笹野裕子『今年の夏』(空とぶキリン社、1999年09月20日発行)。
確かなこと、とは何だろうか。たとえば「剥がす」。
人にたくさん会った日は
耳がかゆい
詰まった言葉を全部取り出してしまわないと
すっきり眠れない
とくべつ念入りに耳そうじをする
ティッシュペーパーを一枚広げ
耳から剥がした言葉を並べていく
左右 ひととおり剥がしたのに
まだ残っているような気がして落ち着かない
「気がして」。確かなことは「気がする」ことである。1連目では慎重にこのことばが省略されているが、省略されているということは存在しないということではなく、ほんとうは笹野の肉体の内部に深く深く潜んでいるということである。潜んでいることさえ忘れるくらい肉体の一部になっている。だから省略してしまうのだ。
どんなふうに省略されているか。( )に入れて補ってみる。
人にたくさん会った日は
耳がかゆい(気がして)
詰まった言葉を全部取り出してしまわないと
すっきり眠れない(気がして)
とくべつ念入りに耳そうじをする
ティッシュペーパーを一枚広げ
耳から剥がした言葉を並べていく
「気がして」を補うと散文になる。「気がして」がないと「詩」になる。「気がして」を省略すると「かゆい」「眠れない」が肉体として立ち上がってくる。言い換えれば、書かれていない「気がして」が私の内部にするりと入り込んでくる。「気がして」が省略されている方が、より鮮明に「気がする」感じが伝わってくる。「気がして」が書かれていれば、なんだ、気がするだけかという思いが動き、肉体が反応しない。1連目は「気がして」が省略されているがゆえに、とても強烈な「詩」になっている。
2連目の「気がして」は笹野がどうしても書かずにはいられなかったことばなのだと思う。肉体の中にある「気がして」としかいいようのないもの、それをことばにしてしまわないと、何かが狂っていくような感じがするのだと思う。
しかし、実際は、そういうものを書いてしまう方が狂っていく。肉体と、その肉体と区別できない「気」がだんだん分離して「詩」が遠ざかる。狂っていく、と書いたのは「詩が狂っていく、詩が詩ではなくなっていく」という意味である。
詩は次のようにつづいていく。
左右 ひととおり剥がしたのに
まだ残っているような気がして落ち着かない
外耳の浅いくぼみから
耳掻きを斜めに立てて動かしていく
奥の方でカリリと当たる
息を詰めて少しずつ動かす
肉体の動きがていねいに描写される。そのとき「かゆい」「眠れない」という生々しい肉体の感じが消えていく。あれっ、詩が違ってしまった、妙なところへ動いていくぞ、と思ってしまう。
そして6行別のことばがあって、最終連。
きっとどこかで私の言葉を剥がす人がいる
深い闇をはさんで
私はその人と向き合う
その向こうでも耳そうじをする人
そしてその向こうにも
月明かりのなか
いくつもの影が静かに
耳掻きを動かしつづける
ここには「気がして」と書いたときの生々しい実感、肉体と切り離せない感じがない。ここにあるのは「頭」のなかの想像である。そこには肉体の感じが消えている。「私はその人と向き合う」ということばがそのことを鮮明に浮かび上がらせる。1連目では笹野は笹野自身と向き合っていた。そしてその向き合い方に「詩」があった。ところが、笹野は自分自身と向き合うことをやめて、笹野ではない別の人、それも知っている肉体を持ったひとではなく(たとえば、私はいま、笹野、梅田智江、田島安江と「連詩」をしているが、そういう具体的な人間ではなく)、抽象的な、会ったこともなければ、これからも会うはずのない人間と向き合っている。もちろん、「頭」のなかの「詩」というものもあるのだが、肉体から詩を書き始めて、頭のなかへたどりつくのでは、何だかおもしろくない。耳を掃除して掃除して、その内側の皮を剥いで、血を流して、血と一緒に脳味噌までとけだしてきて……というふうに肉体が肉体でなくなるまで耳掃除がつづいていくなら、「気がして」の「気」は不気味で、楽しい(?)ものになったのになあ、と残念な思いが残る。
*
「気がして」は別の作品では別のことばになってあらわれる。「道標」。
鳥が鳴いた
なつかしい声で鳴いた
この道だ
根拠のない確信のままに
私は走り出す
「根拠のない確信」。それが「気がして」ということだ。根拠がない、というのは、他人と共有できる「頭で整理した論理」がないということだ。他人を説得できるだけの論理がないということだ。しかし実感はある。ことばにできない「気」がある。
「気」は論理にはなってはいけない。「気」は肉体の奥でむずむずと動き回り、はいずりまわって肉体を苦しめなければならない。肉体から抜け出して、頭のなかで整理されて論理になってしまうと、おいしい味がなくなる。
「剥がす」の最終連は、うま味が逃げ出してしまったあとの、きれいに飾られただけの料理のようなものである、と私は思う。