藤井五月「ぬぐう、くじら設計集団の夢」(「現代詩手帖」11月号)。
「現代詩新人賞奨励賞」の作品。受賞者は中尾太一で、長い長い作品が掲載されているが、私には藤井の作品の方がおもしろかった。
「くじら設計集団」とは何か。「クジラ設計集団」とどう違うのか。「報道」と「放送」はどう違うのか。何もわからない。わからないけれども、私はこの作品をおもしろいと思う。奇妙な集団の名前、その表記の乱れ、学校、先生、授業、刺殺、おっぱい。そうしたことばが引き寄せる「現実」(現実と信じている、今、私たちのまわりで起きていること)と藤井の向き合い方がおもしろいと感じたのである。
訳知り顔の「解説」が藤井のことばにはない。「倫理」が藤井のことばにはない。「解説」や「倫理」、つまり「定義づけ」がないことがこの詩の魅力であると思う。「解説」や「倫理」を藤井が書けないということではないだろう。「解説」や「倫理」はだれでもが書ける。どこからでも「引用」できる。しかし、藤井はそういうことをしない。そういうことを拒否している。それは引用した部分の最後の行の「名誉棄損」ということばの脈絡のなさに象徴的にあらわれている。「だれが」「名誉棄損で訴える」のか、その「主語」がそこには書かれていない。「主語」が不在のまま、「名誉棄損」というような「倫理」につながるものが放り出されている。
「解説」や「倫理」の「定義づけ」は、今起きていることを藤井から引き離してしまう。「解説」や「倫理」にはどうしても藤井以外の人間の作り上げてきた「常識」が侵入してきて、そのことばをつかう限り、今起きていることを、そういうことばで書いてしまえば、それは藤井の現実とは違ったもの、既成のだれそれの「解説」「倫理」になってしまうという感じがあるのだと思う。
「私は後悔していません」「私の描いた曲線」「私の顔」。これらのことばの「私」はだれでもがつかうことばであるが、藤井にとっては切実なことばであると思う。「私」ということばだけが激しく屹立してくる感じがする。それは「くじら設計集団」(クジラ設計集団)という不透明なことばによって、いっそう屹立してくる。「くじら設計集団」について知っているのは「私」だけなのである。「私」だけが知っていることがここに書かれている。だれのことばに頼るのでもなく、ただ藤井だけのオリジナルなことばによって書かれているのである。このオリジナルを単なる思いつき、でたらめと批判することは簡単である。しかし、それがどんな思いつきであるにしろ、そのだれのことばでもないもの、藤井自身のことばで現実と向き合おうとする意志がここには明確に表明されている。そのとき「私」を特徴づけるもの(定義づけるもの、アイデンティファイするもの)が「おっぱい」だけだとしても、それを武器にして「私」と「現実」を向き合わせ、そこからことばを動かしていこうとする意志がここにはある。
新人賞を受賞した中尾の作品にもなぜか「鯨」が登場するが、その「鯨」は藤井の鯨と違って、本物の「鯨」である。--藤井の「くじら」は「鯨」を指しているかどうか、ほんとうのところはわからない。世間をさわがせたあれこれの団体を揶揄的に描いたものかもしれない。少なくとも藤井は、読者の想像力が、そんなふうに藤井のことばを、どこかとんでもないところへひっぱっていくことを期待しながら書いているような感じもする。そういう思いの底には、藤井のことばをなんとか読者のことばと交差させ、そこで化学反応のようなものが起きることへの期待もあるのだと思う。
そして私は、そのかすかな期待のようなものにかける藤井の意志、想像力がおもしろいと思う。
ことばを動かしていくのは藤井である。しかし、ことばを読むのは藤井だけではない。藤井と無関係な人間(たとえば私)が読む。そのとき、その読み方は、藤井の意図したものとは違っているかもしれない。藤井は、むしろ違っていることを期待しているかもしれない。藤井の意図とはまったく違ったところへことばをひっぱっていって、そこでとんでもないことを感想として書くかもしれない。(たとえば、私がそうであるだろう。)
そのときの藤井と、たとえば私のあいだの「ずれ」、「行き違い」こそが、たぶん「詩」なのである。藤井のことばを藤井の意図とは違って読んでしまったとき、そこに「詩」があらわれる。だれの意識にも支配されていない、突然のことばの運動がはじまる。だれの意識とも無関係に、ことばが、ことば自体のエネルギーで動いていってしまう瞬間、そこに「詩」があるのだと思う。
藤井の今回の作品は「私からの手紙」(ここでも「私」が強調されている)でおわる。その手紙のことばは出だしのことばにくらべると力に欠ける。冒頭に引用したようなことばのスピードがない。イメージの飛躍がない。しかし、そのことが逆に不思議に私には何かわくわくしたものが残る。藤井はまだ藤井自身のことばを確立していない。これから藤井自身のことばを確立していくのだ。「私からの手紙」、その部分に書かれた文体は、これから先、どんなふうに変化していくだろうか、という期待が残る。それが私のわくわくである。
「現代詩新人賞奨励賞」の作品。受賞者は中尾太一で、長い長い作品が掲載されているが、私には藤井の作品の方がおもしろかった。
くじら設計集団による学校閉鎖によって帰路は断たれたと報道されました、
先生は授業中に刺殺したはずだったのにね、
