粒来哲蔵『穴』(書肆山田)。(その1)
冒頭の「鉈(なた)」という作品に不思議なことばが出てくる。ほとんど終わりに近い部分である。
「死んだ男の夢の中で」。
死んだ男は夢を見るだろうか。死んだあと、意識はない、と考えるのが普通の考えだろう。意識がなければ夢は見ない。
それでも私たちは「死んだ男の夢の中で」ということばを受け入れることができる。死んだ男が夢を見てもかまわないと考えることができる。想像力は現実を否定して動く。現実を否定し、ゆがめる力が想像力といってもいい。そして、この現実をゆがめる力、その力によって動いていくことばが「詩」である。粒来の「詩」である。
現実をゆがめる、とは、別のことばで言えば、かならず現実に触れているということである。現実とつながっているということである。接触から現実がゆがみはじめるのである。接触がなければ、現実は常に自己の外部にあり、ゆがむことはない。ゆがませることはできない。接触が現実と自己との境目で作用するのである。現実をゆがめると私は書いてきたが、その接触を境にして、現実がゆがむのか、それとも自己の方がゆがむのか、あるいは両方がゆがむのか、それは判然とはしない。判然としないゆがみのなかを、ゆがみとなって動いていくのが想像力であり、その運動が、粒来の「詩」である。
接触は、どんなふうに粒来の作品のなかにあらわれている。
「鉈」は「空に鉈を投げ上げて笑っている男がいた。」で始まる。投げ上げた鉈の「落ちる地点はいつも男の予想を裏切った。」そしてある日、落ちてこなかった。見失なった。その夜、男は女を抱いた。
「男が女を組み敷いた」。そこに接触がある。そのとき、男は見失なった鉈の音を聞く。 「鉈が降ってきて、男の頭蓋を断ち割った」。そこに接触がある。自己(男)と男以外のもの(女、鉈)が作用して、男をそれまでの男とは違った存在にする。見失なった鉈の空を切る音が聞こえる(聞くことができる)男に。頭蓋を断ち割られた男に。
現実がゆがむ前に、男そのものがゆがんでいる。男がそれまでの男ではなくなる。頭蓋が断ち割られた男は、男そのものではなく、「死」になってしまっている。想像力は、ほんとうはそこから始まっている。現実をゆがめる力というよりも、自分が自分でなくなり、自分でなくなったまま現実を見る。そうすると、その現実は、どうしてもそれまで見ていた現実のままではありえない。つまり、ゆがんでいる。
接触によって始まる変化を受け入れること、その変化を生きることが想像力を生きるということである。
「詩」はこのときから、あらゆる変化を生きることの「予行演習」のようなものになる。そして、それが「予行演習」のようなものだからこそ、私たちは、そのことばの運動を受け入れる。受け入れながら、人間がどんなふうに変化しうるか、その変化の可能性の領域を、のぞいてみる。粒来のことばにしたがって、ことばがどこまで動いてゆくかをみつめる。
想像力は現実をゆがめる力であるが、それは実は、自分自身をゆがめる力、ゆがめながらなお存在しつづける力である。
「死んだ男の夢の中で」と粒来は書いていた。
粒来のこの詩集には「死」がたくさん登場する。「死」とことばを通して接触し、「死」をゆがめ、同時に「死」を前にして生きている自己をゆがめる。どんなふうに「死」を受け入れるか、というより、どんなふうにしてもう一度「生」をゆがめて、「死」に拮抗できるだけの存在としてとらえられるか、と問うているようでもある。どんなふうにゆがめなおせば、これまでの生は死に拮抗するだけの豊かなものになるのか、と試しているようでもある。
「死」と拮抗する意識があるからこそ、そのことばには張り、緊張がある。ぐいぐい動いていく力がある。動き続けるものだけがもっている清潔さがある。
*
この「鉈」には、一か所、とても奇妙な部分がある。冒頭の一段落の最後の文章。男は鉈を投げ上げては、落ちてくるとそれを拾いに行っているのだが……。
地上に落ちた鉈を取りにゆくのは平気である。だが水に落ちた鉈を取りにゆくのは恥ずかしい。「えげつない恰好」が恥ずかしい。どういうことだろうか。地上に落ちた鉈を拾い上げる恰好は「えげつな」くはなくて、水に落ちた鉈を拾うときだけ「えげつない」のだろうか。
なぜ?
水に体が(服が?)濡れないように、地上とは違った恰好をするから? それとも水に自分の姿を映すから? つまり、自分の姿をみつめることになるから?
