詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新藤凉子『薔薇色のカモメ』

2006-10-25 23:18:38 | 詩集
 新藤凉子薔薇色のカモメ』(思潮社、2006年10月20日発行)。
 何篇かの追悼詩がある。どれも印象的だが、特に「どこへ」がいい。

もう これが限界 はっきりした口調で だから安心していた
明晰なエネルギーに満ちたまま あっさりと
この世のとりでを 乗り越えてしまったひとよ

なんでなの どうしてなの 置き去りりにされてしまったと
唇を真一文字に結んでしまったひとの傍らで
凝然と立ちつくした日のこと

いつも はつらつと笑っていた頬や声 光る歯
輪郭のすべて かたちあるものは なくなるとしても
ならば たましいは どのあたりに

残された時間は少ないと 聞かされてはいたけれど
本当には信じていなかった 娘とわたしに『遺言』と言って
「スープの作り方」というレシピを残して逝ったひと

「ぼくの美学に反する」と 止めるのも聞かず
酸素マスクを外したときに 気づくべきだったのに
なにを見て なにを悟って なにを見たくなくなって

どこへ 越えていったの と聞けば
あのひとは きっと言う
どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ。

 最終連の「あのひとは きっと言う」の「言う」がいい。「言うだろう」という推量ではなく「言う」という断定がいい。
 「あのひと」は亡くなっている。もうことば聞けない。しかし、聞こえる。その声はもしかすると遠いある日、どこかで聞いた声かもしれない。たとえばどこかへ旅をした。その目的地について新藤は不平をもらした。おもしろくない、とか、つまらない、とか。それに対して「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ったのかもしれない。新藤は、そのことばを思い出しているのかもしれない。どこへ行ったにしろ、「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言う。それがこの世のある場所ではなく、死後にしか行けない場所であっても。
 その声が聞こえるとき、「あのひと」は死んではいない。今、ここにはない時間のなかから、今という時間のなかによみがえってきている。再生している。その強い実感が「言う」という現在形にあらわれている。「きっと」という強調語にあらわれている。
 死と生は不思議な関係にある。死んでしまうと、そのひとには会えない。しかし、死んでしまわないと会えないということもある。
 どんな場所へ行っても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってのける「あのひと」に、新藤は、今、詩のなかで出会っているが、もし「あのひと」が死ななければ、そのことばには会えなかっただろう。
 もちろん新藤が旅行先で不平をもらすたびに「あのひと」は同じことばを繰り返し新藤を慰めたかもしれない。しかし、それはあくまで新藤への慰めのことばである。「あのひと」の満足をあらわすことばではない。
 今、ここで、この詩のなかで、新藤は「あのひと」のことばを満足のことばとして聞いている。満足のことばとしてよみがえらせている。それは「死」が契機になって、満足のことばとして再生しているのである。死んで、その結果、生きるというものもあるのである。
 そのことばは、新藤を安心させることばである。同時にそれは新藤が「あの人」に対して祈ることばでもある。どこか理解を超えた場所へ旅立った「あのひと」、そしてたどりついたところがどんな場所であっても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってほしい。そんないつもの「あのひと」であってほしい、という願いが、このことばにこめられている。「きっと言う」にこめられている。
 祈りとは、このとき愛の別の呼び方である。

 3連目。新藤は問いかけている。

ならば たましいは どのあたりに

 新藤は実はその答えを知っている。
 「あのひと」のたましいは、「あのひと」を思い出す今、新藤のそばにある。こころのなかに、というよりも、もっとたしかなところ、その前にある。肉体を持って、目の前にある。「どこへ 越えていったの」と「聞けば」、「あのひと」は「言う」。その声は耳にはっきり聞こえる。そう言うときの顔もはっきり見える。(こういうわかりきったことは、詩には書いてはいないが。)
 「たましい」はいつでも肉体に直接働きかけることができる肉体をもってあらわれる。たとえば、耳に聞こえる声をもってあらわれる。3連目の問いかけは、たましいを、そういう肉体としてよみがえらせるための「愛のまじない」のようなものである。そう問いかければ、かならず「たましい」は肉体となってよみがえる。

 新藤が生き続ける限り「あのひと」の死はない。死んでしまっても死んではいない。そして新藤も(こんなことを書くと不謹慎だと言われるかもしれないが)、もし新藤が亡くなったとしても、この詩を読むとき、多くのひとの目の前に、「あのひと」と一緒にあらわれるだろう。肉体を、声を、ことばを持って。
 愛の詩は、いつでも力強い。いつでも生き続ける。

