詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」

2006-10-30 23:11:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 中尾太一「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」(「現代詩手帖」11月号)。
 「現代詩新人賞受賞作」である。14篇からなる作品集。その冒頭の「聖エルモのながく、あかるい遺言」の冒頭。(本文は横書き。私がインターネットで引用している作品はほとんどが縦書きを便宜上横書きにしているが、この作品はもともと横書き。)

望遠鏡でのぞいた草原のむかしを小さな鯨が群れをなして飛躍し、人の場合、その光景を伝達することなく両手で、ただ高く翳していくことが忍耐だった
おそらくは満ちていくための、つまりあなたと完全に離別するための努力を人という境界に残しその、途中まで描かれた「弧」で引き絞る「文」を天狼に向けていた

 こうした作品を読むと、詩とはけっきょくことばなのだ、と詩人たちのあいだで判断されていることがわかる。意味(論理)でも思想でもなく、ただことばであること。意味や思想を排除し、ことばが単独にことばとしてそこに存在すること。ことばから意味・思想を排除し、ナンセンスなことばそのものを屹立させることが詩である。なぜなら、詩は作者の側にあるのではなく、書かれた瞬間から、それは読者の側にあるものだからである。
 詩は、それが何語で書かれていようが「外国語」である。どこの国にも属さない、つまり集団に属さず、ただ個人にのみ属するという意味で、完全な「外国語」である。
 どういう外国語であっても、そのことばのなかには必ずわかることばが存在する。特に日常というか、実際に人と人とが接する場所では、どんな外国語であっても意味がわかることば、翻訳可能なことばがある。「わたし」とか「あなた」とか「みず」とかである。「わたし」に対応する存在があり、「あなた」に対応する存在があり、「みず」に対応する存在がある。そういうものを肉眼で見て、手で触って、つまり肉体で接して、私たちは「外国語」を「母国語」に翻訳する。たいがいの場合は、「翻訳」という意識もないまま、ことばと存在を「外国語」のまま肉体に取り込んでいく。
 そういう原始的な(?)ことばと肉体の出会い--そのなかでの肉体と意識の生成の瞬間。そういうものをめざしているのが詩である。たぶん、これが現在の詩人たちに共有されている「詩意識」のひとつであるだろう。そういう「詩意識」の網に、中尾の作品は、たしかにひっかかるものを持っていると思う。

 そういう意識の上に立って書くのだが、この作品の冒頭の部分を読んだとき、私が最初に感じたのは「短歌」のうねりである。中尾のことばによって覚醒される私の意識があるとすれば、それは、このことばのリズム、うねりが、俳句でもなければ、漢文でもない。翻訳調の文体でもない。日常の会話の文体でもない。科学論文の文体でもない。
 短歌(和歌)は私の印象(私は短歌を実のところ知っているわけではない)では、ことばがうねる。どこか寄り道をしながら、その寄り道をするところに「私」というものを出していく。ただしその「私」は完全に孤立した「私」ではなく、読者となんらかな共通認識をもった「私」である。共通認識を土台にしながら、その土台からはみだしていくものを「私」として表現していく。そのときの「うねり」の構造が「短歌」というものだろうと私は思っている。
 それに似たものを中尾のことばには感じるのだ。

 いい例が思いつかないのだが、とりあえず強引に私の印象を書いてみる。
 私が犬と散歩する公園に万葉の石碑がある。その歌。「今よりは秋づきぬらしあしびきの山松かげにひぐらしの鳴く」。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。私が「寄り道」というのは、この「あしびきの」という枕詞である。それが「山」にかかるということは万葉人の共通認識である。そこを寄り道するからこそ、その後のことばが無意識に(たぶん無意識に)動く。単に動くだけではなく、加速して動く。その「寄り道」と加速の加減に似たものが、中尾のことばに感じられる。
 たとえば冒頭の1行目。そのなかほどにある、「人の場合」。「人」とは何か。私たちは日常特別意識的には考えない。しかし、人が「両手」を持っていることを知っている。肉体を持っていることを知っている。目を持っていて、何かを見るということを日常的にしていることを知っている。ときには忍耐する存在であることを知っている。「山」の枕詞の「あしびきの」ではないけれど、「人間」ということばには何か共有された認識がある。だからこそ、そのことばを中尾は経由する。「人間」を「寄り道」として活用する。
 そして2行目で加速する。「あなた」という「人」にとっての必然的なものを引き寄せながら、「別離」という短歌的抒情へ突き進む。そして、その短歌的抒情がつぎつぎに「あなた」に付随するものを、人間に付随する「両手」のように繰り広げ、そこに時間と空間をつくっていく。加速し、拡大する。たとえば、先の2行のすぐ先には「部屋」に「婚姻」というルビがふられたことばがあったりする。
 そのことばは中尾が選択したものもあれば、ことばが中尾を選択したものもあるだろうと思う。ことばの運動が自律的に呼び寄せてしまったことばもあるだろうと思う。そういう意味から言えば、中尾の「詩」は21世紀の清水昶といえるかもしれない。「寄り道」しながら詩人がことばを選ぶのか、寄り道が抱え込んでいることばが詩人をひっぱっていくのか……たぶん、その両方なのだと思う。両方だからこそ、加速するのだろう。

