豊原清明「優しい珈琲も震えて」(「ポエームTAMA」31)。
豊原のことばは私の想像の領域を超えて動く。たとえば
これは作品の後半部分の引用だが、この全体が私の想像の領域を超えるが、とりわけ、「清くあって欲しいと誰もが思い、」に驚く。特に「誰もが思い、」の「誰もが」にびっくりしてしまう。
清原は、どこかで他人を信じきっている。しかも、その信頼は、人間は結局は清らかであるという信頼である。その信じきっていることが「誰もが」ということばに象徴されている。
目は清らかであって欲しいとたしかに私は思う。しかし、その思いが「誰もが」と言ってしまえるほど他人に共有されているとは私には思えない。ところが豊原は「誰もが」と言い切る。
この無防備な信頼、人間への共感に「詩」があるのだ。
人間への信頼があるからこそ、次のような行も書くことができる。(先に引用した部分より前に書かれた行である。)
ごまかしているのは、他人を、であり、同時に、自分を、である。そして、そういうことは、ことばにしなくても「誰もが」わかっている。わかっているという自覚があるから、「魂の涙に、」という純粋なことばが生まれてくる。
「清くあって欲しい」と「誰もが思」う目を突き破って、というか、目を否定して「魂の涙」が流れる。私を(豊原を)、そして豊原のまわりの他人を、ごまかしてしまったことを悲しむ魂の涙が、溢れてくる。
この純粋なことばを、私は、どんなふうに紹介していいのかわからない。どんなふうに書いてみても、私のことばは豊原のことばを汚すだけだろう。ひとりでも多くの読者が、豊原の「優しい珈琲も震えて」を読んでくれることを願うだけてある。
豊原のことばは私の想像の領域を超えて動く。たとえば
ああ。と悲観しては
魂の涙に、
メ、がきえていくのだ
この、メ、は、目であるから
清くあって欲しいと誰もが思い、
しかし、涙は流れていくのです。
涙が、突き刺さって、メが消えていく
これは作品の後半部分の引用だが、この全体が私の想像の領域を超えるが、とりわけ、「清くあって欲しいと誰もが思い、」に驚く。特に「誰もが思い、」の「誰もが」にびっくりしてしまう。
清原は、どこかで他人を信じきっている。しかも、その信頼は、人間は結局は清らかであるという信頼である。その信じきっていることが「誰もが」ということばに象徴されている。
目は清らかであって欲しいとたしかに私は思う。しかし、その思いが「誰もが」と言ってしまえるほど他人に共有されているとは私には思えない。ところが豊原は「誰もが」と言い切る。
この無防備な信頼、人間への共感に「詩」があるのだ。
人間への信頼があるからこそ、次のような行も書くことができる。(先に引用した部分より前に書かれた行である。)
祖母が死に、母が病む。
それでも顔色を変えずに
口笛吹いて、
ごまかしている。
ごまかしているのは、他人を、であり、同時に、自分を、である。そして、そういうことは、ことばにしなくても「誰もが」わかっている。わかっているという自覚があるから、「魂の涙に、」という純粋なことばが生まれてくる。
「清くあって欲しい」と「誰もが思」う目を突き破って、というか、目を否定して「魂の涙」が流れる。私を(豊原を)、そして豊原のまわりの他人を、ごまかしてしまったことを悲しむ魂の涙が、溢れてくる。
この純粋なことばを、私は、どんなふうに紹介していいのかわからない。どんなふうに書いてみても、私のことばは豊原のことばを汚すだけだろう。ひとりでも多くの読者が、豊原の「優しい珈琲も震えて」を読んでくれることを願うだけてある。