中尾太一「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」(「現代詩手帖」11月号)。
「現代詩新人賞受賞作」である。14篇からなる作品集。その冒頭の「聖エルモのながく、あかるい遺言」の冒頭。(本文は横書き。私がインターネットで引用している作品はほとんどが縦書きを便宜上横書きにしているが、この作品はもともと横書き。)
こうした作品を読むと、詩とはけっきょくことばなのだ、と詩人たちのあいだで判断されていることがわかる。意味(論理)でも思想でもなく、ただことばであること。意味や思想を排除し、ことばが単独にことばとしてそこに存在すること。ことばから意味・思想を排除し、ナンセンスなことばそのものを屹立させることが詩である。なぜなら、詩は作者の側にあるのではなく、書かれた瞬間から、それは読者の側にあるものだからである。
詩は、それが何語で書かれていようが「外国語」である。どこの国にも属さない、つまり集団に属さず、ただ個人にのみ属するという意味で、完全な「外国語」である。
どういう外国語であっても、そのことばのなかには必ずわかることばが存在する。特に日常というか、実際に人と人とが接する場所では、どんな外国語であっても意味がわかることば、翻訳可能なことばがある。「わたし」とか「あなた」とか「みず」とかである。「わたし」に対応する存在があり、「あなた」に対応する存在があり、「みず」に対応する存在がある。そういうものを肉眼で見て、手で触って、つまり肉体で接して、私たちは「外国語」を「母国語」に翻訳する。たいがいの場合は、「翻訳」という意識もないまま、ことばと存在を「外国語」のまま肉体に取り込んでいく。
そういう原始的な(?)ことばと肉体の出会い--そのなかでの肉体と意識の生成の瞬間。そういうものをめざしているのが詩である。たぶん、これが現在の詩人たちに共有されている「詩意識」のひとつであるだろう。そういう「詩意識」の網に、中尾の作品は、たしかにひっかかるものを持っていると思う。
そういう意識の上に立って書くのだが、この作品の冒頭の部分を読んだとき、私が最初に感じたのは「短歌」のうねりである。中尾のことばによって覚醒される私の意識があるとすれば、それは、このことばのリズム、うねりが、俳句でもなければ、漢文でもない。翻訳調の文体でもない。日常の会話の文体でもない。科学論文の文体でもない。
短歌(和歌)は私の印象(私は短歌を実のところ知っているわけではない)では、ことばがうねる。どこか寄り道をしながら、その寄り道をするところに「私」というものを出していく。ただしその「私」は完全に孤立した「私」ではなく、読者となんらかな共通認識をもった「私」である。共通認識を土台にしながら、その土台からはみだしていくものを「私」として表現していく。そのときの「うねり」の構造が「短歌」というものだろうと私は思っている。
それに似たものを中尾のことばには感じるのだ。
いい例が思いつかないのだが、とりあえず強引に私の印象を書いてみる。
私が犬と散歩する公園に万葉の石碑がある。その歌。「今よりは秋づきぬらしあしびきの山松かげにひぐらしの鳴く」。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。私が「寄り道」というのは、この「あしびきの」という枕詞である。それが「山」にかかるということは万葉人の共通認識である。そこを寄り道するからこそ、その後のことばが無意識に(たぶん無意識に)動く。単に動くだけではなく、加速して動く。その「寄り道」と加速の加減に似たものが、中尾のことばに感じられる。
たとえば冒頭の1行目。そのなかほどにある、「人の場合」。「人」とは何か。私たちは日常特別意識的には考えない。しかし、人が「両手」を持っていることを知っている。肉体を持っていることを知っている。目を持っていて、何かを見るということを日常的にしていることを知っている。ときには忍耐する存在であることを知っている。「山」の枕詞の「あしびきの」ではないけれど、「人間」ということばには何か共有された認識がある。だからこそ、そのことばを中尾は経由する。「人間」を「寄り道」として活用する。