書きたくない何か、書こうとして書けない何かが、この一文の奥に存在するのかもしれない。この作品を読むだけでは、それがどういうものか、まったくわからない。
冒頭の「鉈(なた)」という作品に不思議なことばが出てくる。ほとんど終わりに近い部分である。
死んだ男の夢の中で、空一面眩いばかりに吊り下げられた鉈の刃が光っていた。
「死んだ男の夢の中で」。
死んだ男は夢を見るだろうか。死んだあと、意識はない、と考えるのが普通の考えだろう。意識がなければ夢は見ない。
それでも私たちは「死んだ男の夢の中で」ということばを受け入れることができる。死んだ男が夢を見てもかまわないと考えることができる。想像力は現実を否定して動く。現実を否定し、ゆがめる力が想像力といってもいい。そして、この現実をゆがめる力、その力によって動いていくことばが「詩」である。粒来の「詩」である。
現実をゆがめる、とは、別のことばで言えば、かならず現実に触れているということである。現実とつながっているということである。接触から現実がゆがみはじめるのである。接触がなければ、現実は常に自己の外部にあり、ゆがむことはない。ゆがませることはできない。接触が現実と自己との境目で作用するのである。現実をゆがめると私は書いてきたが、その接触を境にして、現実がゆがむのか、それとも自己の方がゆがむのか、あるいは両方がゆがむのか、それは判然とはしない。判然としないゆがみのなかを、ゆがみとなって動いていくのが想像力であり、その運動が、粒来の「詩」である。
接触は、どんなふうに粒来の作品のなかにあらわれている。
「鉈」は「空に鉈を投げ上げて笑っている男がいた。」で始まる。投げ上げた鉈の「落ちる地点はいつも男の予想を裏切った。」そしてある日、落ちてこなかった。見失なった。その夜、男は女を抱いた。
男が女を組み敷いた時、再び空から鉈の降る音がした。今度はさすがに男にも確信めいたものが閃いた。男は女をかなぐり捨て、暗夜を一気に走り抜けた。どこという当てはなかったがそこはどこかにあるはずで、そここそが鉈の落下点であるべきだった。やがて男はとある古屋敷の柿の木の下に立っていた。木守りの実が一つだけ梢近くで熟れていた。男はそれを見上げた、とたんに鉈が降ってきて、男の頭蓋を断ち割った。熟れ柿のそれに似た赤いどろどろしたものをちらして男は昏倒した。
「男が女を組み敷いた」。そこに接触がある。そのとき、男は見失なった鉈の音を聞く。 「鉈が降ってきて、男の頭蓋を断ち割った」。そこに接触がある。自己(男)と男以外のもの(女、鉈)が作用して、男をそれまでの男とは違った存在にする。見失なった鉈の空を切る音が聞こえる(聞くことができる)男に。頭蓋を断ち割られた男に。
現実がゆがむ前に、男そのものがゆがんでいる。男がそれまでの男ではなくなる。頭蓋が断ち割られた男は、男そのものではなく、「死」になってしまっている。想像力は、ほんとうはそこから始まっている。現実をゆがめる力というよりも、自分が自分でなくなり、自分でなくなったまま現実を見る。そうすると、その現実は、どうしてもそれまで見ていた現実のままではありえない。つまり、ゆがんでいる。
接触によって始まる変化を受け入れること、その変化を生きることが想像力を生きるということである。
「詩」はこのときから、あらゆる変化を生きることの「予行演習」のようなものになる。そして、それが「予行演習」のようなものだからこそ、私たちは、そのことばの運動を受け入れる。受け入れながら、人間がどんなふうに変化しうるか、その変化の可能性の領域を、のぞいてみる。粒来のことばにしたがって、ことばがどこまで動いてゆくかをみつめる。
想像力は現実をゆがめる力であるが、それは実は、自分自身をゆがめる力、ゆがめながらなお存在しつづける力である。
「死んだ男の夢の中で」と粒来は書いていた。
粒来のこの詩集には「死」がたくさん登場する。「死」とことばを通して接触し、「死」をゆがめ、同時に「死」を前にして生きている自己をゆがめる。どんなふうに「死」を受け入れるか、というより、どんなふうにしてもう一度「生」をゆがめて、「死」に拮抗できるだけの存在としてとらえられるか、と問うているようでもある。どんなふうにゆがめなおせば、これまでの生は死に拮抗するだけの豊かなものになるのか、と試しているようでもある。
「死」と拮抗する意識があるからこそ、そのことばには張り、緊張がある。ぐいぐい動いていく力がある。動き続けるものだけがもっている清潔さがある。
*
この「鉈」には、一か所、とても奇妙な部分がある。冒頭の一段落の最後の文章。男は鉈を投げ上げては、落ちてくるとそれを拾いに行っているのだが……。
水に落ちた時には男もさすがに取りにいく自分のえげつない恰好を恥じたが、取り戻すとすぐに笑って投げ上げた。
地上に落ちた鉈を取りにゆくのは平気である。だが水に落ちた鉈を取りにゆくのは恥ずかしい。「えげつない恰好」が恥ずかしい。どういうことだろうか。地上に落ちた鉈を拾い上げる恰好は「えげつな」くはなくて、水に落ちた鉈を拾うときだけ「えげつない」のだろうか。
なぜ?
水に体が(服が?)濡れないように、地上とは違った恰好をするから? それとも水に自分の姿を映すから? つまり、自分の姿をみつめることになるから?
書きたくない何か、書こうとして書けない何かが、この一文の奥に存在するのかもしれない。この作品を読むだけでは、それがどういうものか、まったくわからない。