詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「砂街」

2006-12-06 14:01:09 | 詩(雑誌・同人誌)
 海埜今日子「砂街」(「すぴんくす」2、2006年11月25日発行)。
 海埜のことばは読んでいるうちに、これは誰の声?とわからなくなる。「砂街」の書き出し。

 旅がすけるまで歩きたかった。唐突なまでに砂。写真たちのめくれ、すどおりが加速され、すれちがったどんなものもかきあつめ、という動作の際で、ささやく時間をながめている。あせた道しるべ、風をあえぐくるしい街。気流をまとうようにして、想いたちがよぎっていたから、うつむくそぶりであたためていたんです。草の香りが待たれるわきで、むかしの規律がさわいでいる。砂の底がかつてのながれだ。いないひとをささえたくなる、そんなこともありました、ね。

 「旅がすけるまで歩きたかった。」と私(海埜)の欲望だろう。「唐突なまでに砂。」は海埜が見たものだろう。「現実」の風景だろう。
 それにつづく「写真たちのめくれ、すどおりが加速され、すれちがったどんなものもかきあつめ、という動作の際で、ささやく時間をながめている。」は何だろう。
 砂の動きを見ることで、海埜の意識の中に出現してきた記憶だろうか。砂は動く。その動きは写真たち(アルバム?)をめくっていくとき感じに似ている。何かがすぎさっていく。たとえば「時間が」。そして、そのとき写真(アルバム)をながめているのではなく、海埜は「ささやく時間をながめている」。この「ながめている」は普通の散文なら「ながめていた」と過去形で書かれるものであるけれど、そのときの記憶のよみがえり、思い出の印象が強いので現在形として、そこに立ち上がっているのだろう。
 「歩きたかった」という欲望は過去形で書かれ、それよりも過去の記憶は「ながめている」と現在形で書かれる。日本語の文章は、感覚が強くなると過去形は消えて、現在形として立ち上がってくる。人間の感覚には今という「現在」しかないからだろう。
 新しい街へ入って、その瞬間に、なまなましい感覚が覚醒する。そういう動きがここでは書かれている。--私は、そんなふうに思いながら、この詩を読み始めた。

 「あせた道しるべ、風をあえぐくるしい街。」は再び「現実」の風景だと思う。では、それにつづく、「気流をまとうようにして、想いたちがよぎっていたから、うつむくそぶりであたためていたんです。」は誰の声だろう。海埜の声だろうか。海埜の声だとすれば、「あたためていたんです」はいつ、どこでのことだろうか。それとも「砂」の声? しかし「砂」が「うつむく」ということがあるだろうか。
 わからないまま、「草の香りが待たれるわきで、むかしの規律がさわいでいる。」に出会う。そしてその瞬間、あ、さっきの声は「草」の声だったのか、と思う。
 街外れの風景。砂がある。そして草がある。風が吹き、砂が移動する。人も(旅人も)行き過ぎる。草は動かず、動いていくものの「思い」をだきしめている。--そんなふうに風景を見つめている海埜の姿が浮かんでくる。
 「砂の底がかつてのながれだ。いないひとをささえたくなる、そんなこともありました、ね。」は草の声であり、同時に、草に託された海埜の声でもある。

 海埜はそこにあるものを描写しながら、そこにあるものに海埜自身の声を託す。そうすることでそこにある存在と一体となり、海埜の宇宙を拡げていく。
 海埜にとって世界とは自己(海埜)と他者が出会い、その区別を意識しながら同時にその区別を乗り越えて融合して広がるものだろう。そして、その乗り越え、融合するとき、海埜は声を託すのである。
 同じ号の「門街」の最後の方に、次のことばが出てくる。

こういがそよぐたびに、さわられていたきもちをはしる。草のうごめきを指におぼえたかったのだから、かれらはわすれたむねにちかいばしょで、われたあかりをたくす。

 「たくす」は他者と一体となることである。そして、そういう行為をとおして世界(宇宙)は広がっていく。世界(宇宙)は私の外に広がると同時に私の内部にも広がるものだからである。そして、私と他者(私と私の外部)が区別をなくすとき、宇宙は無限の広さになる。
 海埜のことばは、そういう奇跡のような一瞬をことばにしようとしているように感じられる。
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アルフォンソ・キュアロン監督「トゥモロー・ワールド」

