粒来哲蔵『穴』(書肆山田)。(その4)
「齧歯(げっし)記」。その第一段落。
これは一見すると科学論文か何かのように見える。詩には(あるいは、文学には)あまりつかわないような語彙と文章構造である。しかし、この作品を読んで詩だと感じるのはなぜだろうか。そこに書かれていることがらが科学的(?)ではないからだろうか。引用はしないが、2段落以降、テーマとなっているのは「陰茎骨」である。齧歯類の陰茎骨と膣との関係、交合の具合(?)などが延々と書かれている。いわば軽い、ふざけた(?)内容だから、それが詩なのか。
内容は、詩であるかどうかとは関係がない、と私は思う。
この作品を「詩」として成立させているのは「科学的論文」風の文体である。その文体の持続である。文体を維持して何かを描写すれば、そこにはかならず日常では見逃していたものが姿をあらわす。「新事実」というのではない。ある文体が、こんなふうに動いて行けるということばの運動が事実として見えてくる。
齧歯類のセックス、その陰茎、膣のことなど、普通の人は語らない。あ、ネズミがセックスしている、と思って見るだけである。ことばにして語ってみようとはたいていの人は思わない。それは、いわばことばの「空白領域」である。粒来は、そうした「ことばの空白領域」でことばを動かしてみせる。ただ動かすだけではなく、ゆるぎのない文体で動かしてみせる。
そこに「詩」がある。
ことばがどんうなふうに、いったいどこまで動いていけるか、というようなことは、ほんとうは誰も知らない。だからこそ、誰も動かしたことのない領域でことばを動かしてみるという試みが楽しいのである。
『穴』には26篇の作品が収録されている。どれも、いわばストーリーのようなものがある。「抒情詩」のように、そのときどきの気分が書かれているというより、「事件」というか、できごとが書かれている。しかし気分(感情)が書かれていないかというと、きちんと書かれていると感じる。奇妙な言い方しかできないが、「文体」が気分なのである。「文体」が感情なのである。
私がこれから書くことは、たぶん抽象的すぎて正確ではないと思う。それを承知で書けば、たとえば数学には数学の文体があり、それが数学の感情であり、気分であると私は感じる。物理学には物理学の文体と感情がある。感情という言い方か不合理なら、「精神」があると言ってもいい。数学の精神、物理学の精神、数字と力学を踏まえたものしか採用しないという厳しい論理的精神--それがその厳しさのまま動くとき、美しい、と思うときがある。もっと卑近にいえば、その答えの出し方かっこいい、と思うときがある。その文体の底にはある種のインスピレーションがあり、そのインスピレーションを追いかけて、数字が理路整然と動く。文体をつくっていく。
これに似たことばの動きが粒来のことばには存在する。文体として立ち上がってきている。
粒来にとって「思想」とは考えたことではなく、「文体」である。考えをことばにして動かしていくときの方法(どんな「物差し」をつかうか)ということである。
粒来に限ったことではないかもしれない。私が詩を読んでいて魅力的だと感じるのは、いつも書かれた内容よりも「文体」である。
しかし「文体」の説明をするのは難しい。たとえば先に引用した第一段落。それを「科学論文的文体」と感じるのはなぜだろう。「考えるならば」(仮定)-「多様化していく」(結論)という構造だろうか。「進むにつれて」-「しだいに」という明確な呼応だろうか。あるいは「それに付随する」という文の「それに」という指示代名詞による繰り返し(論理の焦点を明確にする方法)だろうか。おそらくすべてなのである。というよりも、部分部分ではなく、全体の流れ、運動の変化量の一定さが、そう思わせるのだろう。
これはたぶん感じるしかないものなのだろう。
ある作家の文章、それが誰が書いたものであるか明示されていないくても、私たちは、それはきっと誰それが書いたものに違いないと感じるときがある。それは内容というよりも「文体」ゆえに、そう感じるのだ。作者の声、肉体が「文体」なのだ。そして、たぶん詩を読む(あるいは小説を読むでもいいけれど)とは、「文体」を読むことなのだと思う。ことばを動かしていくときの力のありようを読むことなのだと思う。
粒来の詩は「文体」の正確さにある。いったん動きだした文体は最後まで一貫している。運動は一貫しているが、そこに取り込む内容は逸脱している。その「ずれ」のようなところに「おかしみ」が広がる。
「齧歯(げっし)記」。その第一段落。
