詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中佐知「(たとえば/一本の木が……)」

2006-12-14 23:51:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 田中佐知「(たとえば/一本の木が……)」(「現代詩手帖」12月号)。
 「詩」は意味ではない。しかし、ことばには意味がどこからともなくやってきて自己主張する。感情もやってきて自己主張する。意味と感情が出会うとき、抒情詩が生まれる。そうした典型のような作品が「現代詩手帖」12月号に乗っていた。田中佐知「(たとえば/一本の木が……)」。その全行。「永遠」と「わたし」の関係が書かれている。

たとえば
一本の木が 空の高みに憧れるように
わたしも届かぬ 永遠に
熱い眼差しを投げかけている
その時
永遠という世界の神秘は
わたしの ひそやかな眼差しを感じて
かすかに
ふるえてはくれないだろうか?

 「高み」と「永遠」。その「意味」と「感情」がこの作品では溶け合っている。
 一本の木を見る。その木が、空の高みに憧れている。まるで永遠に憧れるように。そう書いたとき田中は木になっている。木といっしょになって(木と一体になって、つまり木そのものになって)、空の高みを眺め、憧れている。永遠を見つめたいと思っている。そして、ただ「永遠」を見つめるだけではなく、「永遠」の方からわたし(田中)を発見してくれることをも期待している。そんなふうに「永遠」と一体になることを願っている。
 そんなふうに作品世界を理解した上でのことなのだが、私は、この詩に実はびっくりしてしまった。椅子から跳び上がりそうになってしまった。
 永遠の方が「わたしの ひそやかな眼差しを感じて」震える。その「感じて」ということば。これに、私はびっくりしてしまった。
 「永遠」は田中にとって、人格なのである。感覚を持った存在なのである。

 一本の木--その目の前の実在に自分を投げかける。そして自分を一本の木と思い、私が木であったならこんなふうに感じ、こんなふうに思う、と感情として木と一体になり、木の思想(意味)を語るということは、詩の世界ではよくあることである。
 そしてこのとき、私と木は別個の存在であるのに、同じ感情・意識を持つということを通じて、その同じ感情・意識という「永遠」に触れる。「同じ」ということが「永遠」なのである。「同じ」は「ひとつ」に通じる。木と私(田中)は「同じ」感覚・意識を持つということは、感覚・意識として「ひとつ」ということである。「ひとつ」は真理であり、真理は「永遠」である。
 これを田中は「永遠」にまで拡大する。
 私(田中)と木が一体になり「永遠」に触れるなら、「永遠」の方でも、私と木が一体になっている、その一体感のなかで人間であること、木であることを超越しているのだから、「永遠」の方でもそれを「感じて」しかるべきだと田中は感じる。(ただし、この考えは「かすかに/ふるえてくれないだろうか?」と遠回しに語られるのだが……。)

 田中は「感じる」力がとても強いのだと思う。田中自身の「感じる」力が強いから、ほかのひとも(読者も)感じる力は強いにきまっている、「永遠」も感じる力を持っている。--そいうふうに、無防備に感じている。信頼している。
 その信頼感に驚くと同時に、あ、これは「現代詩」が失ってしまった力だなと思った。反省した。

 「感じる」こと。それが田中にとって「詩」である。そして田中が「感じる」とき、「永遠」の方でも田中を「感じる」。その「感じる」というありようが重なって「かすかに/ふるえる」。世界が、そして宇宙が。その「ふるえ」が田中にとっての、「届かぬ永遠」のさらに向こうにある「詩」そのものなのだろう。

コメント
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