支倉隆子「苔桃」(「すぴんくす」2、2006年11月25日発行)。
ある作品を読む。それにつづけて別の作品を読む。すると今までなじみにくかったことばが急に親しいものにかわる--そういう経験をすることがある。たとえば稲川方人のことばは私には非常に遠い。ところが平出隆のことばを読んだあとでならとても新鮮で生き生きと迫ってくる。それに似た体験をした。支倉隆子のことばは私にはつかみどころのないものだった。ところが海埜今日子の「砂街」「門街」を読んだあと、もう一度支倉の詩を読み返してみると、すーっと頭に入ってくる。
という行が途中にあるが、そのことばそのままに、支倉の書いていることばがすーっと頭のなかに入ってきて、風景になる。
海埜の世界は、存在と(たとえば、砂、たとえば草と)私が重なり溶け合い、どれがどれだかわからなくなるまで融合する。そのとき海埜は「たくす」ということばをつかっていた。海埜のなかにある何か、記憶、精神、感覚、感情……を海埜以外の存在に「たくす」。いわば、私の内から私の外へとあふれさせ、私と世界を融合した宇宙をつくりだし、「詩」として提出する。
支倉のしていることは、海埜とは逆の操作である。逆の操作であるけれど、結果的には類似の世界、つまり私と世界の融合としての宇宙を「詩」として提出する。逆、というのは、海埜が「たくす」のに対して、支倉は受け入れるからである。「入ってくる」という状態を楽しむからである。
「光る日」、光に満ちた日(太陽ではなく、一日、と私は読んだ)が支倉のなかに入ってくる。引用では省略したが、詩の冒頭に書かれている苔桃もアオシギも平等に支倉のなかに入ってくる。そして支倉の頭脳で砕け、まばゆく乱反射する。意味ではなく音に(音楽に)砕け散り、そこからもう一度意味を求めて輝きだす。「光る日」から「る」の音が無意味な音楽(モーツァルトのように?)疾走し、逃げ出し、その輝かしい足跡を追いかけるように、取り残された「か」「ひ」が走り出す。「火」は「か」か「ひ」か。「ひ」は「悲」であり、「悲」は「ひ」であると同時に「かなしみ」の「か」でもある。
支倉はこうしたことばの戯れを楽しんでいる。ことばとそんなふうに交わること、喜びをわかちあうことが支倉にとっての「詩」なのだ。
支倉の詩を単独で読んだときには、こうした楽しみが私にはわからなかった。
なぜわからなかったのだろうか、と考え直してみると、ひとつには私に音楽の耳がないことがある。一方で、支倉のことばが「頭」に頼りすぎているようにも思える。支倉のことばは肉体を感じさせない、肉体の動きと重ならない、ということがあると思う。
という部分は、肉体の動きというか、セックスを連想させるし、「内桃」ということばの遊びには、那珂太郎の「もももももも……」の音楽と肉体の融合の影響も感じるけれど、一瞬のうちに「桃」という外部へと世界が逃げて行ってしまう。
「入ってくる」とは言うものの、肉体の内部には入ってはこない。肉体にさっと触れ(接触し)、その感触を音楽にして、一気に「頭脳」へ入ってくるという感じなのである。もっと生々しい肉体の感じがまじっていれば親しみやすいのに、と私は思う。
ある作品を読む。それにつづけて別の作品を読む。すると今までなじみにくかったことばが急に親しいものにかわる--そういう経験をすることがある。たとえば稲川方人のことばは私には非常に遠い。ところが平出隆のことばを読んだあとでならとても新鮮で生き生きと迫ってくる。それに似た体験をした。支倉隆子のことばは私にはつかみどころのないものだった。ところが海埜今日子の「砂街」「門街」を読んだあと、もう一度支倉の詩を読み返してみると、すーっと頭に入ってくる。
風景が入ってくる入ってくる
という行が途中にあるが、そのことばそのままに、支倉の書いていることばがすーっと頭のなかに入ってきて、風景になる。
海埜の世界は、存在と(たとえば、砂、たとえば草と)私が重なり溶け合い、どれがどれだかわからなくなるまで融合する。そのとき海埜は「たくす」ということばをつかっていた。海埜のなかにある何か、記憶、精神、感覚、感情……を海埜以外の存在に「たくす」。いわば、私の内から私の外へとあふれさせ、私と世界を融合した宇宙をつくりだし、「詩」として提出する。
支倉のしていることは、海埜とは逆の操作である。逆の操作であるけれど、結果的には類似の世界、つまり私と世界の融合としての宇宙を「詩」として提出する。逆、というのは、海埜が「たくす」のに対して、支倉は受け入れるからである。「入ってくる」という状態を楽しむからである。
(風景が入ってくる入ってくる)
(光る日)
光る日
るるるるる カヒヒ
光る日 るひるひるひ 火の日
かひかひか 悲の日
光る日
「光る日」、光に満ちた日(太陽ではなく、一日、と私は読んだ)が支倉のなかに入ってくる。引用では省略したが、詩の冒頭に書かれている苔桃もアオシギも平等に支倉のなかに入ってくる。そして支倉の頭脳で砕け、まばゆく乱反射する。意味ではなく音に(音楽に)砕け散り、そこからもう一度意味を求めて輝きだす。「光る日」から「る」の音が無意味な音楽(モーツァルトのように?)疾走し、逃げ出し、その輝かしい足跡を追いかけるように、取り残された「か」「ひ」が走り出す。「火」は「か」か「ひ」か。「ひ」は「悲」であり、「悲」は「ひ」であると同時に「かなしみ」の「か」でもある。
支倉はこうしたことばの戯れを楽しんでいる。ことばとそんなふうに交わること、喜びをわかちあうことが支倉にとっての「詩」なのだ。
支倉の詩を単独で読んだときには、こうした楽しみが私にはわからなかった。
なぜわからなかったのだろうか、と考え直してみると、ひとつには私に音楽の耳がないことがある。一方で、支倉のことばが「頭」に頼りすぎているようにも思える。支倉のことばは肉体を感じさせない、肉体の動きと重ならない、ということがあると思う。
風景が入ってくる入ってくる
開脚の青空はぬれ
開脚の青空の内桃
という部分は、肉体の動きというか、セックスを連想させるし、「内桃」ということばの遊びには、那珂太郎の「もももももも……」の音楽と肉体の融合の影響も感じるけれど、一瞬のうちに「桃」という外部へと世界が逃げて行ってしまう。
「入ってくる」とは言うものの、肉体の内部には入ってはこない。肉体にさっと触れ(接触し)、その感触を音楽にして、一気に「頭脳」へ入ってくるという感じなのである。もっと生々しい肉体の感じがまじっていれば親しみやすいのに、と私は思う。