詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『穴』(その4)

2006-10-22 21:35:11 | 詩集
 粒来哲蔵』(書肆山田)。(その4)
 「齧歯(げっし)記」。その第一段落。

 進化論的生物生態学から考えるならば、種の進化が進むにつれて単純な形態は次第に複雑化し、それに付随する機能もまた多様化してくる--という理論は一見自明のこととも思えるが、実はにわかには首肯し難いものであるという。その理由として、単純から複雑へという一方通行的思考に反して、逆に複雑から単純へという甚だ面妖な非進化論的進化(?)も決して無視すべきではないのだという。

 これは一見すると科学論文か何かのように見える。詩には(あるいは、文学には)あまりつかわないような語彙と文章構造である。しかし、この作品を読んで詩だと感じるのはなぜだろうか。そこに書かれていることがらが科学的(?)ではないからだろうか。引用はしないが、2段落以降、テーマとなっているのは「陰茎骨」である。齧歯類の陰茎骨と膣との関係、交合の具合(?)などが延々と書かれている。いわば軽い、ふざけた(?)内容だから、それが詩なのか。
 内容は、詩であるかどうかとは関係がない、と私は思う。
 この作品を「詩」として成立させているのは「科学的論文」風の文体である。その文体の持続である。文体を維持して何かを描写すれば、そこにはかならず日常では見逃していたものが姿をあらわす。「新事実」というのではない。ある文体が、こんなふうに動いて行けるということばの運動が事実として見えてくる。
 齧歯類のセックス、その陰茎、膣のことなど、普通の人は語らない。あ、ネズミがセックスしている、と思って見るだけである。ことばにして語ってみようとはたいていの人は思わない。それは、いわばことばの「空白領域」である。粒来は、そうした「ことばの空白領域」でことばを動かしてみせる。ただ動かすだけではなく、ゆるぎのない文体で動かしてみせる。
 そこに「詩」がある。

 ことばがどんうなふうに、いったいどこまで動いていけるか、というようなことは、ほんとうは誰も知らない。だからこそ、誰も動かしたことのない領域でことばを動かしてみるという試みが楽しいのである。

 『穴』には26篇の作品が収録されている。どれも、いわばストーリーのようなものがある。「抒情詩」のように、そのときどきの気分が書かれているというより、「事件」というか、できごとが書かれている。しかし気分(感情)が書かれていないかというと、きちんと書かれていると感じる。奇妙な言い方しかできないが、「文体」が気分なのである。「文体」が感情なのである。

 私がこれから書くことは、たぶん抽象的すぎて正確ではないと思う。それを承知で書けば、たとえば数学には数学の文体があり、それが数学の感情であり、気分であると私は感じる。物理学には物理学の文体と感情がある。感情という言い方か不合理なら、「精神」があると言ってもいい。数学の精神、物理学の精神、数字と力学を踏まえたものしか採用しないという厳しい論理的精神--それがその厳しさのまま動くとき、美しい、と思うときがある。もっと卑近にいえば、その答えの出し方かっこいい、と思うときがある。その文体の底にはある種のインスピレーションがあり、そのインスピレーションを追いかけて、数字が理路整然と動く。文体をつくっていく。
 これに似たことばの動きが粒来のことばには存在する。文体として立ち上がってきている。

 粒来にとって「思想」とは考えたことではなく、「文体」である。考えをことばにして動かしていくときの方法(どんな「物差し」をつかうか)ということである。
 粒来に限ったことではないかもしれない。私が詩を読んでいて魅力的だと感じるのは、いつも書かれた内容よりも「文体」である。
 しかし「文体」の説明をするのは難しい。たとえば先に引用した第一段落。それを「科学論文的文体」と感じるのはなぜだろう。「考えるならば」(仮定)-「多様化していく」(結論)という構造だろうか。「進むにつれて」-「しだいに」という明確な呼応だろうか。あるいは「それに付随する」という文の「それに」という指示代名詞による繰り返し(論理の焦点を明確にする方法)だろうか。おそらくすべてなのである。というよりも、部分部分ではなく、全体の流れ、運動の変化量の一定さが、そう思わせるのだろう。
 これはたぶん感じるしかないものなのだろう。
 ある作家の文章、それが誰が書いたものであるか明示されていないくても、私たちは、それはきっと誰それが書いたものに違いないと感じるときがある。それは内容というよりも「文体」ゆえに、そう感じるのだ。作者の声、肉体が「文体」なのだ。そして、たぶん詩を読む(あるいは小説を読むでもいいけれど)とは、「文体」を読むことなのだと思う。ことばを動かしていくときの力のありようを読むことなのだと思う。

 粒来の詩は「文体」の正確さにある。いったん動きだした文体は最後まで一貫している。運動は一貫しているが、そこに取り込む内容は逸脱している。その「ずれ」のようなところに「おかしみ」が広がる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベネット・ミラー監督「カポーティ」

