詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

指田一「中断」

2006-10-17 23:49:51 | 詩(雑誌・同人誌)
 指田一「中断」(「SPACE」70)。
 「オナニーする?」という一行で始まる詩は、なだらかに動いて行って、3連目から不思議な動きをする。

二階から女がおりてくる
一階の娘のおむつを取り替える
母親より大きくなった娘の口から甘い液がこぼれ
母親が舌

そこまで書いて男(たぶん58歳)は中断した

 そして中断しただけではなく、終わってしまう。この終わり方に私は「詩」を感じた。一種の「満足」のようなものを感じた。嘘がまじらない何か、指田のことばを借りていえば「甘さ」、ゆったりしたものを感じた。
 母親が舌をどうしたのか、どう動いたのかさっぱりわからない。そこから先の動きを書いてはいけないと判断して書くのを中断したのか、指田のことばでは書き表すことができなくて中断したのか、そのこともわからない。わからないけれど、私は、指田は書き表すことができないと判断して中断したのだと強く感じた。ことばを重ねれば、それはそれでなんとか描写や意味にはなるだろう。しかし、そこでは「自然」が消えてしまう。「自然」のかわりに「むり」が生まれる。
 そうした「むり」を指田は嫌ったのだろう。
 1連目にもどって詩を読み返す。

オナニーする?
正直にとは全然ちがう
その時 肌に気持ちよい風がさわって 緑に寄り道し
男は女と寝転んでいたから その時
女は自然に話せた たったひと言だったけれども
する
男の前を 声が振り返った その時
男は肌に気持ちよい風を感じた

 「正直」には「むり」がついてまわるときがある。「むり」に「正直」にふりまうときがある。「むり」をして「正直」であらねばならないときがある。
 そうしたことが指田は嫌いなのだろう。
 「正直」よりも「自然」が好きなのだろう。「むり」な「正直」よりも「自然」な「嘘」がいい。その「自然」とは風のようなものだろう。何かにぶつかれば、しずかに方向をかえる。方向をかえながら、動けるところまで動いていく。動けなくなったら、そこで止まる。
 その「自然」さが「中断」ということだろう。「中断」のなかには「むり」がない。「自然」があるだけである。それが気持ちよさ、何か甘いゆったりした広がりのように感じられるのである。

 1連目に、「自然」き同じくらい美しいことばがある。「寄り道」。これも「むり」とは縁のない動きである。「わざと」ではなく、なんとなく「自然」に寄り道する。「オナニーする?」という質問自体が「寄り道」のようなものだ。何か、ほんとうに問いただしたいものがあって聴いているわけではないだろう。ただ、なんとなく、ふっとことばが体の奥から沸いてきたのだろう。そういうことばは、そのまま、ただ放り出しておけばいい。そこから何かをむりやりひっぱりだしても、何か「むり」がついてまわり、醜くなるだけだろう。
 「むり」になる前に、「自然」のままで、ことばを中断し、中断して放心するということを指田は知っている詩人だと思った。


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ブライアン・デパルマ監督「ブラックダリア」

2006-10-17 21:52:19 | 映画
監督 ブライアン・デパルマ 出演 ジョシュ・ハーネット、スカーレット・ヨハンセン、マイク・ウォルバーグ、ヒラリー・スワンク

 ブライアン・デパルマはこの映画で何を撮りたかったのか。影である。しかもそれは現代の影ではなく50年代の映画のなかにある影である。自然の光ではなく人工の光がつくりだす影--そして、その影によって一見豪華に見える現実という嘘(ここには映画そのものも含まれる)、その関係を描きたかったのである。
 ファイアー(警官)とその愛人(?)の家。訪問したアイスと愛人が階段で会話する場面。あれっ、と思わず声を出しそうになった。壁に影が映っている。それは常識的に考えてあたりまえのことなのだが、その影の映像が異様にくっきりしている。いまどき、こんな影を「無意味」に強調した映像はない。クラシックな映画、セットでライティングして撮った50年代の映画を思わせる影である。(このこのろ映画は影がライトのせいで四方八方に散っているものもある。その当時は影にまでリアリティーを求めなかったということだろう。)
 その時代の影、そして影をつかった表現をデパルマは試みているのだと思う。この影は「無意味」ではなく、この影こそ「意味」なのである。
 影はクライマックスでも印象的に使われる。ファイアーが呼び出されて行ったビル。そこでの殺人。天井で動き回る人間の影をアイスは目撃する。(デパルマが師とあおぐヒチコックに似た映像があると思う。)実際の人間の動きは目撃しない。--ここに、この映画の「カギ」がある。アイスはほとんどのことがらにおいて現実をリアルタイムでは見ていない。起きてしまった現実は見ているが、それが起きる瞬間は直接目撃していない。(ファイアーが殺人をおかす瞬間は、逆に、自分たちが襲われたと勘違いするくらいである。)印象的な動きをする影はそのことを象徴している。
 アイスの捜査は、いわば影を掴む捜査である。影を追い詰め、その影が生まれてくる足元、そこに立っているのが「犯人」である、とアイスは考えている。そんなふうに、この映画の映像は語る。
 そして、ここからが重要である。この映画の、映画としての見どころである。
 影は単に「犯人」の姿を浮かび上がらせているのではない。影はたしかに「犯人」なしでは生まれてこない。しかし影は「犯人」だけでも生まれてこない。光が必要である。光が犯人にぶつかる。そこから影がはじまる。影は光によって動く方向がまったく違うのである。ライトを捜査すれば影は逆の方向へその形をのばすのである。(50年代のセットのライティングについて書いたのは、このことが言いたかったからである。)
 影=犯人は光によって恣意的に操作されている。
 この映画は、アイスがそのことを発見するまでを描いた映画であり、それをことばではなくちゃんと映像として象徴的にも描いている。だからとてもいい映画である--といえるかというと、話はまったく別である。
 つまらない。見え透いている。私はアイス(ジョシュ・ハーネット)と女(スカーレット・ヨハンセン)の階段のシーンで直感的にこの映画の陰の主役は「影」であることに気がついた。(まるで駄洒落だが……)そしてクライマックスともいうべきファイアーが殺されるシーンで、アイスが影しか目撃していないこと、光源によって影が変わることに気がついていないことを知った。
 このクライマックスを境に、映画はアイスがどんな風に光源によって間違った影を見てきたか、だれがどんな光で影を操作していたかを次々に知る。そのなかには信頼していたはずの相棒(ファイアー)と女が含まれる。(銀行強盗の金を隠している、という事実)。その発見の過程は一気呵成といえば一気呵成だが、ご都合主義といえばご都合主義である。驚きも何もない。
 画面全体のセピア風の色調も、影を全体になじませたいと思って操作しているのだろうが、あざとい感じしか残らない。影き光を映像としてストーリーに溶け込ませるなら、もっと丁寧に、影にみとれてしまうくらいの美しい影を、もっと随所に伏線として使わないと、単なる思いつきという印象しか残らない。


コメント (2)
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