詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木忠栄「雪はおんおん」

2006-10-18 14:25:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 八木忠栄「雪はおんおん」(「現代詩手帖」10月号)。
 どこが好きなのか、問われてわからない詩がある。なんとなくと答えて、それからゆっくり答えを探してみようと思い、そのままになってしまう詩がある。たとえば「現代詩手帖」10月号では、八木忠栄の「雪はおんおん」。

おんおんおんおん
雪はいつどこでだって降っている

 繰り返される2行。そのことばに出会うたびに、「雪はいつどこでだって降っている」ということが、奇妙ないい方になるが、思い出させる。記憶のように、雪が、風景をつれてやってくる。雪が、生活をつれてやってくる。雪というよりも、雪とともにある「時間」がよみがえる。雪の「時間」が積み重なった「歴史」が見えてくる。
 これは私が雪国で育ったためだろうか。もしかすると、八木の書いている雪は雪国で育った人間にしか見えないものかもしれない。
 長い作品で、雪は、後半になるほど魅力的で鮮烈になるが、その鮮烈さが鮮烈であると感じるたびに、なぜか1連目を思い出してしまう。

一列 ゆらゆら
木の橋をわたってくる女たち
思い思いのコートをまとった十数人
かげろうのようになるいてくる
彼女たちには目がない 鼻がない
口もない 耳もない
目がないのにあおむいて泣いている
口がないのにひっそりと笑っている
泣いているのに笑っている
笑っているのに泣いている
藁くずになり ぼろきれになり
おろおろあるき すべってころぶ
すべってころんで またあるき
崩れゆく時間だけをきつく抱きしめ
ゆっくりと ゆらゆら……
おんおんおんおん
雪はいつでもどこだって降っている

 2行目に登場する「女たち」。なぜ、「女たち」なのだろうか。「男たち」ではないのか。それは雪の風土と関係がある。雪国では、女たちは雪に閉じ込められたままだ。もちろん男も閉じ込められるのだが、男はときとして「兵隊サン」(2連目に登場する)として雪のなかからも強制的に徴兵されていく。女はそうしたことがない。(少なくとも日本の歴史においては、そうしたことがない。)女の方が雪の風土そのものとして存在する。雪の風土を肉体として蓄積している。だから、まず「女たち」が登場する。
 「女」を登場させておいて、それから「男」(兵隊サン)を登場させる。そうやって「世界」を少しずつ広げてゆく。そして、広がる世界を、けっして広がらない時間(雪のなかに暮らしている時間、どこにも出て行かない時間、それはことばを変えていえば、自己から出ていかない時間、自己を守り通す時間、他者へと侵入して行かない時間、かもしれない)から見つめなおす。いや、見つめなおすというよりも、広がってゆく世界がなんだかちがうと感じ、ただおろおろする。おろおろしながら、雪が降っている、だから出てゆけない。私の世界は、この雪の降る世界だけ、と泣いて、さまよっている。

 生きるということは「矛盾」を抱えて生きることである。

目がないのにあおむいて泣いている
口がないのにひっそりと笑っている
泣いているのに笑っている
笑っているのに泣いている

 泣くことと笑うことは別のことである。泣くと笑うは「矛盾」した行為である。しかし、その「矛盾」が同居するのが現実である。「矛盾」のなかで、何かが崩れていく。

崩れゆく時間だけをきつく抱きしめ

 その「抱きしめ」るという行為。そこに「女」の生き方がある。崩れてゆく「時間」は現実にはならなかった「時間」である。しかし、それが現実にならなかったからといって存在しなかったことにはならない。女たちの願いは社会には受け入れられず具体的にならなかったが、具体的にならなかった願い、時間のなかに、生き続けているものもある。それがいつよみがえるかわからない。2度とよみがえらないかもしれない。しかし、それがあったことを知らせるために抱くのである。「きつく抱きしめ」の「きつく」は、それを守ろうとする力の表現であり、単に守るだけではなく、抱き締めた「時間」そのものに対して、「抱いているよ」と呼びかける声でもある。

 詩を通して、八木は、そういう時間を抱きしめつづけた女たちに対して、その力、暖かい肉体の力を感じているよ、と返礼しているのかもしれない。だからこそ、まず「女たち」を2行目に書いたのである。
 
 雪に閉じ込められ、さまよい、泣いている女たち。その女たちへの共感が、静かな現実批判となっている詩である。

コメント
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