 中尾の詩はどれもおもしろい。たしかにおもしろいと思う。しかし、私が、きのう藤井五月の詩がいちばんおもしろいと感じたのは、実は、中尾のことばには「くじら設計集団」というような不透明なことばが見当たらないからだ。
 中尾がことばを選ぶのか、ことばが中尾を選ぶのか、と書いたが、その、ことばが中尾を選ぶ部分が「透明」なのである。「あしびきの」ということばと同じように、そのことばをうまくは説明できないけれど(説明する必要もないけれど)、あることばが別のことばを選ぶ幅が「透明」すぎるような気がするのである。「あなた」が「部屋」(婚姻)を選ぶのは、ごく自然的でありすぎて、そこには人を知らないあいだに引き込んでしまう抒情はあるけれど、人をつまずかせる違和感がない。抒情は気分よく酔わせてくれる。二日酔いのような不愉快なものがない。しかし、二日酔いのような不愉快なものがない酔いがほんとうの酔いなのかどうかというと、なんだか違う気もするのである。

 時代にあった、うまい詩を読んでしまったなあ、読まされてしまったなあ、という気持ちがどこかに残る。

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デイヴィッド・エリス監督「スネーク・フライト」

2006-10-30 22:55:17 | 映画
監督 デイヴィッド・エリス 出演 蛇、サミュエル・L・ジャクソン

 映画にはいろいろな種類がある。芸術をめざしたもの、政治的プロパガンダをめざしたもの、性的興奮をめざしたもの(簡単に言えば「ポルノ」のことだけれど)……。芸術を拒否したものをときどきB級映画と言った(今も言うのかどうかは知らない)が、これはなつかしいなつかしいB級映画をめざし、一片の芸術性もまじえずにおわる正真正銘のB級映画である。
 毒蛇によるハイジャックという発想の奇抜さ。そして、それを彩るパニックの、あくまでありきたりな描き方。乗客のなかの悪役と善人の描きわけ方。セックスのちらつかせ方……。
 そうしたことは、たぶん映画好きな人ならだれでも書いているだろうから、私は別なことを書こうと思う。
 私は2か所で笑いをこらえることができなかった。どちらもそのシーンそのものがおかしいというよりも、そのシーンを見た瞬間に、それに先立つ「伏線」を思い出して噴き出しそうになったのである。この映画はとてもとてもとても(3回繰り返してもまだ足りないくらい)「伏線」が丁寧に丁寧に張りめぐらされている。
 私が笑いをこらえることができなかった最初のシーンは、サミュエル・L・ジャクソンが銃弾をぶっぱなし窓を破るシーン。空気圧の関係で、なかにいるものが空中へ吸い出されていく。蛇は何かにしがみつくことができずに全部(でもないのだが)、空中へ吸い出されていく。「凶器」がなくなる。--これの「伏線」は乗務員が乗客にシートベルトを絞めるだの、酸素マスクがおりてくるだのの説明をするシーン。こんなことは誰もが知っていてわざわざ映画でみせなくてもいい。しかし、それをわざわざみせているのは、その説明のなかに、はっきりとは記憶していないのだが「窓が破れたら云々」という説明が含まれているからである。もちろん、そういう説明抜きでも、窓が破れたときどうなるかは誰もが知っている。知っているのに、わざわざ「伏線」として、そういうことを映像化してしまうご丁寧さに、思わず笑ってしまうのである。
 もう一つは、ラストのサーフィンのシーン。なんのためにこんなシーンがある? それは最初のシーンが海だからである。どうでもいいことをご丁寧に辻褄をあわせている。わざわざ「伏線」として完成させている。「伏線」を強調している。ハワイ、島、まわりは海だけ。飛行中に何かあっても緊急着陸できる場所はない、という全体のパニックの原因の、蛇以外の「伏線」を、海によってもういちど強調しているのである。
 「ね、いいでしょ、すごいでしょ。伏線だらけでしょ」という脚本家の声が聞こえそうである。
 ハワイならやっぱりレイ、匂いがついているといいでしょ。匂いといえばフェロモン。蛇をフェロモンで狂わせる--そしてそのフェロモンは蛇のフェロモンだから人間は気がつかない。飛行機のなかで空気が循環する。その流れにのってフェロモンはどこまでも広がり、蛇はどこまでもそれを追いかける。すごいアイデアでしょ? そんな声が聞こえてくる映画だ。
 そして、この映画をB級にしているのは、実は、その「声」である。見事な伏線でしょ、と自慢している「声」である。映画には作者の自慢話はいらない。作者の自慢話は映画をつまらなくするだけである。冒頭の海のシーン(付随する海辺のシーン)、乗務員の飛行前の説明シーン、ラストのサーフィンのシーンがなければ、かなりおもしろいB級映画になったと思う。
コメント (1)
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