指田一「中断」(「SPACE」70)。
「オナニーする?」という一行で始まる詩は、なだらかに動いて行って、3連目から不思議な動きをする。
そして中断しただけではなく、終わってしまう。この終わり方に私は「詩」を感じた。一種の「満足」のようなものを感じた。嘘がまじらない何か、指田のことばを借りていえば「甘さ」、ゆったりしたものを感じた。
母親が舌をどうしたのか、どう動いたのかさっぱりわからない。そこから先の動きを書いてはいけないと判断して書くのを中断したのか、指田のことばでは書き表すことができなくて中断したのか、そのこともわからない。わからないけれど、私は、指田は書き表すことができないと判断して中断したのだと強く感じた。ことばを重ねれば、それはそれでなんとか描写や意味にはなるだろう。しかし、そこでは「自然」が消えてしまう。「自然」のかわりに「むり」が生まれる。
そうした「むり」を指田は嫌ったのだろう。
1連目にもどって詩を読み返す。
「正直」には「むり」がついてまわるときがある。「むり」に「正直」にふりまうときがある。「むり」をして「正直」であらねばならないときがある。
そうしたことが指田は嫌いなのだろう。
「正直」よりも「自然」が好きなのだろう。「むり」な「正直」よりも「自然」な「嘘」がいい。その「自然」とは風のようなものだろう。何かにぶつかれば、しずかに方向をかえる。方向をかえながら、動けるところまで動いていく。動けなくなったら、そこで止まる。
その「自然」さが「中断」ということだろう。「中断」のなかには「むり」がない。「自然」があるだけである。それが気持ちよさ、何か甘いゆったりした広がりのように感じられるのである。
1連目に、「自然」き同じくらい美しいことばがある。「寄り道」。これも「むり」とは縁のない動きである。「わざと」ではなく、なんとなく「自然」に寄り道する。「オナニーする?」という質問自体が「寄り道」のようなものだ。何か、ほんとうに問いただしたいものがあって聴いているわけではないだろう。ただ、なんとなく、ふっとことばが体の奥から沸いてきたのだろう。そういうことばは、そのまま、ただ放り出しておけばいい。そこから何かをむりやりひっぱりだしても、何か「むり」がついてまわり、醜くなるだけだろう。
「むり」になる前に、「自然」のままで、ことばを中断し、中断して放心するということを指田は知っている詩人だと思った。
「オナニーする?」という一行で始まる詩は、なだらかに動いて行って、3連目から不思議な動きをする。
二階から女がおりてくる
一階の娘のおむつを取り替える
母親より大きくなった娘の口から甘い液がこぼれ
母親が舌
そこまで書いて男(たぶん58歳)は中断した
そして中断しただけではなく、終わってしまう。この終わり方に私は「詩」を感じた。一種の「満足」のようなものを感じた。嘘がまじらない何か、指田のことばを借りていえば「甘さ」、ゆったりしたものを感じた。
母親が舌をどうしたのか、どう動いたのかさっぱりわからない。そこから先の動きを書いてはいけないと判断して書くのを中断したのか、指田のことばでは書き表すことができなくて中断したのか、そのこともわからない。わからないけれど、私は、指田は書き表すことができないと判断して中断したのだと強く感じた。ことばを重ねれば、それはそれでなんとか描写や意味にはなるだろう。しかし、そこでは「自然」が消えてしまう。「自然」のかわりに「むり」が生まれる。
そうした「むり」を指田は嫌ったのだろう。
1連目にもどって詩を読み返す。
オナニーする?
正直にとは全然ちがう
その時 肌に気持ちよい風がさわって 緑に寄り道し
男は女と寝転んでいたから その時
女は自然に話せた たったひと言だったけれども
する
男の前を 声が振り返った その時
男は肌に気持ちよい風を感じた
「正直」には「むり」がついてまわるときがある。「むり」に「正直」にふりまうときがある。「むり」をして「正直」であらねばならないときがある。
そうしたことが指田は嫌いなのだろう。
「正直」よりも「自然」が好きなのだろう。「むり」な「正直」よりも「自然」な「嘘」がいい。その「自然」とは風のようなものだろう。何かにぶつかれば、しずかに方向をかえる。方向をかえながら、動けるところまで動いていく。動けなくなったら、そこで止まる。
その「自然」さが「中断」ということだろう。「中断」のなかには「むり」がない。「自然」があるだけである。それが気持ちよさ、何か甘いゆったりした広がりのように感じられるのである。
1連目に、「自然」き同じくらい美しいことばがある。「寄り道」。これも「むり」とは縁のない動きである。「わざと」ではなく、なんとなく「自然」に寄り道する。「オナニーする?」という質問自体が「寄り道」のようなものだ。何か、ほんとうに問いただしたいものがあって聴いているわけではないだろう。ただ、なんとなく、ふっとことばが体の奥から沸いてきたのだろう。そういうことばは、そのまま、ただ放り出しておけばいい。そこから何かをむりやりひっぱりだしても、何か「むり」がついてまわり、醜くなるだけだろう。
「むり」になる前に、「自然」のままで、ことばを中断し、中断して放心するということを指田は知っている詩人だと思った。