田代田「どろぼうかささぎ」(「孑孑」65)。
田代のことばは逸脱する。その逸脱が田代の「詩」である。
ロッシーニからパラグライダーに逸脱する。そして、その逸脱は「空想」ではなく「現実」への逸脱である。個人的な体験への逸脱である。固有名詞への逸脱である。
ロッシーニなら誰でも知っている。「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」は誰も知らないといえば語弊があるかもしれないが、彼を知っている読者は少ない。ごく限られている。そのごく限られたものへと田代は逸脱していく。逸脱しながら、そこに個人的な体験、個人的な肉体をもぐりこませる。
たとえば、今引用した行のなかから「個人的な体験」「個人的な肉体」を指摘すれば、ロッシーニの音楽が「お隣にうるさくならないように」である。田代は自分の好みを主張すると同時に、その好みを貫くときに他人に(お隣に)「うるさくならないように」、「迷惑にならないように」気を配っている。気配りが田代の個人的体験であり、個人的に肉体である。そういう個人的肉体が「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」の個人的に体験・肉体と重なり合う。重なり合うから、その重なり合う部分へと逸脱していく。「地域住民に迷惑をかけないように」。
この重なり合い具合、ずれ具合に、田代の「詩」がある。
人間のこころは、別々な場所で同じように動く。たとえば「迷惑をかけないように」という具合に。しかし、そこには「ずれ」がある。「ずれ」のなかに田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」がまったく別人として浮かび上がってくる。そのとき「社会」(世間)が見えてくる。田代は、こうした世間が好きな人間である。世間を通して自分と他者との違いを見つめ、同時に共通する何かを見つける。そして「ああ、やっぱり、だれもかれも、人間なのだなあ」という感慨をひっそりと深めていく。
「迷惑をかけないように」という部分で重なり合った田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」はさらに、重なりを深めていく。つまり人間の、世間のつきあいを深めていく。先の引用部分のあと、3行省略するが、次のようにつづく。
「迷惑をかけないように」、しかし「感動」はしたいのである。感動は個人的なものである。それは個人の感動であるから他人に「迷惑をかける」ことはない……とはいえない。その感動を獲得するために、他者の生活を踏みにじることもあるかもしれない。ロッシーニの音楽の音量が。あるいは墜落するパラグライダーが。
そんなことを思いながら「感動」とは「はじめて」の体験のことであると、田代は「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねて考えるのである。はじめて「溺れる」「犇く」という漢字を見て感じた何か、はじめて空から地上を見たときに感じた何か(それこそ、そこには牛が犇いて、漢字になっているのかもしれない)、はじめて「オンナのアソコ」を見たときに感じた何か……。すべてが「はじめて」である。
こうしたことがらを田代は、抽象的(あるいは形而上学的、芸術的?)に語るのではなく、現実に語られることば、「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねるように逸脱しながら語る。
常に世間に逸脱しながら、そこで自分を立ち上がらせる。世間としての自己こそが自立した自己である、という思想=詩が田代の作品である。
田代のことばは逸脱する。その逸脱が田代の「詩」である。
どろぼうかささぎ
を
梅雨の月
を窓に据え聴いているロッシーニ
序曲集
図書館の借りものである
聴いているがわからないさっぱりわからない
お隣にうりさくならないようにときどきヴォリュームを下げる
下げすぎると全体がもっとわからなくなるうるさくならない
やうに
ヴォリュームを上げる
一度は体験しなくちゃ
と
これはコトシパラグライダーパイロット級
の免許を取得した幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんである
このあいだ落ちてはいけないヤマウルシの樹の上に落ちた
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんは
スキューバダイビングもやっている
この飽食な時代生きとし生きるうちに様々な体験をしておかなくちゃ
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんの信念のようだ
上がったものは必然的に落ちるいや降下する
五井山の頂きから
パラグライダーは降下する地域住民に迷惑をかけないように
間違っても送電線だけは避けるように
ロッシーニからパラグライダーに逸脱する。そして、その逸脱は「空想」ではなく「現実」への逸脱である。個人的な体験への逸脱である。固有名詞への逸脱である。
ロッシーニなら誰でも知っている。「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」は誰も知らないといえば語弊があるかもしれないが、彼を知っている読者は少ない。ごく限られている。そのごく限られたものへと田代は逸脱していく。逸脱しながら、そこに個人的な体験、個人的な肉体をもぐりこませる。
たとえば、今引用した行のなかから「個人的な体験」「個人的な肉体」を指摘すれば、ロッシーニの音楽が「お隣にうるさくならないように」である。田代は自分の好みを主張すると同時に、その好みを貫くときに他人に(お隣に)「うるさくならないように」、「迷惑にならないように」気を配っている。気配りが田代の個人的体験であり、個人的に肉体である。そういう個人的肉体が「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」の個人的に体験・肉体と重なり合う。重なり合うから、その重なり合う部分へと逸脱していく。「地域住民に迷惑をかけないように」。
この重なり合い具合、ずれ具合に、田代の「詩」がある。
人間のこころは、別々な場所で同じように動く。たとえば「迷惑をかけないように」という具合に。しかし、そこには「ずれ」がある。「ずれ」のなかに田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」がまったく別人として浮かび上がってくる。そのとき「社会」(世間)が見えてくる。田代は、こうした世間が好きな人間である。世間を通して自分と他者との違いを見つめ、同時に共通する何かを見つける。そして「ああ、やっぱり、だれもかれも、人間なのだなあ」という感慨をひっそりと深めていく。
「迷惑をかけないように」という部分で重なり合った田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」はさらに、重なりを深めていく。つまり人間の、世間のつきあいを深めていく。先の引用部分のあと、3行省略するが、次のようにつづく。
紫陽花やパラグライダー犇きぬ
十七才で出会った溺れると犇くという漢字には感動したものである
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんは犇いた五井の空から
感動ものですぜ
と空からの風景を熱っぽく語ってくれる
感動という意識からずいぶん遠ざかっている
はじめて見たオンナのアソコに感動したものですぜ
感動とはさうしたものである
「迷惑をかけないように」、しかし「感動」はしたいのである。感動は個人的なものである。それは個人の感動であるから他人に「迷惑をかける」ことはない……とはいえない。その感動を獲得するために、他者の生活を踏みにじることもあるかもしれない。ロッシーニの音楽の音量が。あるいは墜落するパラグライダーが。
そんなことを思いながら「感動」とは「はじめて」の体験のことであると、田代は「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねて考えるのである。はじめて「溺れる」「犇く」という漢字を見て感じた何か、はじめて空から地上を見たときに感じた何か(それこそ、そこには牛が犇いて、漢字になっているのかもしれない)、はじめて「オンナのアソコ」を見たときに感じた何か……。すべてが「はじめて」である。
こうしたことがらを田代は、抽象的(あるいは形而上学的、芸術的?)に語るのではなく、現実に語られることば、「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねるように逸脱しながら語る。
常に世間に逸脱しながら、そこで自分を立ち上がらせる。世間としての自己こそが自立した自己である、という思想=詩が田代の作品である。