新藤凉子『薔薇色のカモメ』(思潮社、2006年10月20日発行)。
何篇かの追悼詩がある。どれも印象的だが、特に「どこへ」がいい。
最終連の「あのひとは きっと言う」の「言う」がいい。「言うだろう」という推量ではなく「言う」という断定がいい。
「あのひと」は亡くなっている。もうことば聞けない。しかし、聞こえる。その声はもしかすると遠いある日、どこかで聞いた声かもしれない。たとえばどこかへ旅をした。その目的地について新藤は不平をもらした。おもしろくない、とか、つまらない、とか。それに対して「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ったのかもしれない。新藤は、そのことばを思い出しているのかもしれない。どこへ行ったにしろ、「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言う。それがこの世のある場所ではなく、死後にしか行けない場所であっても。
その声が聞こえるとき、「あのひと」は死んではいない。今、ここにはない時間のなかから、今という時間のなかによみがえってきている。再生している。その強い実感が「言う」という現在形にあらわれている。「きっと」という強調語にあらわれている。
死と生は不思議な関係にある。死んでしまうと、そのひとには会えない。しかし、死んでしまわないと会えないということもある。
どんな場所へ行っても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってのける「あのひと」に、新藤は、今、詩のなかで出会っているが、もし「あのひと」が死ななければ、そのことばには会えなかっただろう。
もちろん新藤が旅行先で不平をもらすたびに「あのひと」は同じことばを繰り返し新藤を慰めたかもしれない。しかし、それはあくまで新藤への慰めのことばである。「あのひと」の満足をあらわすことばではない。
今、ここで、この詩のなかで、新藤は「あのひと」のことばを満足のことばとして聞いている。満足のことばとしてよみがえらせている。それは「死」が契機になって、満足のことばとして再生しているのである。死んで、その結果、生きるというものもあるのである。
そのことばは、新藤を安心させることばである。同時にそれは新藤が「あの人」に対して祈ることばでもある。どこか理解を超えた場所へ旅立った「あのひと」、そしてたどりついたところがどんな場所であっても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってほしい。そんないつもの「あのひと」であってほしい、という願いが、このことばにこめられている。「きっと言う」にこめられている。
祈りとは、このとき愛の別の呼び方である。
3連目。新藤は問いかけている。
新藤は実はその答えを知っている。
「あのひと」のたましいは、「あのひと」を思い出す今、新藤のそばにある。こころのなかに、というよりも、もっとたしかなところ、その前にある。肉体を持って、目の前にある。「どこへ 越えていったの」と「聞けば」、「あのひと」は「言う」。その声は耳にはっきり聞こえる。そう言うときの顔もはっきり見える。(こういうわかりきったことは、詩には書いてはいないが。)
「たましい」はいつでも肉体に直接働きかけることができる肉体をもってあらわれる。たとえば、耳に聞こえる声をもってあらわれる。3連目の問いかけは、たましいを、そういう肉体としてよみがえらせるための「愛のまじない」のようなものである。そう問いかければ、かならず「たましい」は肉体となってよみがえる。
新藤が生き続ける限り「あのひと」の死はない。死んでしまっても死んではいない。そして新藤も(こんなことを書くと不謹慎だと言われるかもしれないが)、もし新藤が亡くなったとしても、この詩を読むとき、多くのひとの目の前に、「あのひと」と一緒にあらわれるだろう。肉体を、声を、ことばを持って。
愛の詩は、いつでも力強い。いつでも生き続ける。
何篇かの追悼詩がある。どれも印象的だが、特に「どこへ」がいい。
もう これが限界 はっきりした口調で だから安心していた
明晰なエネルギーに満ちたまま あっさりと
この世のとりでを 乗り越えてしまったひとよ
なんでなの どうしてなの 置き去りりにされてしまったと
唇を真一文字に結んでしまったひとの傍らで
凝然と立ちつくした日のこと
いつも はつらつと笑っていた頬や声 光る歯
輪郭のすべて かたちあるものは なくなるとしても
