池井昌樹「虫飼の子」(読売新聞 2006年10月10日)
息子の視点から描いた自画像である。「虫」とは「詩」である。詩人を「虫飼」と池井は息子に呼ばせている。
「ちち」は3回出てくるが、そのたびに「ちち」ということばが指し示すものが違っている。最初の「ちち」は普通の紹介である。何の意味も含まれていない。「指示代名詞」のようなものである。2回目の「ちち」には批判が含まれている。こうした紹介と反発は、少年にありがちな「ちち」への向き合い方である。
3回目の「ちち」には池井の願いがこめられている。「ちちはいなくて」と息子の思いを池井は代弁しているが、その「いない」という感覚は、夢のなかで「ちち」とであっているからこそ生まれることばである。
現実には息子と「ちち」の和解(?)はないのかもしれない。しかし、いつか、どこかで和解はある。息子と「ちち」は人と人として出会う。
「ちち」と池井は、また、息子の夢のなかのできごとのようにして出会ってきたのだろう。「ちち」とは詩人のことである。それが「だれ」であるかは、池井にはあまり問題ではない。何をしているかが問題である。「ちち」は何をしているか。
2度繰り返される「ききほれている」。そのことばの「ほれている」。さらにそれを強調する「いっしんに」。そのことばのなかに池井は詩人の姿を見ている。我を忘れている。我を失っている。詩人とは我を失って、無防備で存在することができる人のことである。それは池井の理想であり、池井の実践である。
「いつかどこかでであったような」。
詩人はだれであっても「いっしんに」「ほれている」という状態を生きている。それはある特定の人物ではなく、特定の「状態」なのである。だからこそ「いつか」「どこか」ということばが生まれる。「いつか」「どこか」は「いつでも」「どこでも」と同じである。いつでも、どこでも、人が放心し(「いっしんに」と「放心」は池井のなかでは同じ意味のことばである)、何かに熱中していれば、そのとき人は詩人である。
こうしたいつもながらの池井のことばを追いながら、私は、そういう「意味」の部分ではなく、実は、それとは違う部分にとてもこころを動かされた。4行目。
とても美しいことばに出会った、と思った。
「おかわり」が非常に美しい。ご飯を食べる。もう一杯、おかわり。その行為のなかに、食べることを堪能している姿が浮かぶ。夢中で、いっしんで食べている。食べることに「ほれている」。そうした姿が浮かぶ。
「おかわり」とは繰り返すことである。その繰り返しのなかに「いっしんに」「ほれている」という状態が知らず知らずにあらわれている。繰り返すことによって「ほれている」という状態、「いっしんに」という状態が深みを持つ。
繰り返すということは惰性ではない。夢中であるということだ。それは常に新しい瞬間である。
この息子が批判している姿も、実は、「いっしんに」「さけに」あるいは「よう」ということに「ほれている」状態なのである。「さけ」は息子から見れば「いつもの」酒かもしれないが、池井にとってはそのつど違う。酔いもいつも、それぞれ違う。違ったものがそこにあるから、池井は繰り返す。繰り返して、いっしんに、その瞬間、その時間、その状態に「ほれている」といえるまでのめり込む。
そして、ここまで書いてきて思うのだが、「いっしんに」「ほれている」という「放心」を池井はこの詩でも繰り返しているように見えるけれど、実は、それは繰り返しではなく、そのときそのときの新しい「いっしんに」「ほれている」なのだ。
「虫飼」になって、(虫飼というものの存在を知って)、その瞬間からはじまる「いっしんに」「ほれている」--それが今度の詩である。
似ていても違っている。その繰り返しのなかで、その違いを見つめることで、深まっていく「状態」がある。
私たちは、池井に負けないよう、池井の詩を「おかわり」しなければならないのだ。
息子の視点から描いた自画像である。「虫」とは「詩」である。詩人を「虫飼」と池井は息子に呼ばせている。
ちちは虫飼(むしかい)らしいのだけれど
虫飼うところをみたことがない
まいあさおんなじじかんにおきて
いつものようにおかわりをして
いってきますとうちをでて
それからなにをしているんだろう
どこでどうしているんだろう
