詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充「鳥一羽」清水哲男「ウィンドウズ」

2006-12-10 23:58:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 江代充「鳥一羽」清水哲男「ウィンドウズ」(「現代詩手帖」12月号)。
 逸脱、ということについて考えた。09日の日記に書いた飯島耕一の「通天橋」の逸脱は非常にわかりやすい。菅茶山の神辺を訪問する。そこで江戸時代の詩人の空気を吸う。「天」を感じる。その帰り、京都で意識がパンプローナの牛追い祭りへ飛ぶ。菅茶山と無関係の世界へ逸脱する。そして、その逸脱が「天」そのものへと通じる。通天橋は「さっと眺めて」帰ってしまう。「通天橋」には逸脱の笑いもこめられている。逸脱が飯島にとっての「詩」である。
 ところが、江代充「鳥一羽」の場合は、ちょっとわかりにくい。逸脱は「違和感」の「感」とうい部分にあらわれる。書き出しの3行。

道は過去に歩いた既存の田舎道をモデルとして
わたしたちの夢の中に
初めからある特定の幅をもって譲歩されていたが

 これは、夢で道を見たということを書いているのだと思う。夢の中の道は、過去に歩いた田舎道のように見える。しかし、実際に歩いた道そのものではない。幅が微妙に違う。(だからこそ、それは夢なのだとわかるのだが……。)--簡単に言えば、そういうことが書かれているのだろうけれど、ことばの印象がしっくりこない。普通の会話で使うような使い方がされていない。江代充の「逸脱」はことばの使い方の中にある。この詩の場合、特に「譲歩されていたが」という表現に「逸脱」が著しくあらわれている。こんなときに「譲歩」ということばを日常では使わない。--そういうところに、「詩」がある。日常のことばをねじまげてでもいわなければならないもののなかに「詩」がある。「逸脱」が「詩」である理由がここにある。
 さまざまなことに対する「譲歩」。そのときほんとうの気持ちと、そうではない気持ちがこころのなかに存在する。ふたつの差異を眺めながら江代充は存在している。そのことを意識しながらつづきを読むと、江代の見ているもの、「差異」に目をこらして感覚をとぎすましている苦しいような息づかいが見えてくる。
 最後の5行。

一人の人間の内側にある
したがう者と抗(あらが)うひととの身ぶりを
自然界の形体や
身近な空気のわずかな動きなどを真似ることで
その光の前に表すことができた

 「したがう者」と「抗うひと」が「譲歩」によって見えてくる「差異」である。譲歩しながら、私たちは実際の行動を起こす。そして、それが「譲歩」されたものであることは、「わずかな動き」のなかに痕跡として残る。
 そうしたわずかな「差異」に向き合って、誠実さを鍛えている文体。鍛えてしまうという「逸脱」をするのが江代充である。

 清水哲男は江代充が「譲歩」ということばであらわしたものを、「なあんてね」という口語ではぐらかす。「ウィンドウズ」には「なあんてね」を含む行が2度繰り返される。そして、その反復のなかで「差異」をつくりだし、それに向き合う。

なあんてね
これは実際にあったことだけれど
もはやあったことには思えない
(略)
なあんてね
これはまだ実際にないことだけれど
もはやあったことに思えている

 「なあんてね」に先立つことばは「なあんてね」と言ってしまっていいような内容には思えないが、そうした口語ではぐらかすことで清水哲男自身のこころと向き合うことを避けるというよりも、それは読者が重いことがらと向き合わなくてすむようにしている「配慮」である。「配慮」であるがゆえに、それは江代充の「譲歩」に通じる。そして、それが「逸脱」である。
 そのような「配慮」(逸脱)をしてしまったがゆえに、実際にあったことがあったこととは思えない。実際にはない(起きていない)ことなのにあったことのように思えるという事態が生まれる。「差異」はふたつの精神の動きが逆方向ということにあらわれるが、この「差異」は向きは逆だが、「どっちがどっちかわからない」という点でいえば「差異」ではなく区別がない、つまり「混同」である。「配慮による混同」が清水の「逸脱」である。
 そして、この「混同」(逸脱)のなかで静かに、読者を驚かせないように「配慮」しながら、ことばを動かす。「思えない」「思えている」--「思う」ということばの中に閉じ込めるようにしながら。
 「思う」ということばゆえに、清水哲男の詩は抒情詩の領域にとどまる。


コメント (1)
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