ならば たましいは どのあたりに
残された時間は少ないと 聞かされてはいたけれど
本当には信じていなかった 娘とわたしに『遺言』と言って
「スープの作り方」というレシピを残して逝ったひと
「ぼくの美学に反する」と 止めるのも聞かず
酸素マスクを外したときに 気づくべきだったのに
なにを見て なにを悟って なにを見たくなくなって
どこへ 越えていったの と聞けば
あのひとは きっと言う
どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ。
最終連の「あのひとは きっと言う」の「言う」がいい。「言うだろう」という推量ではなく「言う」という断定がいい。
「あのひと」は亡くなっている。もうことば聞けない。しかし、聞こえる。その声はもしかすると遠いある日、どこかで聞いた声かもしれない。たとえばどこかへ旅をした。その目的地について新藤は不平をもらした。おもしろくない、とか、つまらない、とか。それに対して「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ったのかもしれない。新藤は、そのことばを思い出しているのかもしれない。どこへ行ったにしろ、「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言う。それがこの世のある場所ではなく、死後にしか行けない場所であっても。
その声が聞こえるとき、「あのひと」は死んではいない。今、ここにはない時間のなかから、今という時間のなかによみがえってきている。再生している。その強い実感が「言う」という現在形にあらわれている。「きっと」という強調語にあらわれている。
死と生は不思議な関係にある。死んでしまうと、そのひとには会えない。しかし、死んでしまわないと会えないということもある。
どんな場所へ行っても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってのける「あのひと」に、新藤は、今、詩のなかで出会っているが、もし「あのひと」が死ななければ、そのことばには会えなかっただろう。
もちろん新藤が旅行先で不平をもらすたびに「あのひと」は同じことばを繰り返し新藤を慰めたかもしれない。しかし、それはあくまで新藤への慰めのことばである。「あのひと」の満足をあらわすことばではない。
今、ここで、この詩のなかで、新藤は「あのひと」のことばを満足のことばとして聞いている。満足のことばとしてよみがえらせている。それは「死」が契機になって、満足のことばとして再生しているのである。死んで、その結果、生きるというものもあるのである。
そのことばは、新藤を安心させることばである。同時にそれは新藤が「あの人」に対して祈ることばでもある。どこか理解を超えた場所へ旅立った「あのひと」、そしてたどりついたところがどんな場所であっても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってほしい。そんないつもの「あのひと」であってほしい、という願いが、このことばにこめられている。「きっと言う」にこめられている。
祈りとは、このとき愛の別の呼び方である。
3連目。新藤は問いかけている。
ならば たましいは どのあたりに
新藤は実はその答えを知っている。
「あのひと」のたましいは、「あのひと」を思い出す今、新藤のそばにある。こころのなかに、というよりも、もっとたしかなところ、その前にある。肉体を持って、目の前にある。「どこへ 越えていったの」と「聞けば」、「あのひと」は「言う」。その声は耳にはっきり聞こえる。そう言うときの顔もはっきり見える。(こういうわかりきったことは、詩には書いてはいないが。)
「たましい」はいつでも肉体に直接働きかけることができる肉体をもってあらわれる。たとえば、耳に聞こえる声をもってあらわれる。3連目の問いかけは、たましいを、そういう肉体としてよみがえらせるための「愛のまじない」のようなものである。そう問いかければ、かならず「たましい」は肉体となってよみがえる。
新藤が生き続ける限り「あのひと」の死はない。死んでしまっても死んではいない。そして新藤も(こんなことを書くと不謹慎だと言われるかもしれないが)、もし新藤が亡くなったとしても、この詩を読むとき、多くのひとの目の前に、「あのひと」と一緒にあらわれるだろう。肉体を、声を、ことばを持って。
愛の詩は、いつでも力強い。いつでも生き続ける。