内田紀久子『魂っぽい』(ふたば工房、2006年12月10日発行)。
「彼岸花」。その3連目。
ここに内田の「詩」がある。「殺め/殺められた」。それはまったく反対の立場である。しかし、このふたつの立場を内田は同等に描く。対等に見る。この距離の置き方が、内田独特のものであると思う。そこに思想があらわれていると思う。
ここでは内田は、自然(たとえば彼岸花)が人間の事情などいっさい無視して存在していることを冷静に見つめている。自然は人間の事情を斟酌しない。つまり「非情」である。そして、その非情さのなかに、人間を超える美しさがある。
「闇の中から」には、そのことが別の形で語られている。
「非情」は人間から見れば「化け物」である。しかし、その「化け物」のなかに内田を誘うものがある。
それはつまり、その「非情」を通って、人間はこの世の中に出現してきているということでもある。内田は彼女自身がいつでも「化け物」になりうることを強く認識している。あるいは「化け物」であることを願っている。
「化け物」は「殺す」「殺される」のどちらにもなりうる可能性に満ちた存在である。人間はその可能性のどちらかを選んで生きているだけである。「殺す」「殺される」しかない人間は「可能性」としては「化け物」にり劣るのである。「非情」は無限であるのに対し「有情」は限定されている。
「なんだか分かんねえ」はバスのなかから松の木に止まったカラスを見つめるところから始まる。その最終連。
では、内田に何がわかっているか。
生きていることがめでたいのかめでたくないのかわからないということがわかっている。それはことばをかえていえば、生も死も対等だという視点こそが「めでたい」ということがわかっているということだ。
詩集のタイトルになっている「魂っぽい」というのは、宗左近が内田を評していったことばだという。(「魂っぽい」)
魂というのは生と死とには関係がない、というか、その関係を超越している。生きていても死んでしまっても存在すると仮定できるのが魂である。魂にとっては生も死も対等である。それは、もう一度ことばをかえていえば、生も死も「めでたさ」とは無関係であり、魂だけが「めでたい」のである。
こうした思想は苦しいだろうか。というか、人間にとっては、残酷すぎるものだろうか。そうでもないのだと思う。そういう思想にしか見えない人間の姿もある。「星の光」の1連目の後半。
「魂」はひとりの人間の所有物ではない。「遠い人類」に通じるものである。遠い人類と、内田が同時に共有するものである。魂は人間が長い間の歴史をくぐることで共有しているものなのである。
「化け物」を通って一つの命が「バラ」になったように、人間は、その「魂」という「化け物」を通って、瞬間瞬間に、現実に生成し、生きている。バラならば1枚1枚の花びらになって生成する。人間は、花びらのかわりに、感情となって生成する。祈りとなって生成する。「星の光」最終連。
宗左近が内田のどんな詩に「魂っぽい」と感じたのか私はわからないが、遠い人類と今をつなぐ「化け物」の「場」としての人間の混沌とした状態、そこから感情を持った人間として生成してくる過程--そういう運動を批評して、そういったのだろうと私は想像した。
「彼岸花」。その3連目。
殺め
殺められた
血みどろの手が
いま静かに発光している
ここに内田の「詩」がある。「殺め/殺められた」。それはまったく反対の立場である。しかし、このふたつの立場を内田は同等に描く。対等に見る。この距離の置き方が、内田独特のものであると思う。そこに思想があらわれていると思う。
ここでは内田は、自然(たとえば彼岸花)が人間の事情などいっさい無視して存在していることを冷静に見つめている。自然は人間の事情を斟酌しない。つまり「非情」である。そして、その非情さのなかに、人間を超える美しさがある。
「闇の中から」には、そのことが別の形で語られている。
花を美しいと思うのは勝手だけれど
皮一枚ひんむけば花は化け物に違いない
テーブルの紅いバラ
花びらをべろっとさせて
私を誘っていた
「非情」は人間から見れば「化け物」である。しかし、その「化け物」のなかに内田を誘うものがある。
それはつまり、その「非情」を通って、人間はこの世の中に出現してきているということでもある。内田は彼女自身がいつでも「化け物」になりうることを強く認識している。あるいは「化け物」であることを願っている。
「化け物」は「殺す」「殺される」のどちらにもなりうる可能性に満ちた存在である。人間はその可能性のどちらかを選んで生きているだけである。「殺す」「殺される」しかない人間は「可能性」としては「化け物」にり劣るのである。「非情」は無限であるのに対し「有情」は限定されている。
「なんだか分かんねえ」はバスのなかから松の木に止まったカラスを見つめるところから始まる。その最終連。
生きるって
めでてんか
めでてくねえんか
オラなんだ分かんねえ
では、内田に何がわかっているか。
生きていることがめでたいのかめでたくないのかわからないということがわかっている。それはことばをかえていえば、生も死も対等だという視点こそが「めでたい」ということがわかっているということだ。
詩集のタイトルになっている「魂っぽい」というのは、宗左近が内田を評していったことばだという。(「魂っぽい」)
魂というのは生と死とには関係がない、というか、その関係を超越している。生きていても死んでしまっても存在すると仮定できるのが魂である。魂にとっては生も死も対等である。それは、もう一度ことばをかえていえば、生も死も「めでたさ」とは無関係であり、魂だけが「めでたい」のである。
こうした思想は苦しいだろうか。というか、人間にとっては、残酷すぎるものだろうか。そうでもないのだと思う。そういう思想にしか見えない人間の姿もある。「星の光」の1連目の後半。
「星って読み解けない宇宙の文字かしら」
私が言うと、
「そうね、でも星はやっと届けられた過去の光でしょ。そこには遠い人類の祈りが光っていると思うの」
「魂」はひとりの人間の所有物ではない。「遠い人類」に通じるものである。遠い人類と、内田が同時に共有するものである。魂は人間が長い間の歴史をくぐることで共有しているものなのである。
「化け物」を通って一つの命が「バラ」になったように、人間は、その「魂」という「化け物」を通って、瞬間瞬間に、現実に生成し、生きている。バラならば1枚1枚の花びらになって生成する。人間は、花びらのかわりに、感情となって生成する。祈りとなって生成する。「星の光」最終連。
星を見上げていると、生前から届けられた彼女のやさしさと苦しみが祈りとなって光っているのを感じる。
悲しみがこみ上げてくる。
宗左近が内田のどんな詩に「魂っぽい」と感じたのか私はわからないが、遠い人類と今をつなぐ「化け物」の「場」としての人間の混沌とした状態、そこから感情を持った人間として生成してくる過程--そういう運動を批評して、そういったのだろうと私は想像した。