粒来哲蔵『穴』(書肆山田)。(その3)
「五右衛門偽伝」。この作品については同人誌に発表されたときに感想を書いた。しかし、もう一度書いてみたい。何度でも感想を書きたくなる楽しい作品である。
「偽伝」とことわっているように、ここにかかれていることは「真実」ではない。「偽」も巧妙な偽、本物と間違えそうな偽物ではなく、はっきり偽とわかる書き方をしている。たとえば、五右衛門が大坂城に侵入したとき。
秀吉の時代、五右衛門の時代に戦車やバズーカ砲、劣化ウラン弾があるはずもない。あるはずもないのに書く。偽物であることをはっきりさせるためである。同時に、単に偽物であることをはっきりさせるためではなく、ことばを楽しむためである。戦車もバズーカ砲、劣化ウラン弾もことばとして存在するだけではなく、現実に存在するものだけれど、それが詩のなかに現れることはめったにない。詩は自由なようでいて、そんなに自由ではない。
つかいたいけれど、つかい方がわからないことば、つかうタイミングがわからないことばというものもある。そういうものも、粒来は自在につかってみせる。
五右衛門が油ゆでになるシーン。
「タマヤー! 」はもちろん大輪の花火にかける掛け声である。しかし、こんな掛け声は素人にはかけにくい。タイミングがわからない。歌舞伎の掛け声も同じである。一度はやってみたいが、やはりできない。そんなことばが世の中にはある。それをここでは、五右衛門の大きな「ふぐり」に対して発している。「タマヤー! 」のなかには驚嘆と笑いもある。こんなふうにことばを自在につかえたら、世の中は楽しくなるだろう。
そういう「お遊び」もこの作品のなかにはある。
そして、こうした自在な遊び、自在な言語の運動が、漢文体で書かれているのも魅力である。漢文体ならではの省略、スピードが随所にあふれている。「衆目ニフグリヲ曝(サラ)ス。手ニ余ッテ押サエキレズ。観衆ヨリ「タマヤー! 」ノ声カカル。五右衛門赤面シツツ手ヲ振ル。」の短文の積み重ねもそうした類のものである。
「想像力」は現実をゆがめる力、と10月19日の日記に書いた。
そのゆがめる力を力として具体化するためには「文体」がいる。「文体」が成立するためには、ことばと対象の距離を一定にすること、その一定を維持する「物差し」が必要である、とは20日の日記に書いたことである。
粒来は、「五右衛門偽伝」では「漢文体」を「物差し」としてつかっている。漢文には漢文のリズムがある。そのリズムがあれば、ことばは安定して動いてみえる。伝統として読者のなかに存在するものを、ことばの「容器」としてつかっている。
そうやってリズムを一定にしておいて、そのリズムの「容器」のなかにバズーカ砲、劣化ウラン弾もぶちこめば、「タマヤー! 」という遊びもぶち込む。
日本語はこういうこともできる。「詩」はこういうこともできるのである。
こうしたことができるのは、もちろん粒来にしっかりした「文体」があるからである。叩いても壊れない「文体」があるからである。
土台の「文体」ががっしりしているから、どんなことばでも取り込むことができる。取り込みながらことばを自在に動かしていくことができる。
「想像力」とは現実をゆがめる力である。ただし、それをゆがめるためには強固な文体が必要である。文体が軟弱なら、現実をゆがめる前に、ことばそのものがゆがんでいってしまう。
「鉈」のことばの動きが粒来の基本的な文体であると思う。粒来はしかし、「穴」のような文体も「五右衛門偽伝」のような文体も自在につかいこなすことができる。そして、ゆるぎのない文体こそが「詩」なのだと実感させてくれる。「文体」の力こそが「詩」なのだと実感させてくれる。
「五右衛門偽伝」。この作品については同人誌に発表されたときに感想を書いた。しかし、もう一度書いてみたい。何度でも感想を書きたくなる楽しい作品である。
