詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行『ひさしぶりのバッハ』

2006-10-23 23:58:33 | 詩集
 清岡卓行久しぶりのバッハ』(思潮社)。
 どんな詩人にも(作家にも)、そのことばがないと絶対に作品が書けないことばがある。そのことばがないと絶対に作品が成り立たないことばがある。「名言」の類ではなく、もっと簡単な、誰でもがつかうことば、しかしなくてはならないことばのことである。清岡の場合は「と」である。格助詞の「と」。岩波の国語辞典第六版(835 ページ)で「事物を並べ立てて言うのに使う」と定義されている「と」である。
 「樫の巨木に逢う」は入院した病院の窓から巨大な樫の木をみつめながら書かれた詩である。3連目に問題の「と」は登場する。

窓の内側の冷房にいるのはベッドに仰向けに寝たわたしだけ。
その右腕にはもう三十分も点滴注射がつづけられている。
澄みきった大きな窓ガラスを境に
巨木と細腕というこれはまたなんと奇怪なコントラスト。

 「巨木と細腕」のなかの「と」。この「と」がなければ清岡は詩を書けない。「と」こそが清岡の「思想」である。
 「と」はあるもの(存在)とあるもの(存在)が別のものであると告げる。巨木と細腕は同一のものではない、と告げる。同時に、その別個の存在が、今、ここに併存して存在することを告げる。そして、そのふたつの存在を同時に存在させているのが「わたし(清岡)」である。清岡が巨木と細腕を別個の存在と認識し、同時に、そのふたつが今、ここにあると認識している。その認識から、清岡の精神は、別個のふたつの存在が、清岡の精神を媒介にして出会い、やがて融合して一つになっていく世界へと動いていく。「と」はそうした運動の出発点である。
 この融合を清岡は「驚き」「酔い」などのことばであらわしている。そして、そのふたつのことばもまた「と」で結びつけられている。そこには「と」が今、ここに「同時に」存在することを強調する「同時に」という副詞もつかわれている。第4連。

まったく予想もしなかったその不意打ちの極端な図式に
わたしは驚きと酔いをほんの少しだが同時に覚えた。
そして見るものを圧倒してやまない常緑樹に
讃歎と嫉妬と脅威がやがて渦巻く気分を味わった。

 「驚き」「酔い」「讃歎」「嫉妬」「脅威」。これらのことばはすべて「と」で結びついている。「渦巻く」ということばも出てくるが、それは、それらの感情(感覚)が別個でありながら見分けがつかないものになっている、融合しているということをあらわしている。
 「と」で結びつけられるものは清岡にとっては必ず一つに融合していく存在なのである。そして、その別個の存在の融合こそが清岡の「思想」なのである。出会ったものは必ず融合して、それまでの存在を超えた世界へとかわっていく。その変化、運動の過程が清岡にとっての「詩」であり、そのことを端的にあらわしているのが「と」ということばなのである。

 「と」の用法は、この作品では、少しおもしろい形でもあらわれている。病室に電話がある。だが話し相手が見つからない。

結局は自宅に掛けて不在のはずの自分と話すほか
この奇妙な無言のどん底から生きかえる道はないのか。
自分の無意識とも連絡できそうに置かれている電話機。
わたしの頭のなかで舌たらずの幻想が早くも羽ばたく。

--あさってあたり退院するということにしたいよ。
--どうとでもやりたいようにやりな。
--家に着いたら蜆(しじみ)の味噌汁のついた食事をしたいね。
--冷蔵庫のなかにそのとき砂をぬいた蜆があったらね。

 「不在のはずの自分」「と」話す相手は誰か。病室にいる「わたし」である。「と」はひとりのはずの「わたし」を意識のなかで別個の存在にする。存在は「と」を媒介にして意識のなかで別個の存在になる。
 「と」は「わたし」と「わたし以外の存在」を結びつける働きもすれば、「わたし」と「もうひとりのわたし」を切り離す働きもする。この働きは、いずれにしろ「意識」のなかの運動である。意識のなかの現象である。
 「と」を中心にして、そのときどきに、意識にあわせて存在はひとつになったりふたつになったりする。あるいは「と」は「讃歎と嫉妬と脅威」という具合にみっつのもの(あるいはそれ以上のものを融合してしまうかもしれない。いずれにしろ、そうした運動のなかでは「ひとつ」ということが常に意識として残っている。「ひとつ」という感覚とともに、世界が「と」を中心にして動くのである。動きながら、世界を動いているものに変えていく。静止して存在するのではなく、動いていく世界・宇宙がそこに広がる。

 「と」は常にかけ離れたものを結びつける。あるいは対立したものを。たとえばこの作品の最後の行。「不在の自分」と電話で対話しようと空想していたとき突然電話が鳴る。電話をとろうとして起き上がったとき足元がふらつく。

