監督 ホウ・シャオシェン 出演 スー・チー、チャン・チェン
スクリーンの広さは限定されている。その限定された広さをいかに広く見せるか。ホウ・シャオシェンは昔から、広さを拒否し、かわりに奥行きを描く。第2話の室内の描写がいちばん説明しやすいが、ホウ・シャオシェンは主人公たちがいる室内だけを描写するのではない。その部屋とつながる隣の部屋を描く。ちらりの見える奥の部屋の動きを描くことで、画面に奥行きをあたえる。障害物による遠近感、ある存在の向こうに別の存在が見えることによって引き起こされる遠近感を描く。ひとつの室内を描くときでも、たとえば主役の二人のあいだの空間を小間使いがお茶をもって横切る。そうすることで、主役の二人のあいだの広がりを立体的に浮かび上がらせる。
また横の広がりを描写するときでも必ず障害物を取り入れる。第1話。ビリヤードの台全体が写されることはない。壁(戸?)によって半分は隠されている。その見えない部分へと人は動いて行く。そんな描写をすることで、今スクリーンに映し出されている映像は、ほんとうはもっと広いのだと知らせる。
こうした描写の工夫は日本人にはなじみやすい。近景、中景、遠景という空間構造は狭い日本に住む日本人の描く絵に多い。(オーストラリア映画では、砂漠などは、突然遠景だけである。そういうものを見ると日本人である私には広さがどれだけ広いのか見当がつかないが、たぶん広大な土地に住んでいるオーストラリア人なら微妙な光の変化などで広さが把握できるだろう。)ホウ・シャオシェンの台湾も日本と同様島国なので、限られた空間をどうやって広く見せるか(広く描くか)というときに、似たような構図をとるのだろう。
はじめてホウ・シャオシェンの映画を見たとき(「恋恋風塵」だったと思うが)、その繊細な空間描写に親近感をおぼえたが、今となっては、また同じ描写か、と思ってしまう。繰り返し繰り返し、同じ近景、中景、遠景という構図。見える部分を限定することによって、見えない広がりを暗示させるという方法は、もはや繊細な感覚を感じさせない。マンネリである。
ほんとうに描かなければならないのは、室内の遠近感ではない。人間ひとりひとりの遠近感である。人間は誰でも見せている部分と隠している部分がある。それが交錯することによって人間存在に奥行きが出る。こういう奥行きは、室内の遠近感(あるいは室内と外との遠近感)に頼って画面をつくっているかぎりは、こころに迫ってくるものにならない。室内よりも人間を描かなければならない。そこのところをホウ・シャオシェンは手抜きしている。
百年のあいだの三つの恋。50年置き同じ人物が演じることによって時代の「奥行き」を描いたつもりらしいが(特に、女性の変化を描いたつもりなのだろうが)、そうした時代の大きな隔たり(時間の遠近感)に頼ること自体が、ひとりひとりの人間存在と正面から向き合っていない証拠である。百年も時代に違いがあれば、そこに遠近感が生まれるのはあたりまえである。そうではなくて、ひとつの時代、たとえば現代において、若い男と女が恋をするとき、その内部にどんな遠近感が生まれるのか。そして、その遠近感が相手をどんなふうに自分の奥へと誘い込むのか、あるいは相手の奥へと誘い込まれるのか、ということを役者の肉体をつかってきちんと描かないと映画にはならない。
構図の作り方、繊細な光の感覚にはあいかわらず感心するが、それだけの映画であった。時代とともに変化する「歌」(流行歌)など、あたりまえすぎて遠近感にすらなりえていない。
スクリーンの広さは限定されている。その限定された広さをいかに広く見せるか。ホウ・シャオシェンは昔から、広さを拒否し、かわりに奥行きを描く。第2話の室内の描写がいちばん説明しやすいが、ホウ・シャオシェンは主人公たちがいる室内だけを描写するのではない。その部屋とつながる隣の部屋を描く。ちらりの見える奥の部屋の動きを描くことで、画面に奥行きをあたえる。障害物による遠近感、ある存在の向こうに別の存在が見えることによって引き起こされる遠近感を描く。ひとつの室内を描くときでも、たとえば主役の二人のあいだの空間を小間使いがお茶をもって横切る。そうすることで、主役の二人のあいだの広がりを立体的に浮かび上がらせる。
また横の広がりを描写するときでも必ず障害物を取り入れる。第1話。ビリヤードの台全体が写されることはない。壁(戸?)によって半分は隠されている。その見えない部分へと人は動いて行く。そんな描写をすることで、今スクリーンに映し出されている映像は、ほんとうはもっと広いのだと知らせる。
こうした描写の工夫は日本人にはなじみやすい。近景、中景、遠景という空間構造は狭い日本に住む日本人の描く絵に多い。(オーストラリア映画では、砂漠などは、突然遠景だけである。そういうものを見ると日本人である私には広さがどれだけ広いのか見当がつかないが、たぶん広大な土地に住んでいるオーストラリア人なら微妙な光の変化などで広さが把握できるだろう。)ホウ・シャオシェンの台湾も日本と同様島国なので、限られた空間をどうやって広く見せるか(広く描くか)というときに、似たような構図をとるのだろう。
はじめてホウ・シャオシェンの映画を見たとき(「恋恋風塵」だったと思うが)、その繊細な空間描写に親近感をおぼえたが、今となっては、また同じ描写か、と思ってしまう。繰り返し繰り返し、同じ近景、中景、遠景という構図。見える部分を限定することによって、見えない広がりを暗示させるという方法は、もはや繊細な感覚を感じさせない。マンネリである。
ほんとうに描かなければならないのは、室内の遠近感ではない。人間ひとりひとりの遠近感である。人間は誰でも見せている部分と隠している部分がある。それが交錯することによって人間存在に奥行きが出る。こういう奥行きは、室内の遠近感(あるいは室内と外との遠近感)に頼って画面をつくっているかぎりは、こころに迫ってくるものにならない。室内よりも人間を描かなければならない。そこのところをホウ・シャオシェンは手抜きしている。
百年のあいだの三つの恋。50年置き同じ人物が演じることによって時代の「奥行き」を描いたつもりらしいが(特に、女性の変化を描いたつもりなのだろうが)、そうした時代の大きな隔たり(時間の遠近感)に頼ること自体が、ひとりひとりの人間存在と正面から向き合っていない証拠である。百年も時代に違いがあれば、そこに遠近感が生まれるのはあたりまえである。そうではなくて、ひとつの時代、たとえば現代において、若い男と女が恋をするとき、その内部にどんな遠近感が生まれるのか。そして、その遠近感が相手をどんなふうに自分の奥へと誘い込むのか、あるいは相手の奥へと誘い込まれるのか、ということを役者の肉体をつかってきちんと描かないと映画にはならない。
構図の作り方、繊細な光の感覚にはあいかわらず感心するが、それだけの映画であった。時代とともに変化する「歌」(流行歌)など、あたりまえすぎて遠近感にすらなりえていない。