郡宏暢「マヨネーズ」(「ドッグマン・スープ」3)。
「ドッグマン・スープ」は「ビジュアル系ポエトリー・マガジン」と銘打たれている。カラー印刷で写真がとりこまれ、レイアウトにも工夫が凝らされている。私の「日記」は文字だけである。したがって「ドッグマン・スープ」を紹介するには、たぶん不適切な媒体である。不適切な媒体であることを承知の上で、少しだけ書いておく。
3号には、なぜか真っ白なページがあり、そこに加藤健次、福間健二の作品が載っているが、この2ページを読んだ瞬間、それが「おもしろくない」と感じた。この2作品だけが、ことば以外のものと向き合っていない、対峙していないという印象を与えるのである。作品そのものというよりも、詩の背景に写真がない、カラーのバックがないということが、ことばをむき出しにさせている。ことばは、どんなにむき出しであっても、それぞれのさとばの背後にことばにならない何かを抱え込んでいて、そのことばにならないことばが陰影をつくりだし、書かれたことばを立ち上がらせるのだが、そうした印象が加藤、福間の2作品にはない。これは2人の作品が劣っているということかというと、そうでもない。たぶん、他の作品の掲載方法が強烈であるため、その印象にひきずられてしまって、そういう感じを引き起こすのだろう。詩は、あるときには「媒体」を選ぶということだろう。「媒体」次第で違った表現力を持つということだろう。
「媒体」とことばについて、私はほとんど考えてこなかったので、以上はごくごく単純な第一印象をことばにしただけである。
この雑誌で私がおもしろいと思ったのは郡の作品である。バックの写真とどういう関係があるのかわからないが、というより、背景の写真を無視して、そこにことばと肉体が存在する。たとえば「マヨネーズ」。
ここではあらゆるものが省略されている。「便秘」に「マヨネーズのような美しい排泄」ということばが対峙させられているだけである。だが、この対峙、「便秘」と「マヨネーズのような美しい排泄」という対峙こそが背景の写真と郡のことばの対峙の関係を超える。「マヨネーズのような美しい排便」に健康な命が輝いている。その輝かしさが、ことばそのものの輝きになっている。
「ラーメン」も同じである。
「まずい」というだれもが知っている感覚。それを前面に出して、背景の写真、カラーのバックと対峙する。まず肉体でことばを引き受けようとする。「ビジュアル」とはなにを指してのことなのか、私にはよくわからないが、少なくとも郡はことばを肉体をくぐらせ、その肉体の感覚で読者を引きつけようとしている。
加藤や福間のように「ビジュアル」と対峙することを最初から放棄するのではなく、郡自身と読者を結びつけるだろうフィジカルなものを、「美しい排泄」とか「この味は頭を悪くする! 」というキャッチコピーで前面に出す。
他のことばはどうでもいい、というと郡に叱られるかもしれないが、「マヨネーズのように美しい排便」「この味は頭を悪くする! 」という、直接肉体に響いてくる行によって、2作品は詩になっている。ほかの行は、その2行を引き立てるためにあるといっていい。
郡だけが「ビジュアル」と真っ向から闘っているという印象がある。闘う方法を身につけ、そして実践しているように思える。
「ドッグマン・スープ」は「ビジュアル系ポエトリー・マガジン」と銘打たれている。カラー印刷で写真がとりこまれ、レイアウトにも工夫が凝らされている。私の「日記」は文字だけである。したがって「ドッグマン・スープ」を紹介するには、たぶん不適切な媒体である。不適切な媒体であることを承知の上で、少しだけ書いておく。
3号には、なぜか真っ白なページがあり、そこに加藤健次、福間健二の作品が載っているが、この2ページを読んだ瞬間、それが「おもしろくない」と感じた。この2作品だけが、ことば以外のものと向き合っていない、対峙していないという印象を与えるのである。作品そのものというよりも、詩の背景に写真がない、カラーのバックがないということが、ことばをむき出しにさせている。ことばは、どんなにむき出しであっても、それぞれのさとばの背後にことばにならない何かを抱え込んでいて、そのことばにならないことばが陰影をつくりだし、書かれたことばを立ち上がらせるのだが、そうした印象が加藤、福間の2作品にはない。これは2人の作品が劣っているということかというと、そうでもない。たぶん、他の作品の掲載方法が強烈であるため、その印象にひきずられてしまって、そういう感じを引き起こすのだろう。詩は、あるときには「媒体」を選ぶということだろう。「媒体」次第で違った表現力を持つということだろう。
「媒体」とことばについて、私はほとんど考えてこなかったので、以上はごくごく単純な第一印象をことばにしただけである。
この雑誌で私がおもしろいと思ったのは郡の作品である。バックの写真とどういう関係があるのかわからないが、というより、背景の写真を無視して、そこにことばと肉体が存在する。たとえば「マヨネーズ」。
一九六四年
便秘は東京オリンピックからはじまった
見識を持たない肉体の
マヨネーズのような美しい排泄は
もう無い
ここではあらゆるものが省略されている。「便秘」に「マヨネーズのような美しい排泄」ということばが対峙させられているだけである。だが、この対峙、「便秘」と「マヨネーズのような美しい排泄」という対峙こそが背景の写真と郡のことばの対峙の関係を超える。「マヨネーズのような美しい排便」に健康な命が輝いている。その輝かしさが、ことばそのものの輝きになっている。
「ラーメン」も同じである。
兄弟は
叩きつけた
ぶちまけた
「この味は頭を悪くする! 」
と
世界は夜を噛み
ナイター中継は宙に翻った
店主は
中華包丁を握って明確な意志を示していた。
(略)
なあ兄弟
わかってくれ
これは
このまずいラーメンを
死ぬほど食って
死ぬほど飲んで
骨まで愛して
尻の先でプリプリ言わせながら
みなんそろって
そういう正気の沙汰で
頭を悪くするゲームなのだ
確かに
正義はお前の目の前にあった
しかしそんなもので
このまずいラーメンが美味くなるわけでも
そして俺たちの手に
この世界が戻ってくるはずも無い、のに
「まずい」というだれもが知っている感覚。それを前面に出して、背景の写真、カラーのバックと対峙する。まず肉体でことばを引き受けようとする。「ビジュアル」とはなにを指してのことなのか、私にはよくわからないが、少なくとも郡はことばを肉体をくぐらせ、その肉体の感覚で読者を引きつけようとしている。
加藤や福間のように「ビジュアル」と対峙することを最初から放棄するのではなく、郡自身と読者を結びつけるだろうフィジカルなものを、「美しい排泄」とか「この味は頭を悪くする! 」というキャッチコピーで前面に出す。
他のことばはどうでもいい、というと郡に叱られるかもしれないが、「マヨネーズのように美しい排便」「この味は頭を悪くする! 」という、直接肉体に響いてくる行によって、2作品は詩になっている。ほかの行は、その2行を引き立てるためにあるといっていい。
郡だけが「ビジュアル」と真っ向から闘っているという印象がある。闘う方法を身につけ、そして実践しているように思える。