まいばんおんなじじかんにもどり
いつものようにさけをのみ
いつものようによいつぶれ
いきててなにがたのしいんだろう
あんなやつ
ちちなんかじゃない
いつものようにムカツキながら
ねむりにつくと
虫籠(むしかご)に
ほのぼのとあかりがさして
だれなんだろう
ききほれている
いっしんにききほれている
あのねいろ
あのひとと
いつかどこかでであったような
めざめれば
ちちはいなくて
「ちち」は3回出てくるが、そのたびに「ちち」ということばが指し示すものが違っている。最初の「ちち」は普通の紹介である。何の意味も含まれていない。「指示代名詞」のようなものである。2回目の「ちち」には批判が含まれている。こうした紹介と反発は、少年にありがちな「ちち」への向き合い方である。
3回目の「ちち」には池井の願いがこめられている。「ちちはいなくて」と息子の思いを池井は代弁しているが、その「いない」という感覚は、夢のなかで「ちち」とであっているからこそ生まれることばである。
現実には息子と「ちち」の和解(?)はないのかもしれない。しかし、いつか、どこかで和解はある。息子と「ちち」は人と人として出会う。
「ちち」と池井は、また、息子の夢のなかのできごとのようにして出会ってきたのだろう。「ちち」とは詩人のことである。それが「だれ」であるかは、池井にはあまり問題ではない。何をしているかが問題である。「ちち」は何をしているか。
ききほれている
いっしんにききほれている
2度繰り返される「ききほれている」。そのことばの「ほれている」。さらにそれを強調する「いっしんに」。そのことばのなかに池井は詩人の姿を見ている。我を忘れている。我を失っている。詩人とは我を失って、無防備で存在することができる人のことである。それは池井の理想であり、池井の実践である。
「いつかどこかでであったような」。
詩人はだれであっても「いっしんに」「ほれている」という状態を生きている。それはある特定の人物ではなく、特定の「状態」なのである。だからこそ「いつか」「どこか」ということばが生まれる。「いつか」「どこか」は「いつでも」「どこでも」と同じである。いつでも、どこでも、人が放心し(「いっしんに」と「放心」は池井のなかでは同じ意味のことばである)、何かに熱中していれば、そのとき人は詩人である。
こうしたいつもながらの池井のことばを追いながら、私は、そういう「意味」の部分ではなく、実は、それとは違う部分にとてもこころを動かされた。4行目。
いつものようにおかわりをして
とても美しいことばに出会った、と思った。
「おかわり」が非常に美しい。ご飯を食べる。もう一杯、おかわり。その行為のなかに、食べることを堪能している姿が浮かぶ。夢中で、いっしんで食べている。食べることに「ほれている」。そうした姿が浮かぶ。
「おかわり」とは繰り返すことである。その繰り返しのなかに「いっしんに」「ほれている」という状態が知らず知らずにあらわれている。繰り返すことによって「ほれている」という状態、「いっしんに」という状態が深みを持つ。
繰り返すということは惰性ではない。夢中であるということだ。それは常に新しい瞬間である。
いつものようにさけをのみ
いつものようによいつぶれ
この息子が批判している姿も、実は、「いっしんに」「さけに」あるいは「よう」ということに「ほれている」状態なのである。「さけ」は息子から見れば「いつもの」酒かもしれないが、池井にとってはそのつど違う。酔いもいつも、それぞれ違う。違ったものがそこにあるから、池井は繰り返す。繰り返して、いっしんに、その瞬間、その時間、その状態に「ほれている」といえるまでのめり込む。
そして、ここまで書いてきて思うのだが、「いっしんに」「ほれている」という「放心」を池井はこの詩でも繰り返しているように見えるけれど、実は、それは繰り返しではなく、そのときそのときの新しい「いっしんに」「ほれている」なのだ。
「虫飼」になって、(虫飼というものの存在を知って)、その瞬間からはじまる「いっしんに」「ほれている」--それが今度の詩である。
似ていても違っている。その繰り返しのなかで、その違いを見つめることで、深まっていく「状態」がある。
私たちは、池井に負けないよう、池井の詩を「おかわり」しなければならないのだ。