監督 アニエスカ・ホランド 出演 エド・ハリス、ダイアン・クルーガー
冒頭、アップの映像が連続する。焔の先端の煙の揺らぎ。焔。手。農夫の顔。馬車。馬車の乗客。馬車の窓から見える風景。木の枝……。その、存在の内部に食い込むような映像に、音楽が重なる。このとき、その音楽は、音楽であることをやめている。音楽というよりも、音が風景を切り取り、その断片を引き寄せている感じがしてくる。そして、ああ、苦しいと思った瞬間に、不思議なことに音楽が聞こえてくる。音楽が風景に陰影をあたえるように、世界が、つまり映像と音楽が溶け合っていると感じる。
日常の肉眼では見ることのできない映像。アップ。それは肉眼が見るというよりも、感情・こころが見る映像である。冒頭のアップの連続は、そのことを強く感じさせる。ベートーヴェンを愛してやまなかったひとりの女性音楽家。彼女がベートーヴェンの死期を知って駆けつける。そのときに見る風景。それを音楽が叩ききる。断片にする。その断片が心のなかで乱れる。乱れながら、感情をえぐりだす。その痛みの中で、音楽が音楽そのものになる。こころの声になる。
この激烈な印象はクライマックスでより濃密になる。耳の聞こえないベートーヴェンに指揮のタイミングを奈落から指示するアンナ。それに合わせて指揮をするベートーヴェン。現実の音はアンナの耳に聞こえるが、ベートーヴェンには聞こえない。その聞こえない音楽をベートーヴェンはアンナの手の動きの中に見る。あるいはアンナの瞳のなかに見る。そして、その手や瞳の表情をベートーヴェンが肉体で反芻するとき、ふたりの肉体が重なり合うとき、ベートーヴェンの「魂」のなかに音楽が響きわたる。それは濃密なセックスのように、世界の存在すべてを忘れさせる。映像と音楽との交錯を見ている、聞いていると、「第九」を聞いているということを忘れてしまう。ふたりの距離が現実の距離ではなく、魂の距離、つまり肉眼を超えた接近、魂の特権的な接近そのままに、アップで押し寄せ、そのアップが、溶け合う。肉体であること、瞳、手、首筋、髪の乱れ、汗が、指揮台と奈落の距離をこえて交じり合い、そこから音楽が始まる。そこにあるのは、ベートーヴェンの音楽ではない、アンナの音楽でもない。ふたりの魂がいっしょになった音楽である。その融合が聴衆を引き込んだように、スクリーンを見つめる私をも引き込む。
映画を見終わって、「第九」が聞きたくなった。今聞いたばかりの音楽なのに、そのなかにもう一度身を沈めたくなった。酔いたくなった。
エド・ハリスの純粋で超越的な眼、それにこたえるダイアン・クルーガーの清潔な肉体、どきどきするような透明な目がいい。映画のなかに出てききたことばで言えば「神」の目と人間の目、「魂」の目とこころの目が出会い、人間に届く音楽が誕生した--と思わず思ってしまう。
冒頭、アップの映像が連続する。焔の先端の煙の揺らぎ。焔。手。農夫の顔。馬車。馬車の乗客。馬車の窓から見える風景。木の枝……。その、存在の内部に食い込むような映像に、音楽が重なる。このとき、その音楽は、音楽であることをやめている。音楽というよりも、音が風景を切り取り、その断片を引き寄せている感じがしてくる。そして、ああ、苦しいと思った瞬間に、不思議なことに音楽が聞こえてくる。音楽が風景に陰影をあたえるように、世界が、つまり映像と音楽が溶け合っていると感じる。
日常の肉眼では見ることのできない映像。アップ。それは肉眼が見るというよりも、感情・こころが見る映像である。冒頭のアップの連続は、そのことを強く感じさせる。ベートーヴェンを愛してやまなかったひとりの女性音楽家。彼女がベートーヴェンの死期を知って駆けつける。そのときに見る風景。それを音楽が叩ききる。断片にする。その断片が心のなかで乱れる。乱れながら、感情をえぐりだす。その痛みの中で、音楽が音楽そのものになる。こころの声になる。
この激烈な印象はクライマックスでより濃密になる。耳の聞こえないベートーヴェンに指揮のタイミングを奈落から指示するアンナ。それに合わせて指揮をするベートーヴェン。現実の音はアンナの耳に聞こえるが、ベートーヴェンには聞こえない。その聞こえない音楽をベートーヴェンはアンナの手の動きの中に見る。あるいはアンナの瞳のなかに見る。そして、その手や瞳の表情をベートーヴェンが肉体で反芻するとき、ふたりの肉体が重なり合うとき、ベートーヴェンの「魂」のなかに音楽が響きわたる。それは濃密なセックスのように、世界の存在すべてを忘れさせる。映像と音楽との交錯を見ている、聞いていると、「第九」を聞いているということを忘れてしまう。ふたりの距離が現実の距離ではなく、魂の距離、つまり肉眼を超えた接近、魂の特権的な接近そのままに、アップで押し寄せ、そのアップが、溶け合う。肉体であること、瞳、手、首筋、髪の乱れ、汗が、指揮台と奈落の距離をこえて交じり合い、そこから音楽が始まる。そこにあるのは、ベートーヴェンの音楽ではない、アンナの音楽でもない。ふたりの魂がいっしょになった音楽である。その融合が聴衆を引き込んだように、スクリーンを見つめる私をも引き込む。
映画を見終わって、「第九」が聞きたくなった。今聞いたばかりの音楽なのに、そのなかにもう一度身を沈めたくなった。酔いたくなった。
エド・ハリスの純粋で超越的な眼、それにこたえるダイアン・クルーガーの清潔な肉体、どきどきするような透明な目がいい。映画のなかに出てききたことばで言えば「神」の目と人間の目、「魂」の目とこころの目が出会い、人間に届く音楽が誕生した--と思わず思ってしまう。