詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

みえのふみえき「湖畔にて Occurence  7」

2006-10-06 23:37:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 みえのふみあき「湖畔にて Occurence  7」(「乾河」47)。
 とても美しいイメージだ。

暗い湖水のうえを漂う一艘の小舟
その舳先に沿って
固定された光は
蹄鉄のように硬く冷たい
小波が浅い喫水線を
やさしく洗う

照応する夜空と湖面の大きさは等しい
流星が切り裂く一刻の時
女の深い吐息が風となり
ぼくは葦の穂先のように撓う

 この美しさの「源」はどこにあるのか。みえののことばを借りて言えば「照応」にある。存在が互いに相手を照らしながら、そこに緊密な関係を作り上げる。その緊密さが「美しさ」の理由だ。
 「暗い湖水」の「暗い」には「光」が照応する。照応することで、その暗さと明るさがより鮮明になる。「漂う」は「固定」、「硬く冷たい」は「やさしく」。それらは照応することにより、本質をさらに鮮明にする。
 そういう丁寧なイメージの積み重ねのあとで、みえのは大胆だ。とてもすごい断定をする。

照応する夜空と湖面の大きさは等しい

 夜空と湖面の大きさが等しいということは現実にはありえない。物理的にありえない。しかし、1連目の照応、存在が互いに相手を照らしながらその本質をきわだたせるという関係を見てきたあとでは、これが「等しい」ものに思える。
 物理的には「等しい」わけがない。しかし、心理的(心情的)には等しい。「大きさ」は「面積」ではなくて別なものを指しているのだ。何か。「暗い」と「光」、「漂う」と「固定」、「硬く冷たい」と「やさしい」を照応したもの、たがいに相手を照らしだすものととらえるときの、その精神のあり方(精神の動く運動の大きさ)が「等しい」のである。
 そう感じたときから、ここに描かれているのは、私の外の風景であると同時に、私のこころのなかに存在する風景、イメージであることがわかる。イメージにまで昇華した世界であることがわかる。外的世界と内的世界が融合した世界をみえのは描いている。
 外的世界と内的世界を融合した世界であるがゆえに、次の1行は、とてつもなく鮮烈である。

流星が切り裂く一刻の時

 「流星」は何を切り裂いたのだろうか。「夜空」か。「湖面」か。あるいは、「夜空」と「湖面」が照応していると認識する精神をか。あるいは、そういう認識の「恍惚」とした「一刻」(一瞬の時間)か。
 あるいは、次の行の「女の深い吐息」を考慮すれば、「流星」が切り裂いたのは女のこころか、あるいは女の肉体か。もし女の肉体であるなら「流星」とは何だろう。夜空に存在するものか。あるいは男の肉体の内部でつくられる無数の星か。
 ふいに登場した女と「ぼく(男)」は、どこにいたのだろうか。「小波」を引き起こす小舟の上か。そして小舟は湖水のどこにいたのか。湖水の中央か。葦の繁る岸辺か。

 ふいに「誤読」をもとめて、私のこころはさまよい始める。この瞬間が、私には、とても楽しい。美しいイメージと照応している現実の肉体のありようについて、ちょっと意地悪な質問もしてみたくなる。「いったい、みえのさんは、どこで何をしていたんですか?」と。

 こういう詩の読み方って楽しくないですか?
コメント
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