詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井五月「ぬぐう、くじら設計集団の夢」

2006-10-29 23:53:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 藤井五月「ぬぐう、くじら設計集団の夢」(「現代詩手帖」11月号)。
 「現代詩新人賞奨励賞」の作品。受賞者は中尾太一で、長い長い作品が掲載されているが、私には藤井の作品の方がおもしろかった。

くじら設計集団による学校閉鎖によって帰路は断たれたと報道されました、
先生は授業中に刺殺したはずだったのにね、
押すのではなく引くのですというアドバイスのもと、
先生は後悔していると報道されましたが 私は後悔していません、
クジラ設計集団による十戒が発表されたと午前10時に放送されました、
先生は私の描いた曲線に興味を示してくれた、
私の顔のせいだと言い訳した後、
先生は血を流しながら私のおっぱいを揉んでいました私は泣きながら傷跡を押えて、
くじら設計集団による迷路が校庭に建設されたと名誉棄損で訴えるそうです。

 「くじら設計集団」とは何か。「クジラ設計集団」とどう違うのか。「報道」と「放送」はどう違うのか。何もわからない。わからないけれども、私はこの作品をおもしろいと思う。奇妙な集団の名前、その表記の乱れ、学校、先生、授業、刺殺、おっぱい。そうしたことばが引き寄せる「現実」(現実と信じている、今、私たちのまわりで起きていること)と藤井の向き合い方がおもしろいと感じたのである。
 訳知り顔の「解説」が藤井のことばにはない。「倫理」が藤井のことばにはない。「解説」や「倫理」、つまり「定義づけ」がないことがこの詩の魅力であると思う。「解説」や「倫理」を藤井が書けないということではないだろう。「解説」や「倫理」はだれでもが書ける。どこからでも「引用」できる。しかし、藤井はそういうことをしない。そういうことを拒否している。それは引用した部分の最後の行の「名誉棄損」ということばの脈絡のなさに象徴的にあらわれている。「だれが」「名誉棄損で訴える」のか、その「主語」がそこには書かれていない。「主語」が不在のまま、「名誉棄損」というような「倫理」につながるものが放り出されている。
 「解説」や「倫理」の「定義づけ」は、今起きていることを藤井から引き離してしまう。「解説」や「倫理」にはどうしても藤井以外の人間の作り上げてきた「常識」が侵入してきて、そのことばをつかう限り、今起きていることを、そういうことばで書いてしまえば、それは藤井の現実とは違ったもの、既成のだれそれの「解説」「倫理」になってしまうという感じがあるのだと思う。
 「私は後悔していません」「私の描いた曲線」「私の顔」。これらのことばの「私」はだれでもがつかうことばであるが、藤井にとっては切実なことばであると思う。「私」ということばだけが激しく屹立してくる感じがする。それは「くじら設計集団」(クジラ設計集団)という不透明なことばによって、いっそう屹立してくる。「くじら設計集団」について知っているのは「私」だけなのである。「私」だけが知っていることがここに書かれている。だれのことばに頼るのでもなく、ただ藤井だけのオリジナルなことばによって書かれているのである。このオリジナルを単なる思いつき、でたらめと批判することは簡単である。しかし、それがどんな思いつきであるにしろ、そのだれのことばでもないもの、藤井自身のことばで現実と向き合おうとする意志がここには明確に表明されている。そのとき「私」を特徴づけるもの(定義づけるもの、アイデンティファイするもの)が「おっぱい」だけだとしても、それを武器にして「私」と「現実」を向き合わせ、そこからことばを動かしていこうとする意志がここにはある。
 新人賞を受賞した中尾の作品にもなぜか「鯨」が登場するが、その「鯨」は藤井の鯨と違って、本物の「鯨」である。--藤井の「くじら」は「鯨」を指しているかどうか、ほんとうのところはわからない。世間をさわがせたあれこれの団体を揶揄的に描いたものかもしれない。少なくとも藤井は、読者の想像力が、そんなふうに藤井のことばを、どこかとんでもないところへひっぱっていくことを期待しながら書いているような感じもする。そういう思いの底には、藤井のことばをなんとか読者のことばと交差させ、そこで化学反応のようなものが起きることへの期待もあるのだと思う。
 そして私は、そのかすかな期待のようなものにかける藤井の意志、想像力がおもしろいと思う。
 ことばを動かしていくのは藤井である。しかし、ことばを読むのは藤井だけではない。藤井と無関係な人間(たとえば私)が読む。そのとき、その読み方は、藤井の意図したものとは違っているかもしれない。藤井は、むしろ違っていることを期待しているかもしれない。藤井の意図とはまったく違ったところへことばをひっぱっていって、そこでとんでもないことを感想として書くかもしれない。(たとえば、私がそうであるだろう。)
 そのときの藤井と、たとえば私のあいだの「ずれ」、「行き違い」こそが、たぶん「詩」なのである。藤井のことばを藤井の意図とは違って読んでしまったとき、そこに「詩」があらわれる。だれの意識にも支配されていない、突然のことばの運動がはじまる。だれの意識とも無関係に、ことばが、ことば自体のエネルギーで動いていってしまう瞬間、そこに「詩」があるのだと思う。

