詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長谷川龍生「持続的(サスティナブル)に撫でる」

2006-12-16 11:37:28 | 映画
 長谷川龍生「持続的(サスティナブル)に撫でる」(「現代詩手帖」12月号)。

 長谷川龍生の「持続的に撫でる」には「撫でる」ということばが繰り返し使われている。中村の「雪がふる」は常に視線を風景と心理を往復させ、そこに人間と自然との一体となった世界をつくりだす働きをしていたが、長谷川の「撫でる」はどんな世界をつくりだすのか。

生命は尊い
自己にも他者にも
心根を撫でる いつまでも
やわらかく撫でる つよく撫でる
愛が生れてくる
脳を撫でる 胸のうちを撫でる
手と足とを撫でる 指さきまで撫でる
日本人よ 疲れている
このままでは 持続可能ではない

 中村の「雪はふる」の繰り返しは私を安心させる。帰るべき場所がある、という安心感がある。雪が見えれば、それが、今、ここ、なのだと感じることができる。
 長谷川の「撫でる」からはこういう安心感は生まれない。どこへ動いていくかわからない。「心根を撫でる」というが、そんなものが撫でられるのかどうかわからない。「比喩」として書かれているのだろうけれど「やわらかく撫でる つよく撫でる」とつづけられると、なんだか肉体が反応してしまう。「愛が生れてくる」とさらにつづけられると、セックスを思い出してしまう。
 不思議なのは、「撫でる」順序が、実際の私の肉体の動きとは逆である、ということだ。「撫でる」ことから始まるセックス、そしてそれが愛に変わる。その順序が、この詩に書かれていることばとは逆なのだ。逆であるから、一瞬、どこへ動いてゆくかわからないと思ってしまうのだ。
 私は手と足を撫でることができる。指さきも撫でることができる。実際に撫でることができるのは、そういう相手の具体的な肉体である。肉体を撫ででいる、肉体の表面に触れる。その繰り返しのうちに、何となく、相手の脳(頭のなか、考えていること)にも触れるし、胸のうち(感情)にも触れることができる。そして、それを愛撫することができる。そのとき愛は生まれる。そして、そこからやさしさ(やわらかな対応)や強さも生まれる。愛のなかで人間の「心根」は育っていく。生命は尊い、という思想もそこから生まれる。
 なぜ長谷川は、そういう普通のセックスと愛の関係を書かないのか。なぜ逆の順序なのか。肉体と、それがたどりつく思想の到達点を、なぜ逆から書き始めるのか。
 
 これは長谷川からの「警告」なのだろう。
 私たちは(日本人)は肉体を失っている。「生命は尊い」という抽象的な思想は頭で理解しているが、肉体では理解していない。相手の肉体に触れる、触れて、撫でることを覚える。撫でることから始まる肉体のコミュニケーションがある。それは脳やこころを刺激する。脳やこころを開かせる。愛が生まれる。人間は肉体を持っており、命は肉体とともにつづいているということがわかるようになる。その感覚が、今、日本人の失っているものだ。「生命は尊い」ということばは知っていても、それを肉体として実感し、肉体として(今、ここにない未来の肉体へと)、つないでゆく(持続させてゆく)という力を失っている。肉体の内部の力を失っている。
 「手と足とを撫でる」から書き始めれば単純な恋愛詩、セックスの詩になってしまう。長谷川は、そうではなく、逆向きの詩を書くことで、私たちが「手と足とを撫でる」という肉体の動かし方さえ忘れてしまっている(頭で理解している、ことばで理解しているだけである)ということを強調したいのだと思う。
 その行為、その行為が含む力(肉体がことばを通り越してつかみ取るあたたかさの持続)を取り戻せ、と警告している。この警告は「生命は尊い」という抽象的なことばから発しないと通じないくらい、日本語は力を失っている。日本人の肉体は肉体そのものを失っている--そう嘆いている。そう怒っている。

 怒りでしか語れない「愛」というものがある。「逆説」が、この作品に含まれている「思想」である。「詩」である。

コメント
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