詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デレック・ウォルコット「海が歴史である」

2006-10-13 23:57:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 デレック・ウォルコット「海が歴史である」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」10月号)。
 デレック・ウォルコットはカリブ海セントルシア島生まれの詩人・劇作家と恒川は紹介している。過酷な歴史が詩人の背後にはあるが、過酷さによって磨かれたことばで詩人は現実を絶妙に批判する。「海が歴史である」は島の歴史を踏みにじったものへの怒りが軽蔑の形で噴出している。軽蔑といっても、しかし、侮蔑のことばはつかわない。侮蔑のことばをつかわないことによって、その侮蔑がいっそう強まっている。

君たちのモニュメントはどこ? 君たちの戦争と戦没者は?
君たちの民族の記憶はどこにあるの? みなさん、
あの灰色のドームの下ですよ。海です。海がそれらを
呑み込んでいるのです。海が歴史なのです。

元始、そこには混沌のごとく重い
ねっとり波打つ水がありました。
それから、トンネルの出口に見える明かりのように

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。
それから押し込められた人々の叫び声
糞便、呻き声がありました。

「出エジプト記」です。
珊瑚で接合された骨と骨
鮫の影の祝福に包まれた
モザイク模様、

 自分たちの歴史を他人の歴史で語る。記憶で語る。奴隷船の出現を「創世記」で語る。それは奴隷船こそが「歴史」をつくったという批判である。奴隷船以前にももちろんカリブ海の島に歴史はあるが、その歴史は奴隷船をもっている歴史からはけっして見えない歴史である。だから語らない。奴隷船以前の歴史を理解することばを奴隷船をもっている言語はもっていない。そうした批判がここにはこめられている。
 「創世記」や「出エジプト記」に書かれていることなら英語を話す人間にもわかる。だから「創世記」「出エジプト記」ということばを用いる。カリブの島の人々があじわった苦悩は英語国民にはけっしてわからない。わからないから語らない。英語国民にわかることは英語の歴史が語ることばだけである、という批判がここにはある。

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 「カラベル船」と「創世記」とは無関係である。そのあいだには深い深い断絶がある。けっして結びつかないもの、逆に言えば、二つを切り裂くものがそこにはある。しかし、その二つを結びつける。その急激な出会い、唐突な出会いのなかに「詩」がある。「詩」とは衝撃のことである。「カラベル船」と「創世記」がぶつかる衝撃は、それを目撃する人間のこころの衝撃である。
 
 デレック・ウォルコットの「詩」は、そして、その衝突のスピードにある。ゆっくりぶつかるのではない。予告しておいてぶつかるのではない。相手の出現にあわせて、すぐに反撃する。そのスピードのために、衝撃はより強いものになる。
 「間髪を入れず」という表現が日本語にあるが、デレック・ウォルコットの反撃は、その「間髪を入れず」という類のものである。それは

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 という短いことば、ことばの短かさに象徴的にあらわれているが、それに先立つ行にも、デレック・ウォルコットの間髪を入れないスピード、反撃の速さがうかがえる。

君たちの民族の記憶はどこにあるの? みなさん、

 原文がどう表記されているのかわからないが、この行の「君たちの民族の記憶はどこにあるの?」と質問した人間はデレック・ウォルコットとは別人である。カリブの島を植民地にした人間のことばである。これに対して「みなさん、」と答えているのはデレック・ウォルコットである。発言者が誰であるかを明確にするなら、

君たちの民族の記憶はどこにあるの? 
みなさん、

 と改行した方がわかりやすいだろう。しかしデレック・ウォルコットは改行しない。前の発言が終わるか終らないかという感じで、すぐに「みなさん、」と反撃し始めるのだ。ここに隠されたスピードがある。スピードの始まりがある。
 しかも、そのスピードは、素早いと同時に、素早さをより強くみせるための忍耐力を持っている。スピードにまかせてまくし立てても反感を買うだけだということを知っているかのようである。あるいは、怒りにまかせて反撃しただけでは衝撃を与えられないということを、デレック・ウォルコットは、あるいは、カリブの島の歴史は感得しているということかもしれない。どう反撃すべきかを、単に言語としてではなく、肉体として知っているということかもしれない。
 デレック・ウォルコットは「みなさん、」とすぐに応答したが、その素早さをいったん押しとどめてゆったりと語り始める。

あの灰色のドームの下ですよ。海です。海がそれらを
呑み込んでいるのです。海が歴史なのです。

 この2行は、それを読んだだけでは意味をなさない。ナンセンスである。デレック・ウォルコットが質問者の質問に怒っているということは、この2行だけではわからない。そういう安心感(?)のようなものをまといながら、意味をなさないことばで人を誘い込む。「今、何を言った?」という疑問を抱かせる。疑問は関心とほとんど同義語である。そうやってひっぱっておいて、ゆっくりと時間を動かし、動き始めたと思ったとたんに

