし、そのつかみとってくるものは、まったく逆のように思える。対照的な作風である。
ことばの影が長くのびる
罪のかかとが高い靴をはく
この魅力的な書き出しは「罪」という抽象的なことばによって輝いている。「罪」そのものは具体的なものであるけれど、千島はその具体的な部分を書かない。そのかわりに「かかとが高い靴」という具体的なもの、肉体をしげきするものを描く。そのとき、嘲笑であるはずの「罪」が「具象」という「抽象」をおびる。「比喩」になる。「比喩」とは何かのかわりである。その何かはわからないが、わからないまま、何といえばいいのだろうか、頭の上に掲げて、そこへ向けてことばを動かす。このとき、ことばが背伸びをする。そこに「若さ」というか、新鮮で、透明なものが動く。輝きが走る。「かかとが高い靴」をはいた若い女性の足のような、はりつめた筋肉のようなものが動く。あ、詩だ、と思う。「新人」の詩というものは、常にこういう輝きであふれているものだ、と思い出す。
書きたいことが、つまりこの詩で言えば「罪」というものが、自分とどういう関係にあるか、どう消化していくかということが、わかっていて書き始めるのではない。それがどういうものかわかるために書き始める。そういう精神の背伸びの美しさが、ここにある。「かかとが高い靴」をはいた美しさがある。スニーカーの美しさ、はだしの美しさではなく……。
悔しいから後悔はしなかったけれど
ことばで身投げばかりしているわたしは
未来をゆがめ
影をゆがめ
あなたまでのいちばん遠い距離を模索する
ことばはあくまで抽象的である。抽象的であることによって、あるいは比喩であることによって、精神の美しさを保ち続ける。たとえば「いちばん遠い距離」のような、作者にしかわからないもの、メートルなんかでは測れないもの、他人を拒絶したものによって。
ただ、ことばはあくまでことばである。どうしたって最後は肉体というか、具体的な存在と切り結ばなければならない。
明るいめがねをかけても
読みこなすことのできない生活
降りしきる雨をぬぐう
ことばのワイパー
自問自答の道のり
胸に沈む剣山は花を求める
なぐりつけても
なくりつけても
くずれない夜
すでに
腕に痛みはない
「腕」の「痛み」。
だが、この肉体は、まだ「ことば」のままである。だからこそ「痛みはない」としか言えなかったのかもしれない。「痛み」は本当は実在しなかったのかもしれない。「腕」そのものも実在しなかったのかもしれない。
頭でつくりだされた比喩であるかもしれない。
しかし、これはこれでいいと思う。千島は、何かを書こうとしている。書けるものを、つまり、彼女のことばを受け止め、定着させてくれる存在(もの)を探している。そうするしかないほど、精神は、先へ先へと進んでいく。そういう時分が書かせる詩なのであり、そういう時分に正確に向き合っている美しさがある。
飯田の詩や千島の詩を読んでいると、あ、もう一度、若い時代にしか書けないような、精神と存在が触れ合いながら離反し、また近付いて……というような詩が書きたいなあと、思う。また、そうした詩を読みたいなあ、とも思う。
「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1985年5月号の作品。きのう飯田の詩の感想を書きながら、ふと千島の詩を思い出した。ことばを丁寧に選択している感じ、その丁寧さで飯田と千島は似ているかもしれない。(飯田、千島に限らず、すぐれた詩はみなことばの選択が丁寧である。推敲がきいている。)ただし、そのつかみとってくるものは、まったく逆のように思える。対照的な作風である。
ことばの影が長くのびる
罪のかかとが高い靴をはく
この魅力的な書き出しは「罪」という抽象的なことばによって輝いている。「罪」そのものは具体的なものであるけれど、千島はその具体的な部分を書かない。そのかわりに「かかとが高い靴」という具体的なもの、肉体をしげきするものを描く。そのとき、嘲笑であるはずの「罪」が「具象」という「抽象」をおびる。「比喩」になる。「比喩」とは何かのかわりである。その何かはわからないが、わからないまま、何といえばいいのだろうか、頭の上に掲げて、そこへ向けてことばを動かす。このとき、ことばが背伸びをする。そこに「若さ」というか、新鮮で、透明なものが動く。輝きが走る。「かかとが高い靴」をはいた若い女性の足のような、はりつめた筋肉のようなものが動く。あ、詩だ、と思う。「新人」の詩というものは、常にこういう輝きであふれているものだ、と思い出す。
書きたいことが、つまりこの詩で言えば「罪」というものが、自分とどういう関係にあるか、どう消化していくかということが、わかっていて書き始めるのではない。それがどういうものかわかるために書き始める。そういう精神の背伸びの美しさが、ここにある。「かかとが高い靴」をはいた美しさがある。スニーカーの美しさ、はだしの美しさではなく……。
悔しいから後悔はしなかったけれど
ことばで身投げばかりしているわたしは
未来をゆがめ
影をゆがめ
あなたまでのいちばん遠い距離を模索する
ことばはあくまで抽象的である。抽象的であることによって、あるいは比喩であることによって、精神の美しさを保ち続ける。たとえば「いちばん遠い距離」のような、作者にしかわからないもの、メートルなんかでは測れないもの、他人を拒絶したものによって。
ただ、ことばはあくまでことばである。どうしたって最後は肉体というか、具体的な存在と切り結ばなければならない。
明るいめがねをかけても
読みこなすことのできない生活
降りしきる雨をぬぐう
ことばのワイパー
自問自答の道のり
胸に沈む剣山は花を求める
なぐりつけても
なくりつけても
くずれない夜
すでに
腕に痛みはない
「腕」の「痛み」。
だが、この肉体は、まだ「ことば」のままである。だからこそ「痛みはない」としか言えなかったのかもしれない。「痛み」は本当は実在しなかったのかもしれない。「腕」そのものも実在しなかったのかもしれない。
頭でつくりだされた比喩であるかもしれない。
しかし、これはこれでいいと思う。千島は、何かを書こうとしている。書けるものを、つまり、彼女のことばを受け止め、定着させてくれる存在(もの)を探している。そうするしかないほど、精神は、先へ先へと進んでいく。そういう時分が書かせる詩なのであり、そういう時分に正確に向き合っている美しさがある。
飯田の詩や千島の詩を読んでいると、あ、もう一度、若い時代にしか書けないような、精神と存在が触れ合いながら離反し、また近付いて……というような詩が書きたいなあと、思う。また、そうした詩を読みたいなあ、とも思う。