だれがなにを掛けてきたかわからない期待と不安のなかで。

 「期待と不安」。その「と」。ふたつの感情のあいだには、最初に見た「巨木と細腕」のような距離がある。測りきれない距離がある。測りきれない広がりがある。「讃歎と嫉妬と脅威」にも同じく測りきれない距離がある。「感動と混乱」(「ピレネーのアカシア」より)、「怒りと怖れ」(「出発と到着」より)にも測れない距離がある。
 「と」でむすびつけられた存在には、あるいは感情、感覚には、いつでも測りきれない距離がある。そしてそれが測りきれないがゆえに、清岡は、その距離を想像力で、精神の力で結び合わせる。あるいは切り離す。それが清岡にとっての「詩」である。
 「と」で出会った存在が測れない距離を利用して(?)融合し、ひとつになる。ひとつの世界をつくり始める。そのとき「樫」は「樫」ではない。「細腕」は「細腕」ではない。まったく新しい感情(精神)である。たとえて言えば「讃歎と嫉妬と脅威」である。ひとことでは言えない感覚の生成--それが「詩」である。



 『ひさしぶりのバッハ』は清岡さんの遺稿詩集である。清潔な文体で感覚の生成を描き続けた詩人のご冥福をお祈りします。
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リチャード・ドナー監督「16ブロック」

2006-10-23 21:59:16 | 映画
監督 リチャード・ドナー 出演 ブルース・ウィリスモス・デフ、デヴィッド・モース

 ブルース・ウィリスが最初にスクリーンに現れたとき、その腹に驚かされる。でっぷりしている。シャツにたるみがなく、張りつめている。これはもちろん「やらせ」であろう。後半は、そんな中年太りの肉体をさらしていない。では、なぜ、こんな「やらせ」を映像化したのだろうか。ブルース・ウィリスの役どころが中年のしがないアル中刑事だからだろうか。私は、そんなふうには見なかった。そんな単純な人物造形をリチャード・ドナーもブルース・ウィリスもしないだろう。
 では、何を狙ったのか。
 観客の視線を肉体に引きつけるためである。もっと丁寧に言えば、肉体の周囲に引きつけるためである。
 この映画は非常に狭い場所を舞台にしている。ニューヨークの16ブロックス。1ブロックは約80メートルから 100メートルだから1500メートルもない。そして、描かれる時間も8時から10時までの2時間。すべて観客の身体に密着している範囲だ。(少なくともニューヨークの観客にとっては、そこに描かれる街、時間は、すぐそばにある空間と時間である。)そういう場所では、視線は遠くまで見ようとしない。遠くを見る必要がない。この映画で唯一(だと記憶しているが)、視線が肉眼でとらえられる距離を離れるのは、携帯電話からブルース・ウィリスの位置を特定する場面である。パソコンの画面(これにしたって肉眼で見るものだが)に街の地図、俯瞰図が登場する。それ以外は、スクリーンには肉眼がとらえる街、肉体しか登場しない。1500メートルを移動する肉体の、その肉眼が見るものが、この映画では主役である。それが主役であることを、スクリーンにはじめて登場するときのブルース・ウィリスの、ズボンからはみだした腹は告げているのである。
 肉体(自分の肉体、あるいは肉眼で見える他人の肉体)について、私たちはたいがいのことを知っている。何ができ、何ができないかを知っている。また自分が生活する街、その非常に狭い範囲、歩いていける範囲のことなら、たぶんどこに何があるかというようなことも知っている。熟知している世界で、熟知していないこと(実際には知っているけれど、知らないふりをしてきたこと)に直面したとき、そこで人間は何を見るのか。見ることができるのか。これが、この映画のテーマであろう。
 映画はいわば「汚れた警察もの」の定石通りに展開する。B級映画のストーリーを踏襲している。そのストーリーはストーリーとして完成されているが、この映画では、そういうストーリーよりも大胆な冒険がおこなわれている。映像を肉眼で見えるものに限定するという冒険である。肉眼が見るニューヨーク(風景写真を拒否しているノー・フレームのニューヨーク)を背景に、ひとりひとりの癖まで描き出すような濃密な肉体への把握。そうすることではじめて見えてくる精神や感情を、ことばではなく肉体で伝える。そういう冒険が、この映画では試みられている。肉体と肉体が接近し、同じ時間を濃密に生きることで共有される何か。ことばをこえたもの、肉眼がつかみとる真実のようなものを描き出すこと--そういう試みがこの映画ではおこなわれている。そして、それは実際に成功している。
 ラストシーンで、ブルース・ウィリスはケーキ屋になったモス・デフの写真を掲げて1枚の写真におさまる。このシーンも何気ないようでいて、実に興味深い。離れた場所にいる二人がカメラのフレームの中で一緒になる。それを観客は肉眼で見る。想像力で理解するのではなく、肉眼で理解する。肉眼へのこだわりが最後までつらぬかれている。
 リチャード・ドナー監督の作品は『リーサル・ウェポン』などおもしろいものが多いが、今回の映画で私は心底感心してしまった。映像が大好きで、映像で「思想」を語れる監督なのだと実感した。ブルース・ウィリスの演技もよかったが、モス・デフが非常にすばらしかった。スクリーンからはみだしつづける肉体を感じた。スクリーンにいるのではなく、その肉体が、直に肉眼に迫ってくる。
 こういう映画こそ、もっもともっと見たい。
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