詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

飯田伸一「地図にはないものの旅」

2006-10-01 22:25:52 | 詩集
 飯田伸一「地図にはないものの旅」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1997年2月号の作品。ことばが選び抜かれている。余分なものがない。静謐な空気が漂う。最後の部分が非常に美しい。

あなたは触れた
川と呼ばれるものの
一本の線で繋がれ
海へ逃げていく地図の上の形骸の旅行を
その膨大な読み取れる物語は
見過ごすことしかできない私たちのうち
あなたは一つのことだけを掴んだ
これは川ではなく水なのだということを
            (谷内注・「掴んだ」は本文は旧字体)

 「地図」を旅しているのか。それとも現実の土地を歩いて、それを頭の中で地図にしているのか。意識と現実が交錯し、その交錯したものこそ世界なのだということを、飯田は強く意識しているのだと思う。
 意識と現実が交錯するところに「物語」が生まれる。あるいは「物語」のなかで現実と意識は交錯し、交じり合い、そしてゆっくりと分離する。
 引用した行に先立つ部分に

日めくりのような生活の
古びれた販売機の
国道の先は曲がり折れて

という具体的で美しい描写がある。「物語」は常にそういう細部から始まり、意識(精神)を動かす。動いていくからこそ、次の展開が胸に響く。

日めくりのような生活の
古びれた販売機の
国道の先は曲がり折れて
昔を語る老婆を
その土地の痛みを

 「土地の痛み」というような抽象的なものは、それに先立つ3行がなければ絵空事である。具体的な風景があるということは、そこに空気があるということである。「土地の痛み」は「土地」そのものの「痛み」ではなく、そこで暮らす人々(たとえば老婆)の痛みであり、それは老婆の息といっしょに、その街そのものをつくっている。
 具象と抽象、風景と精神を往復しながら「物語」を生きる。そして最後につかみとるのは、精神(意識)ではなく具体的な存在、もの、である。そこに飯田の詩の美しさがある。

あなたは一つのことだけを掴んだ
これは川ではなく水なのだということを

 「水」という具体的なもの。存在。そして、それが掴んだものの「一つだけ」であるということ。
 「一つ」を掴むために、複数のもののなかをくぐりぬける。くぐり抜けながら、精神の、意識の夾雑物を捨てていくのである。だからこそ、その「水」が透明に広がる。澄んだ声のように立ち上がる。あるいは天から降ってくるもののように輝く。

 短い詩だが、あえて全行の引用は避けた。ぜひ、全文を「現代詩手帖」で確かめてほしい。美しさを味わってほしい。飯田の歩いた街がどこにあるのかわからないが、(そして、たぶんどこにでもある任意の街なのだと思うが)、その街を探して歩いてみたくなる詩である。
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M・ナイト・シャマラン監督「レディ・イン・ザ・ウォーター」

2006-10-01 22:08:25 | 映画
監督 M・ナイト・シャマラン 出演 ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード

 大人のための「童話」である。「童話」にはしばしば「教訓」というか、「意味」がまじりこむ。そうすると、とたんにおもしろくなくなる。
 この映画にも「意味」がまじりこむ。しかも、露骨である。
 主人公は医者だった。彼が留守中、強盗に入られる。妻とこどもの命が奪われる。そばにいて守ってやることができなかった。そのことが主人公のこころの奥に重くたまっている。彼は、そこからどうやって立ち直るか。
 単純である。自分では戦うことを知らない少女を守ることによってである。「童話」そのものがそうであるように、ヒロインは瀕死の状態になる。そのとき、主人公は、その少女に妻やこどもたちの姿を重ね、彼の思いを語る。「守ってやることができずに、ごめん。今でも愛しているよ」。主人公は、自分の苦悩を語ることで、自己を解放する。その力が少女にも伝わり、少女は元気を取り戻す。
 映画のストーリーは、見かけ上は、不思議な少女を救うという構造をとっているが、実は、その少女を救うことにかかわるひとりの男の成長の物語である。その「裏」の構造があまりにも透けて見える。
 まるで少女を救うために住民が協力するというよりも、医師の苦悩を知ったアパートの住民が全員でひと芝居やってみせる、という感じすらする。もしそれならそれで、とてもおもしろい映画になると思うけれど、M・ナイト・シャマランはあくまでストーリーの主眼は少女の救出にあるように見せかける。それが、なんとも、いやらしい。
 少女(水の精)が人間に正しい道を教えるというのだけれど、その正しい道というのが、自分の苦悩は自分で抱え込まず、語る。つまり、しっかりと見つめなおす。そこから再生がはじまる……というのは、それはそれでわかるけれど、奇妙な白々しさが残る。



 M・ナイト・シャマランは、現実と認識が重ならない世界を描く。「シックス・センス」がその代表作だが、主人公が現実だと思っていたこと(観客が現実だと思っていたこと)が、実は現実ではなかった。主人公の「想像」の世界だった、というオチで観客をびっくりさせたが、今度はオチを見せなかった。オチを省略することで「童話」を「童話」のままにしたのではなく、「童話」を露骨な教訓ストーリーに堕落させてしまった。
 映像をことばでいちいち説明していくシナリオも最悪である。映画なのに映像を見ている感じがしない。「童話」を読み聞かされている感じがする。
 映像としていちばん恐怖を呼び起こさなければならない草まみれのオオカミのような獣もぜんぜん怖くない。オオカミにさえ見えない。映画が映像であることを忘れてしまったとき、それはとてつもなく退屈なものになってしまう。

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