監督 クリント・イーストウッド
出演 渡辺謙
、二宮和也
、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童
「父親たちの星条旗」につづき、この映画でもスクリーンは不思議な色に染まっている。草の緑も浜辺の砂も海も色も、これがほんとうに硫黄島の自然の色とは思えない。だが、私の判断が正しいかどうかはわからない。ほんとうに、スクリーンに映し出された通りの色かもしれない。私は硫黄島について何一つ知らない。
始まってすぐにそう思い、そしてその瞬間から私はスクリーンに釘付けになった。何も知らない。それがすべてである。
硫黄島が太平洋戦争の激戦地であったことは知っている。しかし、いったい何人の人間が死んだのか知らないし、また彼らが硫黄島をどんなふうに見ていたか、そこで戦い死んでいった兵士たちにとって硫黄島がどんなふうに見えたか、そんなことはまったく知らない。草は緑だったか。砂は白かったか。海は青かったか。違うかもしれない。彼らには草はくたびれた茶色だったかもしれない。砂は黒ずんでいたかもしれない。海も灰色だったかもしれない。太陽が輝く南の島だからといって、草は緑に、砂浜は白く、海は青く見えるとは限らない。特に、なんのために戦っているのだろう、こんな戦争なんかいやだ、生きて帰りたいと願っている人間に、草の緑、砂の白、海の青が輝いて見えたと誰に断言できるだろうか。この映画で再現された色--それはそこで戦った兵士たちが見た色そのものなのだと思えてくるのだ。
特にストーリーが進めば進むほど、この色のない世界が兵士の見た世界だと実感できる。渡辺謙は草の緑も砂の白も海の青も見てはいない。ただどこからアメリカ兵が、どのように攻めてくるか、それに対してどう戦えるかということしか見ていない。それしか見えていない。二宮和也には、渡辺謙がどういう人間であるか、他の上官がどういう人間であるか、仲間の兵士がどういう人間であるか、しか見えていない。見ていない。二宮和也にとっては、アメリカ兵はひとりひとりの人間には見えていない。(ほかの日本兵にとっても、だが。)見ているのは自分がどうやって生きて帰れるか、だけである。
そしてそこから「真実」が見えてくる。
戦うということではなく、生きるということが見えてくる。最善のことをする、ということがみえてくる。「正義」が見えてくる。だれが「正義」を、つまり自分にとって正しいといえることをしているかが、はっきりと見えてくる。
この「正義」を、カメラはクライマックスで二宮和也の視線の動きと一体になって動く。渡辺謙の遺品のピストル。それがアメリカ兵の腰にある。不当に奪われたものである。その瞬間、あれほど、ただただ生き延びていたいと願っていた二宮和也が我を忘れてスコップでアメリカ兵に襲いかかる。人は人のものを、そんなふうに奪ってはいけない--それが二宮和也の「正義」である。その、人は人のものを奪ってはいけない、という単純な思いは、そして国が人間を兵として奪い、戦わせることへの批判につながっていくものだと思う。そして、ここから、奪われたものの悲しみが、まっすぐに、ただひたすらまっすぐに立ち上がってくる。噴出してくる。
戦争とは、日常生活を奪われ、命を危険にさらすことである。なぜ戦わなければならないのか、ひとりひとりには何もわからない。戦っている相手がどんなことを考えているのか、感じているのか、そういうことすら思いめぐらすこともなく、つまり、そういうごく普通の人間性を奪われた状態で生きていくのが戦争である。だが、貴重なものを奪われながらも、今、ここにはいない家族を守ろうとする、そのきわめて個人的な思いが、生きてし帰って再びいっしょに暮らしたいという個人的な思いが、兵士たちの人間性を唯一支えている。
そうしたこころを、自分の中に残る人間性を守るために(そういう意識が明確あったかどうかはわからない。たぶん、何もわからないまま、本能として)、手紙を書く。(そういう思いがあることを肉体で感じているからこそ、二宮和也は仲間たちの手紙を地中に埋めて残そうとしたのだろう。--だれかか発見してくれることを願ったのだろう。)
この映画の色は不自然である。硫黄島の風景はとても現実の色とは思えない。しかし、それがそこで戦った兵士たちの見た色なのだ。兵士たちは、ふるさとの山の緑、野原の、畑の緑、ふるさとの浜辺の砂の輝き、ふるさとの青い青い海の色しか見ていない。その色、再び家族と、愛するひとといっしょに見たいと切実に願っている兵士たちには、硫黄島の草は緑に、浜辺は白に、海は青には見えないのである。
クリント・イーストウッドは、不思議な色の硫黄島を描くことで、観客に、そこで戦って死んでいった兵士たちが見たふるさとの風景の色が見えますか、想像できますか、と静かに問いかけているのである。
