詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本哲也「生きているふりをしなければ」北川透「ウイルス」

2006-12-12 11:56:59 | 詩(雑誌・同人誌)

 山本哲也「生きているふりをしなければ」北川透「ウイルス」(「現代詩手帖」12月号)。
 さらに逸脱について。
 山本哲也の「生きているふりをしなければ」は入院(あるいは病院)につていの詩である。「生きているふりをしなければ/生きられない。」という逆説めいた論理に抒情がある。この逆説には清水哲男の「なあんてね」に通い合うものがある。「いのり」のようなもの、ひそかな「ねがい」のようなものが、ことばにならないまま漂っている。そういう「空気」をより明確に(?)するために、山本が選んだ逸脱は……。

(昭和十二年四月二十日夕刻
鎌倉の妙法寺の境内、
小林秀雄と中原中也の二人、
海棠の花がしきりに散っている
小林秀雄がいう
「あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ」)

 有名な小林秀雄と中原中也のエピソードである。山本は「文学」へ逸脱していく。しかも「文学」そのものというより、「文学の周辺」へ逸脱していく。「文学」をめぐる、ことばをめぐる思いへと逸脱していく。なぜ、小林秀雄は、あるいは中原中也は、なぜそういうことばをつかったのか。ことばの奥に何があるのか、どんな命が動いているのか……そしてそれが、少しずつ、山本自身の現実と重なる。山本哲也は「文学」を通って「文学の周辺」へと向かうことで「文学」から離れ、山本自身の現実へと引き返してくる。

あのとき、なんで
中也は、もういいなんて言ったのか
「もういいよ、帰らうよ」だなんて
(あれはおそらく中也の嘆息だった)
レトリックはもういい、
せめて生きているふりをしなければ
薄い胸のうちの
小暗い森のなにもないという空虚にむけて
           (谷内注「もういいよ」の2度目の「い」は送り文字)

 この「文学」の向こうへ行って、そこから自分の現実へ引き返すという意識の動きがわかるだけに、しかし、私には奇妙な印象が残る。
 ことばはレトリックである。文学はレトリックである。そう断定して、そこから遠く離れる中也のこころにつき従って、その文学から遠く(?)離れた場に自分自身の生を重ね合わせる--そのときの「生きているふりをしなければ」は、私から見れば、やはりレトリックである。レトリックを拒否する「ふり」をしたレトリックである。(この点でも、清水哲男の「なあんてね」に非常に似ている。)
 そして、この「ふり」こそが、たぶん山本哲也の現実と肉体の関わり合い方なのだと思う。私はふいに「桃」という作品の書き出しを思い出す。

男がビールを飲んでいる
くだらない仕事でも
心をこめてやるしかなかった

 ここでの仕事のこなし方は「ふり」というには、ちょっと違和感があるかもしれない。(だからこそ、山本哲也の「ふり」につながるのだが。)ほんとうは違うことがしたい。しかし、したくないと頭は判断するけれど、それに向けてこころを動かしていく。頭とこころの乖離が、山本の「ふり」にはあるのだ。
 頭ではレトリックを拒否する。しかし、こころはレトリックをていねいに仕上げる。そこから、こころの、何とも言えない悲しみのようなものが流れてくる。
 小林秀雄の「あれは散るのじやない、散らしてゐるのだ」は頭で仕上げたレトリックである。そこを通り抜け、そこから遠く遠く離れて、こころのレトリックを目指す。
 生きているのは頭ではなく、こころなのだから。

 しかし、なんだか濾過されすぎている。生きているのは頭ではなく、こころだ、という考え方自体がすでに頭で濾過されたもののように思えてくる。
 山本の詩の中に、たとえば蜂飼の「坂鳥 朝越え 砂丘のにおい」のような、どこからともなく生まれてきた肉体の発する音があれば、そのこころは頭ではなく、肉体(肉)そのものと絡み合うのになあ、と思ってしまうのだった。



 北川透「ウイルス」はどこかへ逸脱していくということはない。最初から逸脱していて、その逸脱した「場」から「文学の周辺」へことばをぶつける。こころを頭で濾過する、というような抒情を拒絶している。頼るべきは自分の肉体だけである。

 ウォー 階段を降りながらぶよぶよしているおれは
 ウォー きょう一日 どんな牝馬どんな特売市場
 ウォー どんな遺産相続と交配させられるのだろう
 ウォー 吠えているおれを 空っぽの卵が笑っている
 ウォー 世界はいまいましいほどぶよぶよしていて
 ウォー 詩と死の開かれない頁につながれている

 ことばがどこまで動いていくか(つまり、どこへ動いていけば「文学」になるか)、ということを北川は想定していない。ただ「ウォー」と叫んだときのあまった力(余剰の力)が肉体の中からことばを引き出すのに身を任せている。そして、あふれてきたものを「文学の周辺」とその奥にある「文学」にむけてぶつける。
 「文学」がその声に気づくか。そうなる前に北川の声が尽きてしまうか。そんなことは、たぶん北川の意識にはない。ただ、今、この「場」で北川のことばを肉体化することだけが、北川にとって「詩」なのである。

 北川の逸脱は、完全に孤立した逸脱である。そして完全に孤立しているがゆえに、不気味なことに、それがどこかとつながっているように感じられる。だれと、と名指しはできないが、ときどき、そういう孤立した声を、詩を読んでいて感じることがある。
 清水哲男の抒情、山本哲也の抒情が、それぞれ孤立しながら、どこかでそっと触れ合って、それがしっかりした抱き締めあいではないがゆえに、「孤立していますよね」とひそかに確認している抒情なのに対して、北川の孤立は触れ合うことを拒絶することで、見えない力で遠くの存在と強烈に抱き締めあっている。そういう印象がある。それはだれか、というよりも、文学の奥の奥の奥の、ことばを発する力かもしれない、とも思う。

コメント
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