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 という短いリズム、トップスピードの言語だけが可能な飛躍に満ちたことばを提出する。弾力の強いゴムを引けるだけ引き絞って、限界で手放したような衝撃的な飛躍。
 このリズムの変化、激しさのなかに「詩」がある。

 そして、この作品は、ほかのことも暗示する。
 この反撃のゆったりかまえて、それから急に変化してみせる方法は、実は、ふいに思いついたものではないということを。繰り返し繰り返し、デレック・ウォルコットは反撃を練ってきたのだ。そうした工夫をできるだけの時間(歴史)がデレック・ウォルコットにはあった。それは逆の言い方をすれば、デレック・ウォルコットをはじめとするカリブの島を苦しめた植民地の時間がそれだけ長かったということである。長い長い被植民地の時間のなかで、デレック・ウォルコットのことばは鍛えられたのである。そして、そのデレック・ウォルコットのことばを鍛えたながい時間の存在そのものが、ここでは語られていないが、実は、デレック・ウォルコットのことばの正確さによって、見えない形で告発されている。

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 は巧みな「比喩」を超越した、厳しい告発である。
 ことばを追っただけでは見えてこない告発が潜んだ詩である。


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クラーク・ジョンソン監督「ザ・センチネル/陰謀の星条旗」

2006-10-13 21:27:16 | 映画
監督 クラーク・ジョンソン 出演 マイケル・ダグラス、キーファー・サザーランド、キム・ベイシンガー

 この映画の見どころは前半の「もの」の映像である。たとえば黒塗りの車の生きているようなぬらりとした曲線。それが鏡のように車につけた星条旗の影を抱き込む。そのときの陰影。あるいはホワイトハウスの柱、壁、屋根。太陽の角度によってかわる色の変化。周囲に溶け込まない存在感。そこには空気がない。「もの」(存在)と私(観客)のあいだに広がっていて当然の空気がない。何か直接視覚に飛び込んできて、その存在感のまま脳にはりつく感じがする。ぬるぬるにしろ、ざらざらにしろ、奇妙にべったりと脳の内部へ侵入してきて、「もの」と私とのあいだにある空気、距離感を分断していく。ぶきみである。何らかのカラー処理がしてあるのだと思うが、普通のハリウッド映画にはないざらざらした色が、神経をさかなでするようで、不思議に引き込まれる。
 シークレットサービスの行動も、「もの」のように分断された形で動いていく。シークレットサービスの行動の一瞬一瞬が鉱物のように立ち上がり、それが鉱物のまま流動していくように描かれる。本当はすみずみまで計算され、流れるような行動なのだが、一瞬一瞬が私たちの日常とは違うので、その違いが強烈に立ち上がり、一瞬一瞬に「存在感」がみなぎるのである。
 連続しているものを分断し、「もの」の存在感として描き出す。そして、その存在感の奥に何か、普通のストーリーではない何か、たとえば「陰謀」があると暗示する、この前半の映像は、それなりにおもしろい。
 ただし、こうした「もの」の存在感に拮抗するストーリーというものはありえない。どんなに巧妙にストーリーを仕組んでみても、そういう架空のものは、「もの」の存在感には勝てない。対抗しうるのは役者の存在感だけである。役者の肉体が刻んできた何か、特権的な力以外に、「もの」の存在感に対抗できない。ストーリーが「陰謀」を企ててみせても、そんなものはこわくもなんともない。肉体が、役者の肉体そのものが「陰謀」として立ち上がってこなければ、人間の行動は単なる狂言回しの道具にすぎない。そういうものは見ていて何の発見も引き起こさない。
 映画は非常につまらない。
 ただし、キム・ベイシンガーだけはおもしろい。「もの」の存在感に拮抗してスクリーンにあらわれる。豪華な顔が翳り、華やぎ、苦悩する。その瞬間だけ、スクリーンで映像化されなかった「もの」(この映画で言えば、マイケル・ダグラスとの濃密なセックス)があったということを感じさせる。美女の力というのはすごいものであると、あらためて感心した。
 マイケル・ダグラスはストーリーを追うのに忙しくて、どうしようもない。キム・ベイシンガーとキスをしてみせても、それは映画の演技としてのキスにすぎず、表面的なものである。映画には省かれている時間を肉体が表現しないと、その肉体は、人形とかわりがない。役者の肉体がストーリーを隠してしまうくらいでないと(ストーリーの裏側にある表現されない時間を感じさせないと)、映画は映画になり得ない。単なる簡便な紙芝居である。キーファー・サザーランドも同じである。マイケル・ダグラスにはまだ肉体を鍛えているという涙ぐましい苦労が感じられて、それはそれでおもしろいが、キーファー・サザーランドにはそんな肉体のかけらもない。

 この映画に「詩」があるとすれば、前半の「もの」の存在感をつたえる断片的な映像と、キム・ベイシンガーの美貌だけである。

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