「偽伝」とことわっているように、ここにかかれていることは「真実」ではない。「偽」も巧妙な偽、本物と間違えそうな偽物ではなく、はっきり偽とわかる書き方をしている。たとえば、五右衛門が大坂城に侵入したとき。
宿直(トノイ)の侍「賊来タレリ。」ト叫ブヤ、襖(フスマ)の陰、畳ノ隙間、障子ノ桟カラ、刀槍薙刀(ナギナタ)ノ類、鉢巻ヲ伴ッテ現ル。鉄砲、大砲、バズーカ砲、遂ニハ戦車、劣化ウラン弾モ出テトドマルトコロヲ知ラズ。
秀吉の時代、五右衛門の時代に戦車やバズーカ砲、劣化ウラン弾があるはずもない。あるはずもないのに書く。偽物であることをはっきりさせるためである。同時に、単に偽物であることをはっきりさせるためではなく、ことばを楽しむためである。戦車もバズーカ砲、劣化ウラン弾もことばとして存在するだけではなく、現実に存在するものだけれど、それが詩のなかに現れることはめったにない。詩は自由なようでいて、そんなに自由ではない。
つかいたいけれど、つかい方がわからないことば、つかうタイミングがわからないことばというものもある。そういうものも、粒来は自在につかってみせる。
五右衛門が油ゆでになるシーン。
五右衛門素早ク低温殺菌ノ術ヲ行イ、油熱ヲ鎮メ適温トナシ、入リテ鼻唄ヲ歌イ、タオルデ首筋ヲ拭イ、果テハ軽クタップヲ踏ム。釜底割レテ油流レ、五右衛門裸ノママ零(コボ)レ出テ、衆目ニフグリヲ曝(サラ)ス。手ニ余ッテ押サエキレズ。観衆ヨリ「タマヤー! 」ノ声カカル。五右衛門赤面シツツ手ヲ振ル。時ニ文禄三年八月二十三日也。
「タマヤー! 」はもちろん大輪の花火にかける掛け声である。しかし、こんな掛け声は素人にはかけにくい。タイミングがわからない。歌舞伎の掛け声も同じである。一度はやってみたいが、やはりできない。そんなことばが世の中にはある。それをここでは、五右衛門の大きな「ふぐり」に対して発している。「タマヤー! 」のなかには驚嘆と笑いもある。こんなふうにことばを自在につかえたら、世の中は楽しくなるだろう。
そういう「お遊び」もこの作品のなかにはある。
そして、こうした自在な遊び、自在な言語の運動が、漢文体で書かれているのも魅力である。漢文体ならではの省略、スピードが随所にあふれている。「衆目ニフグリヲ曝(サラ)ス。手ニ余ッテ押サエキレズ。観衆ヨリ「タマヤー! 」ノ声カカル。五右衛門赤面シツツ手ヲ振ル。」の短文の積み重ねもそうした類のものである。
「想像力」は現実をゆがめる力、と10月19日の日記に書いた。
そのゆがめる力を力として具体化するためには「文体」がいる。「文体」が成立するためには、ことばと対象の距離を一定にすること、その一定を維持する「物差し」が必要である、とは20日の日記に書いたことである。
粒来は、「五右衛門偽伝」では「漢文体」を「物差し」としてつかっている。漢文には漢文のリズムがある。そのリズムがあれば、ことばは安定して動いてみえる。伝統として読者のなかに存在するものを、ことばの「容器」としてつかっている。
そうやってリズムを一定にしておいて、そのリズムの「容器」のなかにバズーカ砲、劣化ウラン弾もぶちこめば、「タマヤー! 」という遊びもぶち込む。
日本語はこういうこともできる。「詩」はこういうこともできるのである。
こうしたことができるのは、もちろん粒来にしっかりした「文体」があるからである。叩いても壊れない「文体」があるからである。
土台の「文体」ががっしりしているから、どんなことばでも取り込むことができる。取り込みながらことばを自在に動かしていくことができる。
「想像力」とは現実をゆがめる力である。ただし、それをゆがめるためには強固な文体が必要である。文体が軟弱なら、現実をゆがめる前に、ことばそのものがゆがんでいってしまう。
「鉈」のことばの動きが粒来の基本的な文体であると思う。粒来はしかし、「穴」のような文体も「五右衛門偽伝」のような文体も自在につかいこなすことができる。そして、ゆるぎのない文体こそが「詩」なのだと実感させてくれる。「文体」の力こそが「詩」なのだと実感させてくれる。