そして2行目で加速する。「あなた」という「人」にとっての必然的なものを引き寄せながら、「別離」という短歌的抒情へ突き進む。そして、その短歌的抒情がつぎつぎに「あなた」に付随するものを、人間に付随する「両手」のように繰り広げ、そこに時間と空間をつくっていく。加速し、拡大する。たとえば、先の2行のすぐ先には「部屋」に「婚姻」というルビがふられたことばがあったりする。
そのことばは中尾が選択したものもあれば、ことばが中尾を選択したものもあるだろうと思う。ことばの運動が自律的に呼び寄せてしまったことばもあるだろうと思う。そういう意味から言えば、中尾の「詩」は21世紀の清水昶といえるかもしれない。「寄り道」しながら詩人がことばを選ぶのか、寄り道が抱え込んでいることばが詩人をひっぱっていくのか……たぶん、その両方なのだと思う。両方だからこそ、加速するのだろう。
中尾の詩はどれもおもしろい。たしかにおもしろいと思う。しかし、私が、きのう藤井五月の詩がいちばんおもしろいと感じたのは、実は、中尾のことばには「くじら設計集団」というような不透明なことばが見当たらないからだ。
中尾がことばを選ぶのか、ことばが中尾を選ぶのか、と書いたが、その、ことばが中尾を選ぶ部分が「透明」なのである。「あしびきの」ということばと同じように、そのことばをうまくは説明できないけれど(説明する必要もないけれど)、あることばが別のことばを選ぶ幅が「透明」すぎるような気がするのである。「あなた」が「部屋」(婚姻)を選ぶのは、ごく自然的でありすぎて、そこには人を知らないあいだに引き込んでしまう抒情はあるけれど、人をつまずかせる違和感がない。抒情は気分よく酔わせてくれる。二日酔いのような不愉快なものがない。しかし、二日酔いのような不愉快なものがない酔いがほんとうの酔いなのかどうかというと、なんだか違う気もするのである。
時代にあった、うまい詩を読んでしまったなあ、読まされてしまったなあ、という気持ちがどこかに残る。
「現代詩新人賞受賞作」である。14篇からなる作品集。その冒頭の「聖エルモのながく、あかるい遺言」の冒頭。(本文は横書き。私がインターネットで引用している作品はほとんどが縦書きを便宜上横書きにしているが、この作品はもともと横書き。)
望遠鏡でのぞいた草原のむかしを小さな鯨が群れをなして飛躍し、人の場合、その光景を伝達することなく両手で、ただ高く翳していくことが忍耐だった
おそらくは満ちていくための、つまりあなたと完全に離別するための努力を人という境界に残しその、途中まで描かれた「弧」で引き絞る「文」を天狼に向けていた
こうした作品を読むと、詩とはけっきょくことばなのだ、と詩人たちのあいだで判断されていることがわかる。意味(論理)でも思想でもなく、ただことばであること。意味や思想を排除し、ことばが単独にことばとしてそこに存在すること。ことばから意味・思想を排除し、ナンセンスなことばそのものを屹立させることが詩である。なぜなら、詩は作者の側にあるのではなく、書かれた瞬間から、それは読者の側にあるものだからである。
詩は、それが何語で書かれていようが「外国語」である。どこの国にも属さない、つまり集団に属さず、ただ個人にのみ属するという意味で、完全な「外国語」である。
どういう外国語であっても、そのことばのなかには必ずわかることばが存在する。特に日常というか、実際に人と人とが接する場所では、どんな外国語であっても意味がわかることば、翻訳可能なことばがある。「わたし」とか「あなた」とか「みず」とかである。「わたし」に対応する存在があり、「あなた」に対応する存在があり、「みず」に対応する存在がある。そういうものを肉眼で見て、手で触って、つまり肉体で接して、私たちは「外国語」を「母国語」に翻訳する。たいがいの場合は、「翻訳」という意識もないまま、ことばと存在を「外国語」のまま肉体に取り込んでいく。
そういう原始的な(?)ことばと肉体の出会い--そのなかでの肉体と意識の生成の瞬間。そういうものをめざしているのが詩である。たぶん、これが現在の詩人たちに共有されている「詩意識」のひとつであるだろう。そういう「詩意識」の網に、中尾の作品は、たしかにひっかかるものを持っていると思う。
