詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺正也「夏の道」

2006-10-04 13:06:38 | 詩集
 渡辺正也「夏の道」(「石の詩」65)。
 ことばに不思議な「呼応」のようなものがある。

短い影を落として
だらだら坂を登っていくと
とうもろこし畑が
あくびのようにひろがって
動かない

電柱に小さな糸瓜が下がっている
その横 鮮烈な色の花が口を開いている

 「あくびのようにひろがって」「口を開いている」。それは「とうもろこし畑」と「糸瓜」の「花」の描写だが、同じように口を開いた描写を重ねることで、それが風景ではなく、渡辺の肉体そのものの描写のように感じられてしまう。渡辺の肉体が感じる何か、たとえば疲労と呼んでもいいようなものが、今目の前にあるものと呼応している、感応している。
 「だらだら坂を登」る。「電柱に」「下がっている」(すがっている--電柱を利用して姿勢をたもっている)。--ここからも肉体の疲労が浮かび上がる。

生まれた町から
遠く離れて
海へ出る石ころの道で
夏風邪をひいたまま
歩きながら頽廃について考える
    (谷内注・「頽廃」の「廃」は原文は旧字体)

 疲労の理由(原因)は「夏風邪」であるとここでは説明されているが、肉体と風景の呼応(感応)が繰り返し描写されたあとでは、その肉体的原因は、気休めの説明のように思える。
 「生まれた町から/遠く離れた」。この自己存在の場の、一種の空虚感。安定感のなさ。そういうものが渡辺の肉体をむしばんでいる本当のものだろうという気がする。自分が帰属していた「場」から遠く離れること。そのとき「自立」を支えるのは渡辺の肉体である。孤独な肉体である。孤独な肉体は、同時に孤独な精神でもある。帰属する「場」がないことは、そして、「頽廃」である--という考えが、精神の疲労(それは同時に肉体の疲労でもある)のなかに忍び寄ってくる。
 その疲労のなかで、渡辺は「海」を夢見ている。「海」をめざして歩いている。「海」は風景なのか--私には風景を超えたものに思える。

腿に痺れがきている
いつか 寄辺なく女と腰掛けた駅のプラットフォームで
あすを見つけようとした欲望は
断絶する生の
危うい満ち潮だった

 「満ち潮」は「海」と呼応している。「海」と対応している。その「満ち潮」が「断絶する生の/あやうい満ち潮」ならば、それは現実の海そのものではなく、渡辺の肉体の中にある海、精神の海であるだろう。感情の海であるだろう。
 ただし、精神、感情の海であっても、それは抽象的なものではなく、現実の海である。目に見え、肉体で触れる海である。

並の音はまだ聞こえず潮煙は見えない

今日は朔日(ついたち)だから
今 月と日は連れ立って天辺にある
闇夜になるまでに
この草いきれを超えねばならぬ

 月は新月。大潮である。満ち潮がもっとも豊かに満ちる日。それをそのまま渡辺は精神の、感情の、そして肉体の満ち潮として取り込みたいと願っている。欲望している。
 潮が天体の動き、月や太陽の位置によって干満を繰り返すように、人間の精神、感情、肉体その物のありようも、宇宙の動きとともに変動する--そう渡辺は言っているのか。そうではなく、渡辺の肉体は、いつも渡辺の外にあるもの、あるときは「とうもろこし畑」「糸瓜」「(糸瓜の)花」「月」と一体になりながら、精神、感情をつくっているということだろう。
 肉体と精神は別々のものではなく、常に一体のものである。そして、風景と肉体・精神、そして宇宙と肉体・精神も一体のものである。融合したものである。
 「一心論」的世界が渡辺の世界であり、「一心論」だけがもつ伸縮自在なひろがり(糸瓜の花から、太陽・月が引き起こす潮汐まで)を呼吸するのが渡辺の世界である。

 作品は省略しながら引用した。ぜひ、全編を通して読んでもらいたい。そうすれば、渡辺の一心論の世界がより鮮明に迫ってくる。とても充実した詩だ。
 渡辺の詩や3日に取り上げた真岡の詩に限らず「石の詩」に掲載されている作品はとても充実している。ことばが厳しく選び抜かれ、鍛えられている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする