詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」

2006-12-11 23:35:20 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 渡辺謙二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童

 「父親たちの星条旗」につづき、この映画でもスクリーンは不思議な色に染まっている。草の緑も浜辺の砂も海も色も、これがほんとうに硫黄島の自然の色とは思えない。だが、私の判断が正しいかどうかはわからない。ほんとうに、スクリーンに映し出された通りの色かもしれない。私は硫黄島について何一つ知らない。
 始まってすぐにそう思い、そしてその瞬間から私はスクリーンに釘付けになった。何も知らない。それがすべてである。
 硫黄島が太平洋戦争の激戦地であったことは知っている。しかし、いったい何人の人間が死んだのか知らないし、また彼らが硫黄島をどんなふうに見ていたか、そこで戦い死んでいった兵士たちにとって硫黄島がどんなふうに見えたか、そんなことはまったく知らない。草は緑だったか。砂は白かったか。海は青かったか。違うかもしれない。彼らには草はくたびれた茶色だったかもしれない。砂は黒ずんでいたかもしれない。海も灰色だったかもしれない。太陽が輝く南の島だからといって、草は緑に、砂浜は白く、海は青く見えるとは限らない。特に、なんのために戦っているのだろう、こんな戦争なんかいやだ、生きて帰りたいと願っている人間に、草の緑、砂の白、海の青が輝いて見えたと誰に断言できるだろうか。この映画で再現された色--それはそこで戦った兵士たちが見た色そのものなのだと思えてくるのだ。
 特にストーリーが進めば進むほど、この色のない世界が兵士の見た世界だと実感できる。渡辺謙は草の緑も砂の白も海の青も見てはいない。ただどこからアメリカ兵が、どのように攻めてくるか、それに対してどう戦えるかということしか見ていない。それしか見えていない。二宮和也には、渡辺謙がどういう人間であるか、他の上官がどういう人間であるか、仲間の兵士がどういう人間であるか、しか見えていない。見ていない。二宮和也にとっては、アメリカ兵はひとりひとりの人間には見えていない。(ほかの日本兵にとっても、だが。)見ているのは自分がどうやって生きて帰れるか、だけである。
 そしてそこから「真実」が見えてくる。
 戦うということではなく、生きるということが見えてくる。最善のことをする、ということがみえてくる。「正義」が見えてくる。だれが「正義」を、つまり自分にとって正しいといえることをしているかが、はっきりと見えてくる。
 この「正義」を、カメラはクライマックスで二宮和也の視線の動きと一体になって動く。渡辺謙の遺品のピストル。それがアメリカ兵の腰にある。不当に奪われたものである。その瞬間、あれほど、ただただ生き延びていたいと願っていた二宮和也が我を忘れてスコップでアメリカ兵に襲いかかる。人は人のものを、そんなふうに奪ってはいけない--それが二宮和也の「正義」である。その、人は人のものを奪ってはいけない、という単純な思いは、そして国が人間を兵として奪い、戦わせることへの批判につながっていくものだと思う。そして、ここから、奪われたものの悲しみが、まっすぐに、ただひたすらまっすぐに立ち上がってくる。噴出してくる。
 戦争とは、日常生活を奪われ、命を危険にさらすことである。なぜ戦わなければならないのか、ひとりひとりには何もわからない。戦っている相手がどんなことを考えているのか、感じているのか、そういうことすら思いめぐらすこともなく、つまり、そういうごく普通の人間性を奪われた状態で生きていくのが戦争である。だが、貴重なものを奪われながらも、今、ここにはいない家族を守ろうとする、そのきわめて個人的な思いが、生きてし帰って再びいっしょに暮らしたいという個人的な思いが、兵士たちの人間性を唯一支えている。
 そうしたこころを、自分の中に残る人間性を守るために(そういう意識が明確あったかどうかはわからない。たぶん、何もわからないまま、本能として)、手紙を書く。(そういう思いがあることを肉体で感じているからこそ、二宮和也は仲間たちの手紙を地中に埋めて残そうとしたのだろう。--だれかか発見してくれることを願ったのだろう。)

 この映画の色は不自然である。硫黄島の風景はとても現実の色とは思えない。しかし、それがそこで戦った兵士たちの見た色なのだ。兵士たちは、ふるさとの山の緑、野原の、畑の緑、ふるさとの浜辺の砂の輝き、ふるさとの青い青い海の色しか見ていない。その色、再び家族と、愛するひとといっしょに見たいと切実に願っている兵士たちには、硫黄島の草は緑に、浜辺は白に、海は青には見えないのである。
 クリント・イーストウッドは、不思議な色の硫黄島を描くことで、観客に、そこで戦って死んでいった兵士たちが見たふるさとの風景の色が見えますか、想像できますか、と静かに問いかけているのである。

コメント (7)
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蜂飼耳「波の実」八重洋一郎「嘆き村」

2006-12-11 22:33:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 蜂飼耳「波の実」八重洋一郎「嘆き村」(「現代詩手帖」12月号)。
 再び逸脱について。蜂飼のことばは「意味」とは無関係に逸脱する。
 江代充の「譲歩」も清水哲男の「なあんてね」も「意味」での逸脱である。頭に働きかけてくる。「意味」に出会って、その「意味」の気まずさに、頭がひっかかれる。どうして、ここで、こんなことばで「意味」をつくろうとするのだろうか。「意味」をはぐらかそうとするのだろうか。なぜ、そんな具合に逸脱するのだろうか。--感じるのではなく、頭で考え始める。頭で考えたことを、感情が追いかけていく。江代充も清水哲男も「抒情詩」を書いているのだが、その抒情詩は感情へ直接訴えかけてくるというよりも、頭へ訴えかけてくる。そしてそのとき、泣くのは感情(こころ)ではなく、頭である。そんな感じがする。
 蜂飼のことばは頭へは訴えかけてこない。これは悪い意味ではなく、いい意味で言っているのだが、頭とは無関係なところ、肉体へ働きかけてくる。そこが非常におもしろいし、また、どんなふうにおもしろいか、説明するのが非常に難しい。説明とはたいてい頭で理解するために有効なものであって、肉体で納得するのには向いていないからである。
 「波の実」で肉体に働きかけてくるのは、たとえば……。

おばあさんが研がれた刃のやわらかさ
ふたつに割れて ざらざらと重く回る実は
だまって東と西を切り出し 切り出す
坂鳥 朝越え 砂丘のにおい

 特にその4行目。おばあさんが包丁でさばいている何か(イカだろうか)とは無関係に、つまり唐突に「坂鳥 朝越え 砂丘のにおい」という音楽が挿入される。それは「意味」になる前に、「さ」の音の入れ替わりが音楽として耳に入ってきて、その音楽が風景にかわる。
 そのつづき。

その先へ腰 かがめる男 さらされて
中年でも老年でもない 灼けた指で
烏賊を 大中小に分けている 選(よ)る
大は ひろげられ おとなしく干され
中は ひろげられる先から力なく丸まり
小は 待機の緊張を溶かしまだまだこれから
坂鳥 朝越え 砂丘の裏へ

 烏賊をさばいて干している(干烏賊をつくっている)作業が見えてきたと思ったときに、再び「坂鳥 朝越え 砂丘の裏へ」という「さ」の音の音楽。
 おばあさんや、さらに年取って海へ出ることはなくなった男(おじいさん?)が海辺で仕事をしている風景が浮かんでくる。砂丘がつくりだす坂を、朝早くから越えて浜辺へやってくるのだろうか。私の想像が正しいかどうかではなく、私の肉体の中に眠ってめざめるのをまっている朝の浜辺の労働の感覚が「さ」の音がつくりだす音楽とともに、リズムになって動きだす。
 蜂飼のことばは、なんというのだろうか、みんなで共同作業をするときのリズムをあわせるための民謡(?)のような、肉体に深く根付いた何かをひっぱりだしてくる。今、ここにはないけれど、かつてだれもが体験した肉体のリズムの記憶へとことばの音楽が逸脱し、そこから再び、今、ここへもどってくることによって、私たちの肉体を元気づけるような印象がある。

 八重洋一郎「嘆き村」にも似た印象がある。

真肉親子(マシシウェーカ)は
一番近いしんせき
一番やわらかい肉を食べ
脂肪親子(ブトゥブトゥウェーカ)は
あまり近くないしんせき
肉のまわりのアブラを舐める

アア ファリンドゥ ファリンドゥ
アア ファリンドゥ ファリンドゥ

棒をふりまわし鉈をふりかざし遺体のまわりを泣きさけぶ
これは
直系親族の悲しみの声

ああ
食べられてしまうねえ
ああ
食べられてしまうねえ

 葬儀とは人が集まってくる「場」である。集まってきた人は、ことばになりきれない感情のようなものを囲む。囲みながら、その感情が育っていく--つまり、私たちの肉体になじんでいくのを確かめあう。そうした「場」の共有--現代の生活が拒絶してきた近代の(?)感情のようなもの、それが肉体のなかで確かなものになっていくのを互いに見つめ合う。そうやって人間になっていく。
 これは「頭」の仕事ではない。
 葬儀において泣こうが泣くまいが、悲しもうが悲しまなかろうが、ひとりの死が何かにかわるわけではない--というのは「頭」の論理である。みんなで、それを取り囲み、泣いたり悲しんだりすれば、そのとき何かがかわることを肉体は知っている。感情の共有という喜び(愉悦)が、そのリズムが、人間をどこかで支えている。その力につながるものを八重や蜂飼のことばは呼吸している。頭ではとらえきれない何かへ向けて、逸脱し、そして肉体へかえってくるときの「空気」を呼吸している。


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