2006-10-22 20:23:35 | 映画
監督 ベネット・ミラー 出演 フィリップ・シーモア・ホフマンキャサリン・キーナー

 これは書くことをめぐる映画である。書くとは、書くことによって自分自身がかわっていくことである。書くことをとおしてそれまでの自分を越えていくということである。カポーティをとおしてその過程が丁寧に描かれている。こういう変化は、ことばでは説明しやすいが、映像ではむずかしいと思う。しかし、この映画は、そのむずかしいことをなしとげている。

 カンザス州で一家4人が斬殺される事件が起きる。カポーティはその事件を書こうと思い立つ。取材のためカンザスを訪れ、捜査当局の人物と会い、被害者の知人と会う。犯人とも対話を繰り返す。犯人の孤独を知るにつれ、それが自分自身の孤独ともつながることを発見する。カポーティは、犯人のこころを描写する(書く)ことをとおして、しだいに犯人そのものになっていく。しかし、決定的な場面で犯人そのものになれない。彼が殺人の理由を語らないからである。それがわからないからである。
 しかし、ある日、ついに語る。隠されていたものが明らかになる。このときから、カポーティは、劇的にかわる。身動きがとれなくなる。犯人が殺人犯として処刑されてしまうことがこわくなる。それは孤独で傷つきやすいカポーティのこころそのものが犯人の肉体と一緒に処刑されることになるからだ。だが、同時に、どこかで犯人の処刑をも待ち望む そして、ついにその日はやってくる。カポーティは犯人の処刑に立ち会う。犯人は孤独で傷つきやすいこころのまま死んでいった。その犯人を描いたとき、カポーティの孤独と傷つきやすいこころも死んでしまった。
 映画のラストで、カポーティは、彼を支え続けた女性作家から「犯人の命をこころから救おうとはしなかったのではないか。そういうことを望んではいなかったのではないか」というようなことを指摘される。一家4人斬殺事件を描くことで犯人の孤独なこころを描こうとして、それを描いた瞬間、カポーティは犯人とこころを通い合わせるというよりも、その孤独なこころそのものになってしまい、結局のところ、犯人が4人を殺すようにカポーティは犯人を死刑に至らせてしまう。書きたいという欲望が勝手に動いていって、カポーティ自身でおさえきれなくなってしまう。
 書くことをとおしてカポーティ自身がそれまでのカポーティではなくなってしまったのである。(カポーティは「冷血」を書いたあと小説が書けなくなった。)

 この張りつめた変化を、カメラはとてつもなく静かな映像で表現する。
 冒頭、惨劇のあったカンザスの田舎が、朝の張りつめた空気とともに描かれる。空気すら微動だにしないという映像である。人が歩けば、空気そのものが、まるで鉱物のように、肌につきささってくるような硬質な映像である。その美しく静かな風景の奥に、実は無残な他殺体がある。他殺体があるまえと、殺人が起きてしまったあとでも、そういう「事件」とは無関係に、自然は整然としている。まるでなにもなかったかのようである。
 しかし、この静かな空気のなかに無残な死体があるのだと思ってみると、張りつめた空気、黒い木々のシルエット、草の深い色--そうしたものすべてが、死体があるがゆえの緊張した静けさなのだとわかる。殺された4人の声にならない悲鳴が空気そのものとなって世界を凍らせているようである。
 同じように、ニューヨークでは喧騒の中ではしゃぎ、犯人との対話のときはただただ静かに犯人に接近していくカポーティも、一見しただけでは、その姿勢がかわらないかのようにみえる。いつもとそっくりのカポーティにみえるかもしれない。しかし、犯人のこころに触れたと感じ、そのこころを書けるという歓喜が、ことばを書いているという不気味な歓喜が、その底に隠されているとわかれば、その喧騒も、その静けさも、またまったく違ったものになってみえる。
 カポーティは小説の完成した部分を出版社に渡し、朗読会も開く。しかし、犯人にはまだ書いていないと嘘をつく。捜査官にタイトルは「冷血」だと嬉々として告げる。そうした一瞬一瞬に、それが静かな、ほとんど動きのない映像であるにもかかわらずというか、動きなのない映像だからこそ、カポーティが人間として狂い始めているという姿が見える。隠された狂いが見え始める。狂いを映像化するのではなく、狂いを排除し、静かに、張りつめた映像を連続させることで、その奥にひそむ無残な血のようなものを感じさせる。
 とりわけ犯人との対話のシーンの静かな描写は、冒頭の張りつめたカンザスの風景を常に思い起こさせ、強烈である。張りつめて動かない映像が、その奥にひそむ劇的変化をつねに暗示するのである。

 この冷酷ともいえるカメラに対し、しっかり向き合ったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技はすばらしい。無邪気さと冷静さ、無邪気な好奇心と残酷さ、それが現実を深く暴き出し、そのことゆえに狂っていく(いままでの自分の領域をはみだしてしまう)人間をリアルに演じている。
 彼を支える女性作家を演じたキャサリン・キーナーもすばらしい。彼女はカポーティと違って書くことによって自分自身を逸脱してしまう人間ではない。常に自分というものがある。自分というよりも、世間と自分をつなぐものがある。世間の中で自分を定着させる力がある。彼女のそういう演技に支えられて、フィリップ・シヒモア・ホフマンの演技がよりいっそう陰影を獲得する。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする