詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(6)

2006-12-03 14:46:24 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「指の先の角砂糖(抄)」(1965年03月)は萩原朔太郎の詩の中に登場する「手」をめぐる評論である。清岡卓行は萩原が手について自虐的に表現していると作品を分析した上で、次のように書いている。

そこには奥深く共通している激しいモチーフがあるようだ。それは、一口で言えば、あまりにも熱烈に生きようとするための生への恐怖であり、従ってそのための、いわば倒錯的な死への親和である。その場合、外部の世界と最初に接触する任務をもたらされた手や指は、その直接の交渉を本能的に忌避して、自ら先んじて鉱物に化そうとするである。あるいは、こう言いかえてもいいだろう、この奇妙で不条理な宇宙と連結するために、敏感すぎる生命は、いちはやく自らの尖端にいくらかの無機物を、つまり部分的な死を、用心深くも所有したがっているのだ、と。(91ページ)

 この部分に私は清岡の「と」を見る。ある存在と存在を結びつける清岡の精神の動きを見てしまう。
 生「と」死。清岡の視点にしたがえば、それは萩原の場合、「手」によって接触する。萩原が「手」(あるいは「指」)であらわそうとしているものを「と」と置き換えると、ここに書かれている萩原の詩の世界は、そのまま清岡の詩の世界になる。「手」に対する解説は「と」に対する自注になる。
 「手」は生と死を結ぶ。そのいわば矛盾したもの、まったく相いれないものが連結するためには、命は変形しなければならない。命が存在する空間(宇宙)は変形しなければならない。そして、その変形を象徴として表現したものが、萩原の「手」(鉱物に変形した手)なのである。

 もう一か所、清岡自身の詩の自注にふさわしいことばが書かれている。

『この手に限るよ』の夢物語における主人公はいささかも「馬鹿者(フール)」ではなく、その行為の内部には充分な論理がかくされているのである。

 ある「行為の内部」に「かくされている」「充分な論理」。
 清岡が「と」によってある存在と別の存在を結ぶ。そのとき存在がかわる。つまり「宇宙」があたらしく誕生し、その「宇宙」のなかで存在の新しい生成が始まる。(萩原朔太郎の「手」を例にとれば、手の鉱物への変形が始まる。)それは奇妙にみえるかもしれないが、その変形の内部には充分な論理がかくされている--つまり、それはとても論理的なことがらなのである。
 清岡の詩は、そのことばの運動はとても論理的である。「宇宙」のなかで起きうる運動を論理的に、静かに、着実に押し進める。清岡にとっては、論理は詩を破壊するものではなく、詩を補強するものなのである。

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山田洋次監督「武士の一分」

2006-12-03 12:23:41 | 映画
監督 山田洋次 出演 木村拓哉、檀れい、坂東三津五郎

 木村拓哉がご飯を食べるとき最後に必ずお湯をもらう。最後の一口をお茶漬けにする。これは茶碗と箸を洗っているのである。食べ終わると布巾で茶碗の内側を拭き、茶碗をしまう。箸もしまう。武士の世界の節約、その節約が生み出す「美」が丁寧に丁寧に描かれている。こうした部分はおもしろい。木村拓哉が失明したあと一族が集まり今後どうするか相談するところも、おもしろい。だれが木村拓哉の面倒を見るか--これは「食い扶持」がかかっているだけに大問題なのである。武士が食うことがいかに大変か、は、そこに「美意識」のようなものが絡んでくるからなんだなあ、ということがわかるのでおもしろい。檀れいが食堂の店員(?)でも何でもやると言うと、そんな仕事をさせるわけにはいかない、と一族が反対するところに「美意識」が如実にあらわれている。この「美意識」は「みえ」と置き換えることもできると思う。
 そして、「美意識」を「みえ」と読み替えるとき、それは自分が他人からどう見られるかという問題にかわる。どう生きるかではなく、どう見られるか、という問題に置き換えられる。そして、そのふたつは似ているようでありながら、大きく違う。ご飯の最後にお湯をもらい、茶碗をあらうのをかねてお茶漬けをすするという「美意識」は同時に自分自身の節約、生活をまもるということと直結する。食堂で女中をやるのは許せないという「みえ」は、生活を否定する。
 「武士の一分」では「美意識」と「みえ」が交錯しながら展開する。そして、その結果、ちょっと変なことが起きる。映画が破綻する。「決闘」のことである。
 決闘において大切なことは、ひとつは、自分が強いこと。自己の腕を磨くこと。自分自身がひとつの「美」として完成することである。もうひとつは、相手をよく知ること。その強さも弱点も知ること。
 傑作「たそがれ清兵衛」では敵役は長刀づかいであることが紹介されていた。真田広之は室内では長刀が存分に振り回せないことを知っている。だからこそ室内で戦うことを選んでいる。そして、その長刀が最後の最後で、油断から(勝ったと思った気の弛みから)大まわしになり、鴨居にひっかかり、真田を切りそこねる。そのすきに真田が相手を切るという劇的展開へとつながる。
 そういう「他人」の研究に対する丁寧さがこの映画では欠けていた。「意識」と実際の行動の分析が欠けていた。「他人」が欠落したまま、木村拓哉がどうするか、ということだけに焦点があたりすぎていた。それが、とてもとてもこの映画を甘いものにしている。「恋愛映画」(?)だから甘くてもいいのかもしれないが、「決闘」の部分で「美意識」が崩れ、人情になってしまうので、これはちょっと違うのではないのか、と思ってしまうのだ。木村拓哉は決闘にあたり「免許皆伝」のときの「ことば」を復唱するが、そういう「精神論」ではなく、ご飯の最後にはお湯をもらって茶碗をあらいながら食べるというのような実際の具体的な行動として「美意識」が貫かれないと、甘さだけが浮き立ってしまう。

 「美意識」はむしろ木村拓哉に破れた方で完遂する。だれに切られたか言わない。なぜきられたか言わない。沈黙を守るために自害する。そこには恥ずべきことをしたという自覚がある。この自覚が「美意識」である。
 木村拓哉の方の「美意識」は仇(?)が貫いた「美意識」を壊さないようにして沈黙を守り、妻を守り、ひっそりといままでの生活をつづけるというなかでしか完成されない。この奇妙な結末はカタルシスになり得ない。カタルシスになりえないと山田洋次もわかっているのだろう。わかっているから最後は「お涙」で終わる。涙で観客をごまかしてしまう。木村拓哉と檀れいが元の夫婦に戻れてよかった、よかった、で終わる。
 そのとき「武士の一分」とはなんだったのか、ちょっと見失う。思い出さなければならない。これではなあ、と思う。「詩」(美意識)が「涙」で曇ってしまった映画である。



 美しいなあ、と感じたシーンもある。たとえば蛍のシーン。障子にとまった蛍の光がぼーっとゆれる。蛍はまだかと失明した木村拓哉が問う。檀れいはまだだと答える。その答えに木村はどんなふうに納得したのだろうか。何も語られない。ほんとうに蛍はまだなのか。蛍はでているけれど、目の見えない木村に蛍がでているとつたえることはつらいと思い言わなかったのか。木村がどう納得したか説明しないで、ただ、蛍と二人の会話だけをさしだす。
 ここに「美」の深みがある。共有される「意識」がある。それが「詩」である。


 
コメント (10)
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