そういう意識の上に立って書くのだが、この作品の冒頭の部分を読んだとき、私が最初に感じたのは「短歌」のうねりである。中尾のことばによって覚醒される私の意識があるとすれば、それは、このことばのリズム、うねりが、俳句でもなければ、漢文でもない。翻訳調の文体でもない。日常の会話の文体でもない。科学論文の文体でもない。
短歌(和歌)は私の印象(私は短歌を実のところ知っているわけではない)では、ことばがうねる。どこか寄り道をしながら、その寄り道をするところに「私」というものを出していく。ただしその「私」は完全に孤立した「私」ではなく、読者となんらかな共通認識をもった「私」である。共通認識を土台にしながら、その土台からはみだしていくものを「私」として表現していく。そのときの「うねり」の構造が「短歌」というものだろうと私は思っている。
それに似たものを中尾のことばには感じるのだ。
いい例が思いつかないのだが、とりあえず強引に私の印象を書いてみる。
私が犬と散歩する公園に万葉の石碑がある。その歌。「今よりは秋づきぬらしあしびきの山松かげにひぐらしの鳴く」。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。私が「寄り道」というのは、この「あしびきの」という枕詞である。それが「山」にかかるということは万葉人の共通認識である。そこを寄り道するからこそ、その後のことばが無意識に(たぶん無意識に)動く。単に動くだけではなく、加速して動く。その「寄り道」と加速の加減に似たものが、中尾のことばに感じられる。
たとえば冒頭の1行目。そのなかほどにある、「人の場合」。「人」とは何か。私たちは日常特別意識的には考えない。しかし、人が「両手」を持っていることを知っている。肉体を持っていることを知っている。目を持っていて、何かを見るということを日常的にしていることを知っている。ときには忍耐する存在であることを知っている。「山」の枕詞の「あしびきの」ではないけれど、「人間」ということばには何か共有された認識がある。だからこそ、そのことばを中尾は経由する。「人間」を「寄り道」として活用する。
そして2行目で加速する。「あなた」という「人」にとっての必然的なものを引き寄せながら、「別離」という短歌的抒情へ突き進む。そして、その短歌的抒情がつぎつぎに「あなた」に付随するものを、人間に付随する「両手」のように繰り広げ、そこに時間と空間をつくっていく。加速し、拡大する。たとえば、先の2行のすぐ先には「部屋」に「婚姻」というルビがふられたことばがあったりする。
そのことばは中尾が選択したものもあれば、ことばが中尾を選択したものもあるだろうと思う。ことばの運動が自律的に呼び寄せてしまったことばもあるだろうと思う。そういう意味から言えば、中尾の「詩」は21世紀の清水昶といえるかもしれない。「寄り道」しながら詩人がことばを選ぶのか、寄り道が抱え込んでいることばが詩人をひっぱっていくのか……たぶん、その両方なのだと思う。両方だからこそ、加速するのだろう。
中尾の詩はどれもおもしろい。たしかにおもしろいと思う。しかし、私が、きのう藤井五月の詩がいちばんおもしろいと感じたのは、実は、中尾のことばには「くじら設計集団」というような不透明なことばが見当たらないからだ。
中尾がことばを選ぶのか、ことばが中尾を選ぶのか、と書いたが、その、ことばが中尾を選ぶ部分が「透明」なのである。「あしびきの」ということばと同じように、そのことばをうまくは説明できないけれど(説明する必要もないけれど)、あることばが別のことばを選ぶ幅が「透明」すぎるような気がするのである。「あなた」が「部屋」(婚姻)を選ぶのは、ごく自然的でありすぎて、そこには人を知らないあいだに引き込んでしまう抒情はあるけれど、人をつまずかせる違和感がない。抒情は気分よく酔わせてくれる。二日酔いのような不愉快なものがない。しかし、二日酔いのような不愉快なものがない酔いがほんとうの酔いなのかどうかというと、なんだか違う気もするのである。
時代にあった、うまい詩を読んでしまったなあ、読まされてしまったなあ、という気持ちがどこかに残る。