詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村稔「雪」

2006-12-15 14:23:39 | 詩(雑誌・同人誌)
 中村稔「雪」(「現代詩手帖」12月号)。
 各行の終わりが「雪はふる」で押えられている。

山裾にひろがる平原に、雪はふる。
川面に、雪はふる、立ち騒ぐ浪に、雪はふる。
点在する家々の屋根に、雪はふる。
小止(おや)みなく、音もなく、雪はふる。

私の心の底の暗がりに、雪はふる。
私を傷つけている悲しみに、雪はふる。
私の遣り場のない嘆きに、雪はふる。
すべてを忘れよと囁くように、雪はふる。

山並を、林を、墨色にけぶらせて、雪はふる。
白と墨色の濃淡だけの視界に、雪はふる。
人間と風景を溶けこませて、雪はふる。
静けさが世界を領して、雪はふる。

私にあたえられた時間の終りのとき、雪はふる。
悲しみも嘆きもふかく沈めて、雪はふる。
いとしい者たちの仄かな明るみの上に、
しきりに雪はふる、雪はふりつむ。

 1連目は実際に眼に見ることのできる風景である。平原、川、川の波、家、家の屋根と視点がだんだん一点に集中していく。この動きを感じさせない工夫として(その動きが強調されないようにするために)、「雪はふる」は繰り返される。一点への集中が、とても自然に、見えないようにして、おだやかな印象を引き出す働きをしている。
 その視線は自然に2連目で「私の心」へとつながっていく。しかも単に「私の心」ではなく、

私の心の底の暗がりに

 この「の」の繰り返しによる連続性--そこに中村の「詩」がある。「の」によって世界を連続的に、しかも広いところから徐々に狭いところというか、一点へと向かう。1連目には「の」は「点在する家々の屋根」と一か所しか出てこないが、2行目の「川面」は「平原の川面」である。街中の川面ではない。つまり、そこには平原から川へと視界を集中させるための「の」が省略され、隠されている。「点在する家々」も「平原」の「点在する家々」である。ここにも視線を集中させるための「の」が省略されている。
 2連目にも同じように「の」が隠されている。2連目2行目の「悲しみ」は「私の心の底」の「悲しみ」であり、同様に2連目3行目の「嘆き」は「心の底」の「嘆き」である。
 そして、ここで「の」が省略されているのは、その「の」による連続性が、一点への集中であると同時に、集中しながら拡大するものだからである。「暗がり」と「悲しみ」と「嘆き」は心の濃淡である。揺らぎである。それは一点(心の底)に集中しようとするとき、初めて見える濃淡である。
 この心理的な様態は、3連目の、現実の「風景」を描きながら「濃淡」(2行目)ということばそのものとしてあらわされている。3連目は現実の風景を描いているようでありながら、実は、こころをいったんくぐり抜けた風景、心象風景である。そういう意味で1連目の風景とはかなり違った意味合いを持っている。
 中村は、3連目で「濃淡」ということばを(いわば「の」の連続による世界が描き出す哲学を)浮かび上がらせて、その連続性によって人間と風景が溶け込むというありようが始まると書いている。人間(心、心の底)と風景が「の」の力によってつながり、同時に、そのつながりが消えて一体になる。融合する。その「静けさ」(4行目)。
 その「静けさ」は中村の思想そのものであり、だからこそ願い(祈り)でもある。4連目は、「祈り」として書かれた「静けさ」である。

 ところで、この詩の「雪はふる。」は先に簡単に書いたように、「の」による集中と拡大(あるいは深まりといった方が表現としては正しいのかもしれない)へと動く心理の視線を具象へ(現実の風景へ)かえすという働きをしている。そのことによって、人間と自然の溶け込んだ世界(日本人の心象世界?)をよりいっそう鮮明に浮かび上がらせるという働きをしている。
 ことばの一語一語にむだがない。選び抜かれたことばだけが書かれている。詩のことばはこうであらねばならない、という中村の強い意志が感じられる。
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マーティン・キャンベル監督「カジノ・ロワイヤル」

2006-12-15 00:56:12 | 映画
監督 マーティン・キャンベル 出演 ダニエル・クレイグ

 前半、つまり、ジェームズ・ボンドがテロ組織を利用して金を稼いでいる男をポーカー勝負で勝つまでが非常におもしろい。
 ダニエル・クレイグが人間業とは思えないくらいに走りまくるのだが、その走りがマラソンではなく 100メートル競走の走りである。そんな走り方で人間が走れるのはオリンピックを見ていてもせいぜい 400メートルが限度であるが、ジェームズ・ボンドはそういうことを気にしないのである。トラックのように整備された場所ではなくても、路地でも障害物があっても、何がなんでも 100メートルダッシュで駆け抜ける。そうやって肉体を見せる。
 ここに映画の基本がある。
 もちろん映画だからいくらジェームズ・ボンドが 100メートルダッシュを繰り返しても、それがそのまま現実ではないことは観客は知っているが、それでも人間の肉体がそんなふうに動く--その動きそのものを見せるというのは、やはり映画の醍醐味である。
 走りのほかに、素手での格闘もある。銃を使うよりも素手で戦う。ひたすら肉体を酷使する。走って走って走りまくる。殴って殴って殴りまくる。こんなことができるのはどんな肉体だろうか--と思わせておいて、ちゃんとオールヌードの体も見せる。そうか、やはりスパイの肉体というのは普通の市民(観客)とは違った肉体をしているのだ、と実感させる。(ふきかえかもしれないが。)
 肉体の特権で君臨するのが映画スターである。それを引き出すのが映画監督である。そういう単純な構図がここにある。明快で、とても気持ちがいい。
 ハイテクは情報収集・分析のパソコンが登場するくらいで、奇妙な新兵器は登場しない。基本の兵器(武器)はあくまで肉体である。肉体とともにある頭脳である。そういう基本へ立ち戻ったのが、この映画のおもしろいところである。
 後半は走り疲れたのか、ちょっともたもたする。肉体から、感情の戦い(?)へと主戦場が移動する。これも、これはこれでおもしろい。人間は走り続ける肉体だけでできているわけではない。感情があり、それが肉体を鋭敏にもすれば鈍らせもする。このとき、肉体と頭脳は同じものである。感情が目を覚ましているあいだ、頭脳と肉体は遊び呆けるのであろう。そうしたことも描いていて、これは、まるで「007 」の人間復活宣言のような映画である。
 続編がどれくらいつくられるのか知らないが、これまでの「007 」を全部肉体で洗い直してもらいたい、という期待が生まれるおもしろい映画である。



コメント (2)
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