2006-12-06 01:50:53 | 映画
監督 アルフォンソ・キュアロン 出演 クライヴ・オーウェンジュリアン・ムーア、マイケル・ケイン

 あらゆる映像がひたすら長い。1シーンが長いというのではなく、1ショットが長い。カメラが動くのである。人の移動にあわせてカメラが移動する。そういう映像が延々とつづく。その結果、どれだけ移動しても、別世界へ行ったという感じがしない。遠くへ行ったという感じがしない。たぶん、この延々と地つづきという感覚がこの映画の狙いなのだと思う。空間の地つづきの感覚を利用して、時間の地つづきの感覚を引き起こしたいのだと思う。未来のことではなく、これは「今」と地つづきの世界を描いているのだと主張したいのだと思う。
 しかし、あまり生理的に「時間」が地つづきという印象は起きない。
 映画はもともと「今」「ここ」ではない世界を楽しむものだから、その世界が「今」や「ここ」と地つづきであることを期待していない。むしろ、「今」「ここ」から遠い世界を期待する。そのうえ、描かれている街、人の様子が、あまりにも「今」そのものなのである。汚れた服、人込みのにごった感じ、難民、軍隊……。登場するすべてが「今」そのものなのだから、わざわざその世界が「今」と地つづきと言われても、という反発の方が強くなる。
 撮影と演技の苦労はわかるが、映画は撮影の苦労や演技の苦労を見るためのものではない。
 カメラの長まわしに何か意味があるとすれば、その長まわしの間で、そのカメラに写っている人間の感情・意識が変化していく様子がリアルに再現されていなければならない。人の感情、意識は、その数分間にこんなにも変化するのだ、こんなにもむき出しになるのだということが、それこそ地つづきの変化として再現されていなければならない。そうでなければ長まわしの必然性がない。
 そういう視点から見直せば、この映画の長まわしの唯一、必然性があるシーンは冒頭だけのような気がする。主人公がコーヒーを買って店を出る。路上でコーヒーにアルコールを注ぐ。その瞬間、さっきまでいた店がテロによって爆破される。日常(コーヒーにアルコールを入れるというだらしない日常)とテロがまったく切断面をもたず地つづきである、そういう時間と私たちの時間がつながっているということをリアルに感じさせる。クライヴ・オーウェンの演技も、このときは、演技なのか、爆発の衝撃にほんとうにびっくりしているのか区別がつかないほどである。
 あ、すごい。これからどうなるのだろう、という期待が強すぎたのかもしれない。あとの長まわしが弱すぎた。だからジュリアン・ムーが死んでいくシーンなど、死の衝撃というよりも、なぜ、こんなに早く死んでしまう? 嘘だろう? というような奇妙な疑問、わだかまりが残るだけで、映像としてはまったくおもしろくないのである。
 たぶん冒頭のシーンがうまく撮れすぎたために、映画全体が、それにひっぱられてしまったのだろう。
 長まわしのべったりした映像のために、人間関係(軍隊、難民、市民)の対立関係などもべったりとしていて、何が起きても冒頭の爆発ほどの衝撃がない。全員が同じ人間であり、戦いそのものが無意味にしか見えない。(これが狙いなら、それはそれでいいけれど。)
 そして、このべったりした映像そのものよりも気持ちが悪いというか、いやな感じがするのがストーリーのキイとなる「キー」(まるで駄洒落のような名前だが)の在り方だ。こどもが生まれなくなった時代、なぜか彼女だけが突然妊娠する。これは単にストーリーの設定だけれど、彼女だけが妊娠するとき、その相手は? 登場しない。ここから浮かび上がる問題点は、こどもが生まれない原因は女性にあって男性にはないという主張が、その奥に潜んでいる点である。こどもが生まれない原因が男女両方にかかわる問題なら、絶対に男が必要である。精子が必要である。男の側に問題はなく、女性が流産する(流産だけが何度か語られる)。それが原因でこどもが生まれないというのでは、問題の設定自体が間違っていると思ってしまうのである。この問題をカメラの長まわしと関連づけて言えば、この映画は男の側からだけ見た「未来」である。カメラはクライヴ・オーウェンを追って動くが、それはクライヴ・オーウェンがこう見てもらいたいという自画自賛の自画像であって、実際に女性が見たクライヴ・オーウェン(男)ではない。女性が見たクライヴ・オーウェンを描くなら、ジュリアン・ムーアはもっと生きていなければならない。女性の視点を助けられる妊娠した少女(?)に限定するためにも、この映画はジュリアン・ムーアは早く死ななければならなかった。
 この映画の長まわしには、とんでもないマチシズムが隠されているかもしれない。


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