進化論的生物生態学から考えるならば、種の進化が進むにつれて単純な形態は次第に複雑化し、それに付随する機能もまた多様化してくる--という理論は一見自明のこととも思えるが、実はにわかには首肯し難いものであるという。その理由として、単純から複雑へという一方通行的思考に反して、逆に複雑から単純へという甚だ面妖な非進化論的進化(?)も決して無視すべきではないのだという。
これは一見すると科学論文か何かのように見える。詩には(あるいは、文学には)あまりつかわないような語彙と文章構造である。しかし、この作品を読んで詩だと感じるのはなぜだろうか。そこに書かれていることがらが科学的(?)ではないからだろうか。引用はしないが、2段落以降、テーマとなっているのは「陰茎骨」である。齧歯類の陰茎骨と膣との関係、交合の具合(?)などが延々と書かれている。いわば軽い、ふざけた(?)内容だから、それが詩なのか。
内容は、詩であるかどうかとは関係がない、と私は思う。
この作品を「詩」として成立させているのは「科学的論文」風の文体である。その文体の持続である。文体を維持して何かを描写すれば、そこにはかならず日常では見逃していたものが姿をあらわす。「新事実」というのではない。ある文体が、こんなふうに動いて行けるということばの運動が事実として見えてくる。
齧歯類のセックス、その陰茎、膣のことなど、普通の人は語らない。あ、ネズミがセックスしている、と思って見るだけである。ことばにして語ってみようとはたいていの人は思わない。それは、いわばことばの「空白領域」である。粒来は、そうした「ことばの空白領域」でことばを動かしてみせる。ただ動かすだけではなく、ゆるぎのない文体で動かしてみせる。
そこに「詩」がある。
ことばがどんうなふうに、いったいどこまで動いていけるか、というようなことは、ほんとうは誰も知らない。だからこそ、誰も動かしたことのない領域でことばを動かしてみるという試みが楽しいのである。
『穴』には26篇の作品が収録されている。どれも、いわばストーリーのようなものがある。「抒情詩」のように、そのときどきの気分が書かれているというより、「事件」というか、できごとが書かれている。しかし気分(感情)が書かれていないかというと、きちんと書かれていると感じる。奇妙な言い方しかできないが、「文体」が気分なのである。「文体」が感情なのである。
私がこれから書くことは、たぶん抽象的すぎて正確ではないと思う。それを承知で書けば、たとえば数学には数学の文体があり、それが数学の感情であり、気分であると私は感じる。物理学には物理学の文体と感情がある。感情という言い方か不合理なら、「精神」があると言ってもいい。数学の精神、物理学の精神、数字と力学を踏まえたものしか採用しないという厳しい論理的精神--それがその厳しさのまま動くとき、美しい、と思うときがある。もっと卑近にいえば、その答えの出し方かっこいい、と思うときがある。その文体の底にはある種のインスピレーションがあり、そのインスピレーションを追いかけて、数字が理路整然と動く。文体をつくっていく。
これに似たことばの動きが粒来のことばには存在する。文体として立ち上がってきている。
粒来にとって「思想」とは考えたことではなく、「文体」である。考えをことばにして動かしていくときの方法(どんな「物差し」をつかうか)ということである。
粒来に限ったことではないかもしれない。私が詩を読んでいて魅力的だと感じるのは、いつも書かれた内容よりも「文体」である。
しかし「文体」の説明をするのは難しい。たとえば先に引用した第一段落。それを「科学論文的文体」と感じるのはなぜだろう。「考えるならば」(仮定)-「多様化していく」(結論)という構造だろうか。「進むにつれて」-「しだいに」という明確な呼応だろうか。あるいは「それに付随する」という文の「それに」という指示代名詞による繰り返し(論理の焦点を明確にする方法)だろうか。おそらくすべてなのである。というよりも、部分部分ではなく、全体の流れ、運動の変化量の一定さが、そう思わせるのだろう。
これはたぶん感じるしかないものなのだろう。
ある作家の文章、それが誰が書いたものであるか明示されていないくても、私たちは、それはきっと誰それが書いたものに違いないと感じるときがある。それは内容というよりも「文体」ゆえに、そう感じるのだ。作者の声、肉体が「文体」なのだ。そして、たぶん詩を読む(あるいは小説を読むでもいいけれど)とは、「文体」を読むことなのだと思う。ことばを動かしていくときの力のありようを読むことなのだと思う。
粒来の詩は「文体」の正確さにある。いったん動きだした文体は最後まで一貫している。運動は一貫しているが、そこに取り込む内容は逸脱している。その「ずれ」のようなところに「おかしみ」が広がる。