望月昶孝「牛」(「長帽子」68)。
前半がおもしろい。おもしろいと思った前半だけを引用する。
深夜に伯父を偲んでいると
牛が一頭現われる
蠅がたかって
尻尾を振り回すあめ牛だ
深夜
不意に目覚めて眠れない夜は
牛を見ている
牛の背中の伯父を見ている
自分の無気力を伯父に詫びるのだが
牛の尻尾が邪魔をして
伯父の表情がわからない
牛はその角でこちらを突こうとするが
伯父の手が角に掛かって動かない
何か云うのだが
私の云うことは軽すぎて
飛んで行ってしまう
伯父と牛の関係がまったくわからない。「あめ牛」というのもわからない。きっと飴色をした牛なんだろうと思う。(私の家では昔牛を飼っていた。私の家の牛は黒かったが、なかには茶色っぽい色の牛もいる。きっと、そうした牛を「あめ牛」というのだろうと、私はかってに想像している。)何もわからない上に、どうも私は「伯父」と「あめ牛」を同一の存在と思っているらしい。(とは、無責任な感想だが……。)
伯父は尻尾を振って蠅を追い払っている牛である。私に見えるのは、蠅を追い払っている牛の尻だけである。そういう人間関係(?)というものが、たしかに存在する。どんな表情で蠅を追い払っているのか、それはわからないが、ただ尻尾が蠅を追い払っているその背中(尻)だけを見つめながら、その存在のたしかさを知る、ということがある。私の知らない苦悩とよろこびがある(はずである)。そういうものを実際に知ることは絶対にない。ただ、そこに牛がいるように、牛がいて、尻尾で蠅を追い払っているようにして、ただ存在しているとしか見えない人間がどこかにいて、その存在をただ感嘆して眺めている--そういう人間関係がある。
何か、「放心」を誘うのだ。牛のように、ただどっしりと存在し、まわりにたかる蠅を尻尾で追い払っている。そういうあり方が人間にあってもいいのだ。そういうとんでもないぼんやりした、望月のことばでいえば「無気力」にも似た何かが、「放心」を誘うことがあるのだ。
牛は自堕落に(無気力に--自堕落と無気力はほんとうは違うだろうけれど)、ただ蠅を追い払っているが、それでもその存在は私より大きい。巨大な無気力、巨大な自堕落といってもいい。そうしたものに向き合うと、なぜか「自分の無気力を伯父に詫びるのだが」という気持ちにもなる。自分の無気力、自分の自堕落は、牛の無気力より小さい、牛の自堕落より小さい。そのことを詫びたいという気持ち……。自分は無気力でも自堕落でさえもないという悲しみ。そういうものを、望月の詩を読んでいて、ふいに思い出す。
こんな感傷(センチメンタル)は牛には関係がない。だから牛は振り向かない。同じように伯父も振り向かない。
牛はその角でこちらを突こうとするが
伯父の手が角に掛かって動かない
は、この詩のなかにあって、とても難解な2行である。
牛と伯父が同一人物(?)であるなら、こういう動きは本来ありえない。しかし、ありえないにもかかわらず、この2行を読んでもなお、私には牛と伯父が同一人物に見える。背後から、ただその存在の大きさを見つめるだけの望月に対して、牛は(伯父は)何か否定的なことを言いたい。しかし、それを言わずに、ただだまって自分(牛、伯父)のこころのなかにしまいこみ、無関心を装う。それが「動かない」ということなのだが、この「動かない」のなかにこそ、ほんとうの「動き」がある。振り向いて何か言ってしまうときの動きを超えた拒絶の力がある。存在の力、飴色をした巨大な牛のかたまりとしての力がある。そうしたことが「動かない」にこめられている。
この「動かない」のなかにある絶対的な運動、はげしい拒絶、拒絶を感じさせないほど巨大な存在する力……。そうした力を感じるからこそ、次の3行が成立する。
何か云うのだが
私の云うことは軽すぎて
飛んで行ってしまう
伯父、あめ牛に比べたとき、「私の云うことは軽すぎ」る。この絶望的な体験、その体験ゆえに、望月は深夜に伯父を思い出す。牛を思い出す。そして、その悠然と蠅を尻尾で追い払う姿にみとれる。
この「放心」は少しばかり、私の大好きな詩人、池井昌樹の詩の「放心」に似ている。こういう「放心」に出会うとき、あ、ここに詩人がいると私は思う。詩人の視線、どこまでもどこまでも届いてしまう詩人の視線を感じる。
この詩で残念なのは、望月のことばは、そうした放心から引き返して「意味」を語り始める。そして、せっかくの「詩」を消し去ってしまう。
牛の
腹の中にいる
みたいだ
と最後にもう一度「放心」へ戻ってくるにはくるのだけれど、その戻る過程の道が、どうも「説明」(意味の形成)に終始しているようで、とても残念なのである。「放心」へもどる過程では「牛」が消えてしまっているということが残念なのである。私が最初に引用した行のあとも、ずーっと牛が牛として存在し、そして最後の3行に到達したのなら、とてもすばらしい作品になるのに、と思ってしまう。
そういうことを思わせる楽しさが最初の部分にはある。