飯田伸一「地図にはないものの旅」(「現代詩手帖」10月号)。
「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1997年2月号の作品。ことばが選び抜かれている。余分なものがない。静謐な空気が漂う。最後の部分が非常に美しい。
「地図」を旅しているのか。それとも現実の土地を歩いて、それを頭の中で地図にしているのか。意識と現実が交錯し、その交錯したものこそ世界なのだということを、飯田は強く意識しているのだと思う。
意識と現実が交錯するところに「物語」が生まれる。あるいは「物語」のなかで現実と意識は交錯し、交じり合い、そしてゆっくりと分離する。
引用した行に先立つ部分に
という具体的で美しい描写がある。「物語」は常にそういう細部から始まり、意識(精神)を動かす。動いていくからこそ、次の展開が胸に響く。
「土地の痛み」というような抽象的なものは、それに先立つ3行がなければ絵空事である。具体的な風景があるということは、そこに空気があるということである。「土地の痛み」は「土地」そのものの「痛み」ではなく、そこで暮らす人々(たとえば老婆)の痛みであり、それは老婆の息といっしょに、その街そのものをつくっている。
具象と抽象、風景と精神を往復しながら「物語」を生きる。そして最後につかみとるのは、精神(意識)ではなく具体的な存在、もの、である。そこに飯田の詩の美しさがある。
「水」という具体的なもの。存在。そして、それが掴んだものの「一つだけ」であるということ。
「一つ」を掴むために、複数のもののなかをくぐりぬける。くぐり抜けながら、精神の、意識の夾雑物を捨てていくのである。だからこそ、その「水」が透明に広がる。澄んだ声のように立ち上がる。あるいは天から降ってくるもののように輝く。
短い詩だが、あえて全行の引用は避けた。ぜひ、全文を「現代詩手帖」で確かめてほしい。美しさを味わってほしい。飯田の歩いた街がどこにあるのかわからないが、(そして、たぶんどこにでもある任意の街なのだと思うが)、その街を探して歩いてみたくなる詩である。
「現代詩手帖賞を読む」のうちの1篇。1997年2月号の作品。ことばが選び抜かれている。余分なものがない。静謐な空気が漂う。最後の部分が非常に美しい。
あなたは触れた
川と呼ばれるものの
一本の線で繋がれ
海へ逃げていく地図の上の形骸の旅行を
その膨大な読み取れる物語は
見過ごすことしかできない私たちのうち
あなたは一つのことだけを掴んだ
これは川ではなく水なのだということを
(谷内注・「掴んだ」は本文は旧字体)
「地図」を旅しているのか。それとも現実の土地を歩いて、それを頭の中で地図にしているのか。意識と現実が交錯し、その交錯したものこそ世界なのだということを、飯田は強く意識しているのだと思う。
意識と現実が交錯するところに「物語」が生まれる。あるいは「物語」のなかで現実と意識は交錯し、交じり合い、そしてゆっくりと分離する。
引用した行に先立つ部分に
日めくりのような生活の
古びれた販売機の
国道の先は曲がり折れて
という具体的で美しい描写がある。「物語」は常にそういう細部から始まり、意識(精神)を動かす。動いていくからこそ、次の展開が胸に響く。
日めくりのような生活の
古びれた販売機の
国道の先は曲がり折れて
昔を語る老婆を
その土地の痛みを
「土地の痛み」というような抽象的なものは、それに先立つ3行がなければ絵空事である。具体的な風景があるということは、そこに空気があるということである。「土地の痛み」は「土地」そのものの「痛み」ではなく、そこで暮らす人々(たとえば老婆)の痛みであり、それは老婆の息といっしょに、その街そのものをつくっている。
具象と抽象、風景と精神を往復しながら「物語」を生きる。そして最後につかみとるのは、精神(意識)ではなく具体的な存在、もの、である。そこに飯田の詩の美しさがある。
あなたは一つのことだけを掴んだ
これは川ではなく水なのだということを
「水」という具体的なもの。存在。そして、それが掴んだものの「一つだけ」であるということ。
「一つ」を掴むために、複数のもののなかをくぐりぬける。くぐり抜けながら、精神の、意識の夾雑物を捨てていくのである。だからこそ、その「水」が透明に広がる。澄んだ声のように立ち上がる。あるいは天から降ってくるもののように輝く。
短い詩だが、あえて全行の引用は避けた。ぜひ、全文を「現代詩手帖」で確かめてほしい。美しさを味わってほしい。飯田の歩いた街がどこにあるのかわからないが、(そして、たぶんどこにでもある任意の街なのだと思うが)、その街を探して歩いてみたくなる詩である。