エリベルト・イェペス「ヴェトナム帰還兵のトラウマ」(越川芳明訳)(「現代詩手帖」10月号)。
一瞬の描写に鋭い思想がこめられている。
おわりから2行目の「平等に」。
このことばの深みは、この詩だけではつたわらないかもしれない。アメリカの国境に近い街。そこにアメリカは楽々と越境してきている。一方、メキシコからアメリカへの越境は簡単ではない。「不平等」がそこには存在する。「不平等」だからこそ、不平等への怒りがさまざまな形で噴出する。「泥棒」「スリ」「変態」。それらは自己を存在させるための明確な方法なのだ。明確すぎるから他人から嫌われる。嫌うということをたてにとって「警察」という自己保存の形も生まれる。そこではあらゆることが「矛盾」として存在し、「矛盾」がエネルギーになっている。「矛盾」は「平等」への渇望が引き起こす運動である。
見えない「平等」が「不平等」の顕現の奥に横たわっている。「平等」への渇望が中南米の太陽のようにぎらついている。
そんな場で、誰の目にも見える「平等」は肉体の反応である。体が受け付けないものがある。肉体はそういうものを吐き出して自己の肉体を防御しようとする。「レバー炒め」。それは誰の体にもあわない。そのために誰もが吐き気に襲われている。その瞬間、「国帰還兵」「移民」「警察」「泥棒」「変態」「スリ」の区別はない。区別がないことが「平等」である。
しかし、この詩は、そんな単純な肉体の「平等」だけを描いているのだろうか。国境を挟んで対立する二つの世界。「不平等」への怒り。そょ一方で、人間は同じ肉体を生きている、腐った(?)レバー炒めを食べれば誰でもが吐き出してしまうという「平等」さ。そんなものを明るみに出すだけなのだろうか。
「ヴェトナム帰還兵」ということばが指し示すものをしっかりと掴まなければならないのかもしれない。アメリカから出発し、ベトナムに侵入し、そして帰ってきた人間。「越境」の体験者。「越境」することで肉体がかわってしまった人間。
なぜ彼らはアメリカではなく、国境を越えてメキシコの街にいるのか。メキシコからアメリカへ越境しようとする人がひしめく街にいるのか。「越境」が肉体を新しい世界(それが「天国」か「地獄」かはわからない)へ覚醒させる、幻惑させる、その一瞬の力に酔ってしまうためではないだろうか。
どこの世界にも、自分が属する世界から「越境」して行きたい欲望に突き動かされる人間がいる。それは「精神」というよりも、ほとんど肉体そのものの欲望である。肉体そのもののの欲望だから制御がきかない。肉体が、「越境」という行動をとってしまうのである。
「吐き気」。それは人間が異物を吐き出そうとしているのか、それとも異物が人間の肉体を嫌ってみずから出ていこうとしているのか。私はときどきそんな疑問にかられる。特に吐き気がおわったあとの一瞬、その透明な時間に、もしかするとこれは「異物」と私がかってに名付けたものが、私の体を脱出していこうとしていたのではないか。苦しんでいたのは私ではなく「異物」の方であったかもしれない、と一瞬、思う。
肉体も「異物」も「平等」なのである。
ヴェトナムという「越境」を体験した肉体には、「レバー炒め」が「異物」であったのか、それとも「レバー炒め」にとって「ヴェトナム帰還兵」の異様な体験をした肉体が「異物」であったのか、それはわからない。
最初に私は「レバー炒め」が「異物」であり、それは「ヴェトナム帰還兵」にも「移民」にも「警察」にも「泥棒」にも「平等」に作用すると書いたが、それは本当は違っているかもしれない。肉体の反応が同じであるからといって肉体がかかえる問題が同じとは限らないかもしれない。
「平等」ということばは、一見、肉体の反応する力が誰にでも「平等」にそなわっているような印象を与えるが、そうではないのかもしれない。一見同じ反応に見せかけながら、本当は、それがなぜ「平等」に見えてしまうのかを問うているのかもしれない。「ヴェトナム帰還兵」の肉体と「移民」の肉体が「平等」であっていいのか。それはアメリカへと「越境」することは「ヴェトナム帰還兵」の肉体になることか、という問いにも繋がるかもしれない。「越境」してしまえば、誰もが「平等」に「ヴェトナム帰還兵」になりうるという危険性を、この詩は指摘しているかもしれない。
「平等に」。その短いことばにこめられている内容は、わかったようでわからない。複雑である。もしかすると「矛盾」している。「矛盾」を内包しているから、それは「思想」なのであり、同時に「詩」なのである。
一瞬の描写に鋭い思想がこめられている。
オアハカのミシュテカ族の移民たち
ティファナの