 藤井の今回の作品は「私からの手紙」(ここでも「私」が強調されている)でおわる。その手紙のことばは出だしのことばにくらべると力に欠ける。冒頭に引用したようなことばのスピードがない。イメージの飛躍がない。しかし、そのことが逆に不思議に私には何かわくわくしたものが残る。藤井はまだ藤井自身のことばを確立していない。これから藤井自身のことばを確立していくのだ。「私からの手紙」、その部分に書かれた文体は、これから先、どんなふうに変化していくだろうか、という期待が残る。それが私のわくわくである。



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クリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」

2006-10-29 23:39:01 | 映画
「父親たちの星条旗」

監督 クリント・イーストウッド 出演 ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ

 この映画のいちばんの驚きは戦争を描きながら、それも硫黄島の悲惨な戦いを描きながら「血の色」が出てこないことにある。たとえばスティーブン・スピルバーグの「プライベート・ライアン」の冒頭ではおびただしい血が鮮やかな色で描かれた。ところがイーストウッドの映画では、それは黒い濡れた光でしかなく、真っ赤な色が立ち上がってこない。この「血の色」の否定というか、隠蔽こそが、この映画が告発しているものである。この映画を映画として成立させている力である。

 この映画には大きくわけて3種類の映像がある。ひとつは硫黄島の戦場。もうひとつは星条旗を立てた「英雄」がヒーローとして国債売り込みツアーをするシーン。そしてのこりのもう一つが家庭、あるいは遺族のシーン。戦場のシーンは色調が独特である。ツアーや家庭のシーンとは色調加工に違いがある。それにもかかわらず、というか、色調加工してあるために、その3つのシーンが自然につながる。「血の色」が見えないがゆえに、遠い太平洋の島で戦いをアメリカ本土と区別するものが見えない。そして、その硫黄島とアメリカ本土を区別するものが見えないことを利用して、逆に硫黄島とアメリカ本土をつなぐものを浮かび上がらせる。
 何がかけはなれた世界を結びつけるのか。
 英雄(ヒーロー)伝説、英雄神話である。英雄などというものはどこにも存在しない。戦場では誰もが銃弾にあたり死んでいく。死なないのは一種の偶然にすぎない。手柄もほとんど幸運にすぎない。(偶然や幸運を味方にするのが英雄といえば英雄だろうけれど。)「血の色」が見えない--「血の色」を政治家や家族は実際には見はしない。だからこそ簡単に「英雄」を作り上げ、「英雄伝説」を作り上げ、その力で世界そのものを捏造してしまう。自分たちの都合のいいものにしてしまう。「国民」も「血の色」を直接見ないまま、自分たちの現実を忘れるために「英雄伝説」を信じてしまう。生き残ったものではなく、死んでしまった仲間こそが「英雄」であるという思い(実際に「血の色」を見てきた人間の思い)とは逆に、「血の色」を感じさせない人間が政治や家庭からは英雄に見えてしまう。死なずに、勝利をもって帰ってきてくれた人間が政治家、家庭にとっての「英雄」なのである。
 「血の色」を欠いた「英雄像」が、戦場、政治、家庭を結びつけ、同時に、生き残った3人の意識のなかに、戦場、政治、家庭の分断を引き起こす。戦場、政治、家庭を往復しながら、主人公の3人は苦悩を深めていく。「血の色」は3人の記憶のなかにしかない。3人の肉体のなかにしかない。それは死んでいった仲間の流した血の色そのものである。だれもそれをみつめようとしない--そこに3人の苦悩の深さがある。
 3人の苦悩を描くことで、イーストウッドの映画は「血の色」を直視しない政治を厳しく批判している。「血の色」を隠し、「英雄」を捏造する「想像力」を厳しく批判している。

 主役の3人は、アメリカの政治のなかで語られるような英雄ではない。しかし、別の意味では、やはり英雄である。血を流し、生き続ける人間にとっての英雄である。苦悩する人間にとっての英雄である。人間は苦悩しながら生きて行けるということを代弁する英雄である。生きるとは、苦悩していきることだと告げる英雄である。彼等の苦悩によりそうことでしか生きる方法はない。
 イーストウッドは「ミリオンダラー・ベイビー」にしろ「ミスティック・リバー」にしろ、苦悩の「血の色」を鮮やかに描いていた。それはもちろん映像として見える色ではない。映像としては見えないけれど、スクリーンに接し、主人公にこころを重ねるとき、観客の肉体のなかで動く「血の色」であった。
 この「父親たちの星条旗」には「血の色」は出てこない。だからこそ、私たちは、そこに「血の色」を見なければならない。政治家にあやつられ国債売り込みツアーにかけまわるとき、戦場で無残に死んでいった仲間を思い、主役の3人が流すこころの「血の色」を見なければならない。その「血の色」は、そのまま戦場に流れた肉体の「血の色」である。国債売り込みツアーを飾る虚飾の色を剥ぎ取り、イーストウッドが戦場を描いた「色」にしてしまう視力が求められている。日常にある「虚飾」、たとえば「英雄伝説」を剥ぎ取るとき、その奥から「血の色」はよみがえってくるのである。

 この映画で、イーストウッドは「血の色」は見えるか、と観客に問いかけているのである。たとえばアイスクリームでつくった星条旗を立てる「英雄像」。それにどんなソースをかける。ストロベリーソースをかけるとき、その色は「何色」に見えるか。カメラが捉える直接的な色を隠して、イーストウッドは観客に問いかけている。






コメント (4)
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