詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アニエスカ・ホランド監督「敬愛なるベートーヴェン」

2006-12-23 13:43:07 | 映画
監督 アニエスカ・ホランド 出演 エド・ハリスダイアン・クルーガー

 冒頭、アップの映像が連続する。焔の先端の煙の揺らぎ。焔。手。農夫の顔。馬車。馬車の乗客。馬車の窓から見える風景。木の枝……。その、存在の内部に食い込むような映像に、音楽が重なる。このとき、その音楽は、音楽であることをやめている。音楽というよりも、音が風景を切り取り、その断片を引き寄せている感じがしてくる。そして、ああ、苦しいと思った瞬間に、不思議なことに音楽が聞こえてくる。音楽が風景に陰影をあたえるように、世界が、つまり映像と音楽が溶け合っていると感じる。
 日常の肉眼では見ることのできない映像。アップ。それは肉眼が見るというよりも、感情・こころが見る映像である。冒頭のアップの連続は、そのことを強く感じさせる。ベートーヴェンを愛してやまなかったひとりの女性音楽家。彼女がベートーヴェンの死期を知って駆けつける。そのときに見る風景。それを音楽が叩ききる。断片にする。その断片が心のなかで乱れる。乱れながら、感情をえぐりだす。その痛みの中で、音楽が音楽そのものになる。こころの声になる。
 この激烈な印象はクライマックスでより濃密になる。耳の聞こえないベートーヴェンに指揮のタイミングを奈落から指示するアンナ。それに合わせて指揮をするベートーヴェン。現実の音はアンナの耳に聞こえるが、ベートーヴェンには聞こえない。その聞こえない音楽をベートーヴェンはアンナの手の動きの中に見る。あるいはアンナの瞳のなかに見る。そして、その手や瞳の表情をベートーヴェンが肉体で反芻するとき、ふたりの肉体が重なり合うとき、ベートーヴェンの「魂」のなかに音楽が響きわたる。それは濃密なセックスのように、世界の存在すべてを忘れさせる。映像と音楽との交錯を見ている、聞いていると、「第九」を聞いているということを忘れてしまう。ふたりの距離が現実の距離ではなく、魂の距離、つまり肉眼を超えた接近、魂の特権的な接近そのままに、アップで押し寄せ、そのアップが、溶け合う。肉体であること、瞳、手、首筋、髪の乱れ、汗が、指揮台と奈落の距離をこえて交じり合い、そこから音楽が始まる。そこにあるのは、ベートーヴェンの音楽ではない、アンナの音楽でもない。ふたりの魂がいっしょになった音楽である。その融合が聴衆を引き込んだように、スクリーンを見つめる私をも引き込む。

 映画を見終わって、「第九」が聞きたくなった。今聞いたばかりの音楽なのに、そのなかにもう一度身を沈めたくなった。酔いたくなった。
 エド・ハリスの純粋で超越的な眼、それにこたえるダイアン・クルーガーの清潔な肉体、どきどきするような透明な目がいい。映画のなかに出てききたことばで言えば「神」の目と人間の目、「魂」の目とこころの目が出会い、人間に届く音楽が誕生した--と思わず思ってしまう。



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清岡卓行論のためのメモ(10)

2006-12-23 12:53:30 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「冬の薔薇」(『固い芽』1975年、青土社刊)には清岡の意識が「構造」としてあらわれている。その最初の連(3行)と最後の連(3行)。

あれは冬の天使がひとり 自分の
青い爪を切っている
さびしい音ではない。(第1連)

あれは冬の天使がひとり 自分の
青い爪を切っている
さびしい音。    (最終連)

 「さびしい音ではない」と「さびしい音」。同じものを定義してまったく反対のことばがでてくる。さびしい音ではない「と」さびしい音のあいだ。この間の意識の、感覚の運動が清岡の「詩」である。
 その運動の転換点。

しだいに小さな 棘だらけの
裸になって行くにつれ
逆に 新しい力が
どこからか溢れてくる
冬の薔薇の 不思議な姿。

 ここには「円き広場」の遠心と求心が別のことばで書かれている。そして、この遠心と求心を見るとき、読み落としてはならないのは「行くにつれ」の「つれ」という持続をあらわすことばである。
 「と」によって結びつけられ、同時に拡大する運動は、常に「つれ」ということばが指し示すように持続している。つまり動いている。動き続けている。その動き続ける動きのなかに、遠心・求心のような互いに矛盾する動きがある。

 「ピアノの幻想」は、この遠心・求心を別のことばであらわしている。2連目3行。

そのすべての方向のまじわるところで

 これは「円き広場」の「広場」そのものである。あらゆるものがそこで出会い、その瞬間に、激変する。新しい世界が生成する。2連目の全体。

さて 聴衆は溺れまいと
音の洪水を泳ぎはじめる。
そのすべての方向の交わるところで
黒く白く冷たい あの楽器は
見る見るうちに 宙に浮き
タイプライターほどの大きさに縮まり
素朴な巨人のための
精巧無比な玩具となる。

 ここで「タイプライター」という比喩が出てくることろが、「詩人」ゆえのことかもしれない。ことば。ことばを叩き出す機械。遠心・求心の一瞬をことばにしたい、そういう欲望が引き出した比喩だろうと思う。
 「宙に浮き」という表現もおもしろいと思う。浮遊感、不安定さ。それは「自由」ということでもある。遠心・求心は「重力」(人間をしばりつけいてる見えない力)から人間を解放する。そして解放されるからこそ、そこでそれまでの自分とは違った存在に新しく生まれ変わることができる。

 遠心・求心は人間が新しく生まれ変わるために通らなければならない「円き広場」なのである。「詩」は、そうした生成の場なのである。


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