押すのではなく引くのですというアドバイスのもと、
先生は後悔していると報道されましたが 私は後悔していません、
クジラ設計集団による十戒が発表されたと午前10時に放送されました、
先生は私の描いた曲線に興味を示してくれた、
私の顔のせいだと言い訳した後、
先生は血を流しながら私のおっぱいを揉んでいました私は泣きながら傷跡を押えて、
くじら設計集団による迷路が校庭に建設されたと名誉棄損で訴えるそうです。
「くじら設計集団」とは何か。「クジラ設計集団」とどう違うのか。「報道」と「放送」はどう違うのか。何もわからない。わからないけれども、私はこの作品をおもしろいと思う。奇妙な集団の名前、その表記の乱れ、学校、先生、授業、刺殺、おっぱい。そうしたことばが引き寄せる「現実」(現実と信じている、今、私たちのまわりで起きていること)と藤井の向き合い方がおもしろいと感じたのである。
訳知り顔の「解説」が藤井のことばにはない。「倫理」が藤井のことばにはない。「解説」や「倫理」、つまり「定義づけ」がないことがこの詩の魅力であると思う。「解説」や「倫理」を藤井が書けないということではないだろう。「解説」や「倫理」はだれでもが書ける。どこからでも「引用」できる。しかし、藤井はそういうことをしない。そういうことを拒否している。それは引用した部分の最後の行の「名誉棄損」ということばの脈絡のなさに象徴的にあらわれている。「だれが」「名誉棄損で訴える」のか、その「主語」がそこには書かれていない。「主語」が不在のまま、「名誉棄損」というような「倫理」につながるものが放り出されている。
「解説」や「倫理」の「定義づけ」は、今起きていることを藤井から引き離してしまう。「解説」や「倫理」にはどうしても藤井以外の人間の作り上げてきた「常識」が侵入してきて、そのことばをつかう限り、今起きていることを、そういうことばで書いてしまえば、それは藤井の現実とは違ったもの、既成のだれそれの「解説」「倫理」になってしまうという感じがあるのだと思う。
「私は後悔していません」「私の描いた曲線」「私の顔」。これらのことばの「私」はだれでもがつかうことばであるが、藤井にとっては切実なことばであると思う。「私」ということばだけが激しく屹立してくる感じがする。それは「くじら設計集団」(クジラ設計集団)という不透明なことばによって、いっそう屹立してくる。「くじら設計集団」について知っているのは「私」だけなのである。「私」だけが知っていることがここに書かれている。だれのことばに頼るのでもなく、ただ藤井だけのオリジナルなことばによって書かれているのである。このオリジナルを単なる思いつき、でたらめと批判することは簡単である。しかし、それがどんな思いつきであるにしろ、そのだれのことばでもないもの、藤井自身のことばで現実と向き合おうとする意志がここには明確に表明されている。そのとき「私」を特徴づけるもの(定義づけるもの、アイデンティファイするもの)が「おっぱい」だけだとしても、それを武器にして「私」と「現実」を向き合わせ、そこからことばを動かしていこうとする意志がここにはある。
新人賞を受賞した中尾の作品にもなぜか「鯨」が登場するが、その「鯨」は藤井の鯨と違って、本物の「鯨」である。--藤井の「くじら」は「鯨」を指しているかどうか、ほんとうのところはわからない。世間をさわがせたあれこれの団体を揶揄的に描いたものかもしれない。少なくとも藤井は、読者の想像力が、そんなふうに藤井のことばを、どこかとんでもないところへひっぱっていくことを期待しながら書いているような感じもする。そういう思いの底には、藤井のことばをなんとか読者のことばと交差させ、そこで化学反応のようなものが起きることへの期待もあるのだと思う。
そして私は、そのかすかな期待のようなものにかける藤井の意志、想像力がおもしろいと思う。
ことばを動かしていくのは藤井である。しかし、ことばを読むのは藤井だけではない。藤井と無関係な人間(たとえば私)が読む。そのとき、その読み方は、藤井の意図したものとは違っているかもしれない。藤井は、むしろ違っていることを期待しているかもしれない。藤井の意図とはまったく違ったところへことばをひっぱっていって、そこでとんでもないことを感想として書くかもしれない。(たとえば、私がそうであるだろう。)
そのときの藤井と、たとえば私のあいだの「ずれ」、「行き違い」こそが、たぶん「詩」なのである。藤井のことばを藤井の意図とは違って読んでしまったとき、そこに「詩」があらわれる。だれの意識にも支配されていない、突然のことばの運動がはじまる。だれの意識とも無関係に、ことばが、ことば自体のエネルギーで動いていってしまう瞬間、そこに「詩」があるのだと思う。
藤井の今回の作品は「私からの手紙」(ここでも「私」が強調されている)でおわる。その手紙のことばは出だしのことばにくらべると力に欠ける。冒頭に引用したようなことばのスピードがない。イメージの飛躍がない。しかし、そのことが逆に不思議に私には何かわくわくしたものが残る。藤井はまだ藤井自身のことばを確立していない。これから藤井自身のことばを確立していくのだ。「私からの手紙」、その部分に書かれた文体は、これから先、どんなふうに変化していくだろうか、という期待が残る。それが私のわくわくである。