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パトリス・ルコント監督「親密すぎるうちあけ話」

2006-10-25 20:35:41 | 映画
親密すぎるうちあけ話

監督 パトリス・ルコント 出演 サンドリーヌ・ボネールファブリス・ルキーニ

 女性がセラピストと勘違いして税理士の事務所を訪ねる。そして夫婦間の相談をし始める。そこから始まる中年男のメルヘン。ストーリーは誰もが想像するとおりに進んでいく。そして映像も誰もが想像するとおりの映像が積み重ねられてゆく。
 女性は事務所に入ったとたん、コートを脱ぐのではなく、少し下げてあったファスナーをきっちり上まで上げる。身をしっかり隠す。相談事をするにもかかわらず、身を硬くしている。隠せる部分はすべて隠している。彼女が緊張していることが、この最初の映像からわかる。(注意深い観客なら、それ以前のエレベーターを降りたあと、右左を間違えたところで彼女の緊張を読み取るかもしれない。ただし、これは緊張ではなく、彼女自身の癖であることがあとで彼女自身から語られる。)
 部屋の中で彼女は手袋をしたままたばこを吸う。手さえも彼女は隠している。2回目はきっと手袋を脱ぐ--と誰もが想像すると思う。そして実際に手袋を脱ぐ。女は少しだけ男に対してこころを許したのである。こころの緊張感と、服装のあり方、コートのファスナーをどこまでしめるか、手袋をはずすか、マフラーをはずし、コートを脱ぐかということが、きっちり正比例している。
 男の方も女から指摘されてネクタイをはずしたりする。上着を脱いでひとりでダンスを踊ってみたりもする。
 二人のあいだで語られることばよりも、そうした服装の変化をとおして(つまり、ことばではなく映像で)、ルコントは二人の関係の変化を丁寧に描き出す。それは単に二人のあいだの緊張感がほぐれていくという変化をあらわしているだけではない。女が服を変えてあらわれたとき、男は「服が変わったね」という。男は女のことばを聞いていただけではなく、女のすべて、彼女が何を着ていたか、という肉体にかかわることも丁寧に見ていたのである。「親密すぎるうちあけ話」というタイトルから、「ことば」だけにとらわれると(その打ち明け話の内容にばかり気をとられると)、この映画の楽しみは半減する。
 この映画は「聞く」と同時に「見る」ということ、視線のドラマなのである。それを象徴しているのが「服が変わったね」という男のせりふである。男は女の話を聞くだけではなく、女そのものを見ていたのである。「見る」ということが重要であるからこそ、女の緊張感の変化も、コートのファスナーをしめる、手袋を脱ぐ、マフラーをはずすというような目に見えるものをとおして描かれている。
 ことばではなく「見る」ことに重点があるというのは、たとえば男の秘書の女の描き方でもわかる。秘書は女の打ち明け話を知らない。知らないけれど、女と男のあいだに何が起きつつあるかを、女と男を見るということだけで判断する。人は、ことばではなく、視線だけで「事実」を知ることができる。さらに「のぞき」(?)や尾行でも強調されるのは「見る」という行為である。「見る」ことで人は何かを知るのである。(映画はなにより映像だ--という哲学をルコントは持っているのだと思う。)
 「打ち明け話」と同時に、見ることがこの映画のテーマであることは、男と女の描き方(映像)からもわかる。話を聞くとき、男はほとんど動かない。ただ男の顔、感情を隠して、隠しながらも一種の驚きで眉が少しあがり、目を見開いている顔が、映画というより写真のように固定されたまま映し出される。この映画のなかでは、男も女もほとんど動かない。カメラもほとんど動かない。動くのは、目の奥の感情だけである。感情が動いている(緊張して不自然に止まるということも、その動きのなかには入るのだが)ことが、固まった顔(表情)をとおして表現されている。
 ところが、この顔のアップの映像が最後の最後にきて動く。顔そのものは動かないのだが、フレームが動く。「あ、すごい。やられた」と私は映画監督ではないけれど、思わず叫んでしまいそうになった。同時にうれしくて笑いだしたくなってしまった。幸福になった。
 最後にフレームが揺れる顔--それは、カメラが客観的にとらえた映像ではなく、登場人物(男と女)の視線そのもので見た相手なのである。打ち明け話をする、打ち明け話を聞くという「役割」をはなれて、二人が、その瞬間から恋し始めたということを象徴する映像なのである。恋がはじまる瞬間、視線は相手にじーっとそそがれると同時に、不安ですこし揺らぐ。じーっとみつめながらもためらいもまじり、そのために視線が少しだけ揺れる。その揺れがそのままフレームの揺れとなって表現されている。
 いったん揺れ始めれば、もう大揺れになって、フレームが壊れてしまうまで、つまり自分が自分でなくなってしまうまで、恋のなかに突入していかなければならない。そして映画は実際に恋の成就でおわる。
 この恋が、恋のメルヘンが小説ではなく映画であるのは、二人の人間のこころの変化がことばではなく映像としてきちんと描かれているからである。
 最初の頃の固定された男と女の顔は、カメラが第三者的にとらえたストーリーのための映像ではなく、それはすべて男と女から見た、それぞれの顔だったのである。目の奥に浮かびあがる悲しみ、苦悩、ためらいも、第三者がみつめたものではなく、男と女が、それぞれみつめたものなのである。それが最後の最後になって揺れて、相手が消えてしまう。最後に空っぽのソファーが映し出されるが、それは、そのとき二人がみつめているのはそれまでの二人とは違っている(恋が成就した)ということをあらわしているのである。もう昔の二人ではない。男と女が知っている(そして観客が知っている)男と女ではない。恋のなかで別人に生まれ変わった存在である。生まれ変わった存在であるから、それを過去の二人の映像で表現できない。だから「透明」なのである。
 「打ち明け話」という「ことば」で誘っておいて、あくまで「視線」の物語にしてしまうルコント監督の、楽しい楽しいメルヘン映画であった。
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