「父親たちの星条旗」につづき、この映画でもスクリーンは不思議な色に染まっている。草の緑も浜辺の砂も海も色も、これがほんとうに硫黄島の自然の色とは思えない。だが、私の判断が正しいかどうかはわからない。ほんとうに、スクリーンに映し出された通りの色かもしれない。私は硫黄島について何一つ知らない。
始まってすぐにそう思い、そしてその瞬間から私はスクリーンに釘付けになった。何も知らない。それがすべてである。
硫黄島が太平洋戦争の激戦地であったことは知っている。しかし、いったい何人の人間が死んだのか知らないし、また彼らが硫黄島をどんなふうに見ていたか、そこで戦い死んでいった兵士たちにとって硫黄島がどんなふうに見えたか、そんなことはまったく知らない。草は緑だったか。砂は白かったか。海は青かったか。違うかもしれない。彼らには草はくたびれた茶色だったかもしれない。砂は黒ずんでいたかもしれない。海も灰色だったかもしれない。太陽が輝く南の島だからといって、草は緑に、砂浜は白く、海は青く見えるとは限らない。特に、なんのために戦っているのだろう、こんな戦争なんかいやだ、生きて帰りたいと願っている人間に、草の緑、砂の白、海の青が輝いて見えたと誰に断言できるだろうか。この映画で再現された色--それはそこで戦った兵士たちが見た色そのものなのだと思えてくるのだ。
特にストーリーが進めば進むほど、この色のない世界が兵士の見た世界だと実感できる。渡辺謙は草の緑も砂の白も海の青も見てはいない。ただどこからアメリカ兵が、どのように攻めてくるか、それに対してどう戦えるかということしか見ていない。それしか見えていない。二宮和也には、渡辺謙がどういう人間であるか、他の上官がどういう人間であるか、仲間の兵士がどういう人間であるか、しか見えていない。見ていない。二宮和也にとっては、アメリカ兵はひとりひとりの人間には見えていない。(ほかの日本兵にとっても、だが。)見ているのは自分がどうやって生きて帰れるか、だけである。
そしてそこから「真実」が見えてくる。
戦うということではなく、生きるということが見えてくる。最善のことをする、ということがみえてくる。「正義」が見えてくる。だれが「正義」を、つまり自分にとって正しいといえることをしているかが、はっきりと見えてくる。
この「正義」を、カメラはクライマックスで二宮和也の視線の動きと一体になって動く。渡辺謙の遺品のピストル。それがアメリカ兵の腰にある。不当に奪われたものである。その瞬間、あれほど、ただただ生き延びていたいと願っていた二宮和也が我を忘れてスコップでアメリカ兵に襲いかかる。人は人のものを、そんなふうに奪ってはいけない--それが二宮和也の「正義」である。その、人は人のものを奪ってはいけない、という単純な思いは、そして国が人間を兵として奪い、戦わせることへの批判につながっていくものだと思う。そして、ここから、奪われたものの悲しみが、まっすぐに、ただひたすらまっすぐに立ち上がってくる。噴出してくる。
戦争とは、日常生活を奪われ、命を危険にさらすことである。なぜ戦わなければならないのか、ひとりひとりには何もわからない。戦っている相手がどんなことを考えているのか、感じているのか、そういうことすら思いめぐらすこともなく、つまり、そういうごく普通の人間性を奪われた状態で生きていくのが戦争である。だが、貴重なものを奪われながらも、今、ここにはいない家族を守ろうとする、そのきわめて個人的な思いが、生きてし帰って再びいっしょに暮らしたいという個人的な思いが、兵士たちの人間性を唯一支えている。
そうしたこころを、自分の中に残る人間性を守るために(そういう意識が明確あったかどうかはわからない。たぶん、何もわからないまま、本能として)、手紙を書く。(そういう思いがあることを肉体で感じているからこそ、二宮和也は仲間たちの手紙を地中に埋めて残そうとしたのだろう。--だれかか発見してくれることを願ったのだろう。)
この映画の色は不自然である。硫黄島の風景はとても現実の色とは思えない。しかし、それがそこで戦った兵士たちの見た色なのだ。兵士たちは、ふるさとの山の緑、野原の、畑の緑、ふるさとの浜辺の砂の輝き、ふるさとの青い青い海の色しか見ていない。その色、再び家族と、愛するひとといっしょに見たいと切実に願っている兵士たちには、硫黄島の草は緑に、浜辺は白に、海は青には見えないのである。
クリント・イーストウッドは、不思議な色の硫黄島を描くことで、観客に、そこで戦って死んでいった兵士たちが見たふるさとの風景の色が見えますか、想像できますか、と静かに問いかけているのである。