現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
「指の先の角砂糖(抄)」(1965年03月)は萩原朔太郎の詩の中に登場する「手」をめぐる評論である。清岡卓行は萩原が手について自虐的に表現していると作品を分析した上で、次のように書いている。
この部分に私は清岡の「と」を見る。ある存在と存在を結びつける清岡の精神の動きを見てしまう。
生「と」死。清岡の視点にしたがえば、それは萩原の場合、「手」によって接触する。萩原が「手」(あるいは「指」)であらわそうとしているものを「と」と置き換えると、ここに書かれている萩原の詩の世界は、そのまま清岡の詩の世界になる。「手」に対する解説は「と」に対する自注になる。
「手」は生と死を結ぶ。そのいわば矛盾したもの、まったく相いれないものが連結するためには、命は変形しなければならない。命が存在する空間(宇宙)は変形しなければならない。そして、その変形を象徴として表現したものが、萩原の「手」(鉱物に変形した手)なのである。
もう一か所、清岡自身の詩の自注にふさわしいことばが書かれている。
ある「行為の内部」に「かくされている」「充分な論理」。
清岡が「と」によってある存在と別の存在を結ぶ。そのとき存在がかわる。つまり「宇宙」があたらしく誕生し、その「宇宙」のなかで存在の新しい生成が始まる。(萩原朔太郎の「手」を例にとれば、手の鉱物への変形が始まる。)それは奇妙にみえるかもしれないが、その変形の内部には充分な論理がかくされている--つまり、それはとても論理的なことがらなのである。
清岡の詩は、そのことばの運動はとても論理的である。「宇宙」のなかで起きうる運動を論理的に、静かに、着実に押し進める。清岡にとっては、論理は詩を破壊するものではなく、詩を補強するものなのである。
「指の先の角砂糖(抄)」(1965年03月)は萩原朔太郎の詩の中に登場する「手」をめぐる評論である。清岡卓行は萩原が手について自虐的に表現していると作品を分析した上で、次のように書いている。
そこには奥深く共通している激しいモチーフがあるようだ。それは、一口で言えば、あまりにも熱烈に生きようとするための生への恐怖であり、従ってそのための、いわば倒錯的な死への親和である。その場合、外部の世界と最初に接触する任務をもたらされた手や指は、その直接の交渉を本能的に忌避して、自ら先んじて鉱物に化そうとするである。あるいは、こう言いかえてもいいだろう、この奇妙で不条理な宇宙と連結するために、敏感すぎる生命は、いちはやく自らの尖端にいくらかの無機物を、つまり部分的な死を、用心深くも所有したがっているのだ、と。(91ページ)
この部分に私は清岡の「と」を見る。ある存在と存在を結びつける清岡の精神の動きを見てしまう。
生「と」死。清岡の視点にしたがえば、それは萩原の場合、「手」によって接触する。萩原が「手」(あるいは「指」)であらわそうとしているものを「と」と置き換えると、ここに書かれている萩原の詩の世界は、そのまま清岡の詩の世界になる。「手」に対する解説は「と」に対する自注になる。
「手」は生と死を結ぶ。そのいわば矛盾したもの、まったく相いれないものが連結するためには、命は変形しなければならない。命が存在する空間(宇宙)は変形しなければならない。そして、その変形を象徴として表現したものが、萩原の「手」(鉱物に変形した手)なのである。
もう一か所、清岡自身の詩の自注にふさわしいことばが書かれている。
『この手に限るよ』の夢物語における主人公はいささかも「馬鹿者(フール)」ではなく、その行為の内部には充分な論理がかくされているのである。
ある「行為の内部」に「かくされている」「充分な論理」。
清岡が「と」によってある存在と別の存在を結ぶ。そのとき存在がかわる。つまり「宇宙」があたらしく誕生し、その「宇宙」のなかで存在の新しい生成が始まる。(萩原朔太郎の「手」を例にとれば、手の鉱物への変形が始まる。)それは奇妙にみえるかもしれないが、その変形の内部には充分な論理がかくされている--つまり、それはとても論理的なことがらなのである。
清岡の詩は、そのことばの運動はとても論理的である。「宇宙」のなかで起きうる運動を論理的に、静かに、着実に押し進める。清岡にとっては、論理は詩を破壊するものではなく、詩を補強するものなのである。