〈ソーナ・ノルテ〉の
酒場の
酔っぱらいども
妖しげなナイトクラブが
ただで出してくれた
レバー炒めを吐き出している
米国のヴェトナム帰還兵たちと
オアハカの移民たち
警察も泥棒も変態も
スリたちも
平等に
吐き気に襲われる
おわりから2行目の「平等に」。
このことばの深みは、この詩だけではつたわらないかもしれない。アメリカの国境に近い街。そこにアメリカは楽々と越境してきている。一方、メキシコからアメリカへの越境は簡単ではない。「不平等」がそこには存在する。「不平等」だからこそ、不平等への怒りがさまざまな形で噴出する。「泥棒」「スリ」「変態」。それらは自己を存在させるための明確な方法なのだ。明確すぎるから他人から嫌われる。嫌うということをたてにとって「警察」という自己保存の形も生まれる。そこではあらゆることが「矛盾」として存在し、「矛盾」がエネルギーになっている。「矛盾」は「平等」への渇望が引き起こす運動である。
見えない「平等」が「不平等」の顕現の奥に横たわっている。「平等」への渇望が中南米の太陽のようにぎらついている。
そんな場で、誰の目にも見える「平等」は肉体の反応である。体が受け付けないものがある。肉体はそういうものを吐き出して自己の肉体を防御しようとする。「レバー炒め」。それは誰の体にもあわない。そのために誰もが吐き気に襲われている。その瞬間、「国帰還兵」「移民」「警察」「泥棒」「変態」「スリ」の区別はない。区別がないことが「平等」である。
しかし、この詩は、そんな単純な肉体の「平等」だけを描いているのだろうか。国境を挟んで対立する二つの世界。「不平等」への怒り。そょ一方で、人間は同じ肉体を生きている、腐った(?)レバー炒めを食べれば誰でもが吐き出してしまうという「平等」さ。そんなものを明るみに出すだけなのだろうか。
「ヴェトナム帰還兵」ということばが指し示すものをしっかりと掴まなければならないのかもしれない。アメリカから出発し、ベトナムに侵入し、そして帰ってきた人間。「越境」の体験者。「越境」することで肉体がかわってしまった人間。
なぜ彼らはアメリカではなく、国境を越えてメキシコの街にいるのか。メキシコからアメリカへ越境しようとする人がひしめく街にいるのか。「越境」が肉体を新しい世界(それが「天国」か「地獄」かはわからない)へ覚醒させる、幻惑させる、その一瞬の力に酔ってしまうためではないだろうか。
どこの世界にも、自分が属する世界から「越境」して行きたい欲望に突き動かされる人間がいる。それは「精神」というよりも、ほとんど肉体そのものの欲望である。肉体そのもののの欲望だから制御がきかない。肉体が、「越境」という行動をとってしまうのである。
「吐き気」。それは人間が異物を吐き出そうとしているのか、それとも異物が人間の肉体を嫌ってみずから出ていこうとしているのか。私はときどきそんな疑問にかられる。特に吐き気がおわったあとの一瞬、その透明な時間に、もしかするとこれは「異物」と私がかってに名付けたものが、私の体を脱出していこうとしていたのではないか。苦しんでいたのは私ではなく「異物」の方であったかもしれない、と一瞬、思う。
肉体も「異物」も「平等」なのである。
ヴェトナムという「越境」を体験した肉体には、「レバー炒め」が「異物」であったのか、それとも「レバー炒め」にとって「ヴェトナム帰還兵」の異様な体験をした肉体が「異物」であったのか、それはわからない。
最初に私は「レバー炒め」が「異物」であり、それは「ヴェトナム帰還兵」にも「移民」にも「警察」にも「泥棒」にも「平等」に作用すると書いたが、それは本当は違っているかもしれない。肉体の反応が同じであるからといって肉体がかかえる問題が同じとは限らないかもしれない。
「平等」ということばは、一見、肉体の反応する力が誰にでも「平等」にそなわっているような印象を与えるが、そうではないのかもしれない。一見同じ反応に見せかけながら、本当は、それがなぜ「平等」に見えてしまうのかを問うているのかもしれない。「ヴェトナム帰還兵」の肉体と「移民」の肉体が「平等」であっていいのか。それはアメリカへと「越境」することは「ヴェトナム帰還兵」の肉体になることか、という問いにも繋がるかもしれない。「越境」してしまえば、誰もが「平等」に「ヴェトナム帰還兵」になりうるという危険性を、この詩は指摘しているかもしれない。
「平等に」。その短いことばにこめられている内容は、わかったようでわからない。複雑である。もしかすると「矛盾」している。「矛盾」を内包しているから、それは「思想」なのであり、同時に「詩」なのである。