詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古賀忠昭『血ん穴』

2006-12-01 23:23:56 | 詩集
 古賀忠昭『血ん穴』(弦書房、2006年12月01日発行)。
 「血ん穴」は「母ん股倉ん奥の血ん穴ばひきあけ、そん中に頭ば突っ込む。」ということばから始まる。「奥」がこの作品のひとつのテーマである。人間の「奥」、欲望の「奥」、生の「奥」、性の「奥」、死の「奥」。それはひとつである。「そん中に頭ば突っ込む」とき、「奥」と「頭」は別々の存在のはずだが、突っ込んでしまえばそれはひとつのものになってしまう。母の股ぐらの「奥」と、そこに突っ込まれた「頭」は、いったん突っ込まれたらもう分離することはできない。それが「人間」であり「生」であり「性」であり「死」である。
 そこで起きることを、古賀はひとことで代弁させている。

 コンバカタレガ!
                 (30ページ)

 妹と性交した兄。二人を切り殺す父。切り殺されても離れない兄妹の性器。それへ向けて叫ぶ絶望のことば「バカタレ」。
 この「バカタレ」は「許し」である。否定することでしか「許し」はありえないのである。「否定」と「許し」は矛盾するが、その矛盾の中にすべてがある。
 「否定」は直接的には、ここでは近親相姦の兄妹に向けられているが、その近親相姦と父は無縁ではない。父と母が交わらなければ兄妹の誕生はなく、その結果としても近親相姦もありえない。父と母の欲望が産み落としたものが兄妹の近親相姦である。それは父の、そして母の夢の欲望であり、熱望かもしれないし、あるいは父と母がしてきたことかもしれない。
 そしてその「否定」が殺人の形で実行されるとき、「バカタレ」は兄妹にだけ向けられているのではない。二人を殺す父自身にも向けられている。近親相姦を「死」で否定する、なかったものにする--そういう方法しかとれない自分自身への「バカタレ」でもあるのだ。
 このとき「許し」は兄妹への「許し」であるというよりも、実は、父自身への「許し」という形をとっているといった方がいいかもしれない。「許してくれ」という絶望のなかで叫びながら、父は自分自身を許すのである。
 --これもまた矛盾である。矛盾がすべてである。

 人間の、繰り返される矛盾、その生と死、性と死、そしてつづいていく命。あるいは生まれることを拒絶された命を含めてつながっていく血。血の中にあるあらゆる矛盾。それをどうやって古賀は乗り越えるのか。古賀の描くひとたちは乗り越えるのか。
 「バカタレ」に拮抗する美しいことば、あらゆる拒絶(否定)を超越することばが、この詩では繰り返されている。

ナンマイダブ ナンマイダブ
           (13ページほか)

 「バカタレ」と絶望視しながら兄妹を殺し(あるいは生まれてくるはずの子供を殺し--このとき「バカタレ」は子供が生まれるような行為をした自分自身に向けられているの蛾だ)、同時に「ナンマイダブ」と祈るのである。
 この祈りは、死んでしまった人間の成仏だけを祈る祈りではない。「殺し」という罪をおかしてしまった自分の精神と肉体との成仏をも祈る祈りである。「ナンマイダブ」は現世の命そのもの、自分自身がいまあることを清める祈りでこそあるのだ。
 死んだ人間ではなく、いま、ここに生きている自分への祈り--この祈りも矛盾かもしれない。仏教の教えとは相いれないものかもしれない。しかし、それが、命というものである。

 古賀はこの作品で何らかの「答え」を出してはいない。人間はどう生きるべきかという「答え」を出してはいない。
 そのかわりに人間は「バカタレ」と絶望し、同時に「ナンマイダブ」と命が浄化されることを切実に祈る現実を描く。「バカタレ」と「ナンマイダブ」の間で、矛盾したまま命を、血をつないでいく。それが生きることだと、ただ、その現実を描く。あからさまに、というよりも、その「奥」へ「奥」へと踏み込むようにして描く。
 どこまで突き進んでも「奥」には限りがない。これもまた矛盾である。
 そしてこの矛盾が「思想」なのである。
 そうした「思想」の荒々しさ、なまなましさ、それがうごめく「現場」を古賀のことばはとらえている。方言が、そのなまなましさ、肉体と結びついて離れない力そのままにうごめいている。
 強烈な詩集である。傑作である。手元にないなら、すぐに注文して詩集を買うべし。

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ラウル・ルイス監督「クリムト」

2006-12-01 22:02:40 | 映画
監督 ラウル・ルイス 出演 ジョン・マルコビッチ、ベロニカ・フェレ、サフラン・バロウズ

 冒頭のタイトルバックにクリムトの絵。それをとらえるカメラが回る。絵が回転する。そしてその回転、円の軸が、何か微妙にずれる。このずれが非常に気持ちが悪い。車酔いをしたような感じなのである。--そして、この酔いの気持ち悪さとは、実は、私自身の中にある何かしっかりした「軸」を求める気持ちの裏返しの生理である。
 私は、クリムトの絵は、そんなに好きではない。そしてその好きではない理由が、どうも、この映画の冒頭の酔いのようなものとぴったり重なっている。「軸」がない。「軸」が溶けてしまっている。立体(遠近感)が無視されて平面の中に融合し、装飾になってしまっていることに私は不安を覚える。その不安になじめない。クリムトの絵に対する私の不機嫌の原因はそこにある。
 映画を見ながら、あらためてそのことを確認した。
 私が気持ち悪くなったのは、たとえば冒頭の絵の回転のように、レストランでの人物を中心にカメラが回るシーンもそうだが、それにもましてクリムトが誰かと椅子に座って話していて、立ち上がり、また座るシーンでカメラが上下するシーンだ。まるでクリムトの視線の位置にあわせてカメラが動いている感じがするのである。
 言い換えれば、この映画は、監督がいてカメラマンがいて、クリムトという人物を撮っているというよりも、クリムト自身の視線(内面の動き)をそのまま特殊な方法で再現したもののように感じられるのだ。客観というもの、第三者の目(具体的にいえば監督、カメラマンの目)は存在せず、主観としての目、クリムトの目だけがあるのだ。
 その象徴のような存在が文部省(?)の次官のような男。彼は実在の人物なのか、それともクリムトだけに見える幻なのか。映画を見ているだけではわからない。(医師が「だれと話している?」と質問するシーンでは、クリムトの向こうに帽子があるだけだ。)マジックミラーの部屋、偽物と本物のレア--その虚実を判断できるものが何一つ提供されていない。
 クリムトの絵のなかにあるのが(クリムトの絵のなかで実現されているものが)クリムトの目であり感性であるのと同様に、この映画でもクリムトの目だけが実現されている。その目とうまく同調できないと、そこから始まるずれのために、私の感覚は狂い始め、その結果「酔い」が始まる。私自身の目の「軸」が外され、クリムトの目の「軸」が肉体のなかに入ってくる感じだ。そしてそのまま、クリムトという装飾の迷宮に迷い込み、その迷路が、迷路のまがりくねりが、いっそう酔いを誘う。
 こんなふうに私は映画を見ていて一種の吐き気を覚えるような肉体的気持ち悪さを感じたことはない。そういう意味では、これはとてつもない映画だ。「軸」を次々にずらしながら、それでいて存在感の確かさだけは失わないジョン・マルコビッチもまた大変すばらしい。彼がいなかったら、この映画は成り立たなかっただろうと思う。また彼でなかったら、私の感じた薄気味悪い酔いもなかったような気がする。すごい役者だ。

コメント (1)
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