詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松本圭二「1989」

2006-12-17 23:44:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 松本圭二「1989」(「現代詩手帖」12月号)。
 松本の作品にも繰り返しが出てくる。中村稔の「雪はふる」、長谷川龍生の「撫でる」とはまた別の種類の繰り返しだ。

ロックバンドの方がわかりやすいということかゾンビ
しかし楽器もできない歌も歌えない友達もいないでロックバントゾンビ
なんてできるはずがない24歳にもなってやりたくもない何もやりたくもないゾンビ
めんどくさい想像もできないアホじゃないか何がロックバンドでもやればなんてゾンビ
ふざけやがってそんな手紙書くヒマがあったら金くれゾンビ
金振り込んでくれ金くれ金、米やら蜜柑やら送ってくるな腐るだけゾンビ

 引用部分では特に2行目と3行目の渡りがおもしろい。一瞬「ロックバンドゾンビ」というものがあるかのように思ってしまう。これが「ロックバンドなんてゾンビ/できるはずがない24歳」、あるいは「ロックバンドなんてできるはずがないゾンビ/24歳にもなって」だったらおもしろさに欠ける。意味が先に立ってしまい、ことばを読むのが苦痛になる。
 「1989」に書かれている内容は、とても暴力的である。そして、その暴力が非常に軽い。軽快である。スピードがある。そのスピードが生み出した音楽が「ロックバンドゾンビ」に凝縮している。
 意味を超えて、音として輝く。その音が新しい照明になって、それまで見えなかった領域を照らしだす。「ゾンビ」があらわれるたびに、前の行に書いてあったことを突き破っていく。決して前の行には戻らない。ただひたすら、ことばが動ける間中、ただひたすらにことばを動かしていく。
 その先に、たとえば

手のひらの甘皮をむいて食べていた鼻くそを食べていた時々

というような、繊細な輝きが噴出する。肉体が、まるで生まれた瞬間の赤ん坊のように、湯気を立ててあらわれてくる。この狂暴さは、暴力を超越する。無防備である、という意味である。
 松本は、無防備へむけて、ことばを走らせる。激しい強暴のあとに、新鮮な無防備な力が、その力をもてあましたまま立ち現れる。
 それをどんなふうに生かしていくか--というようなことは、松本はもちろん考えない。そんなことを考えれば、強暴さは、単なる組織化された暴力、軍隊のように人間を否定するだけのものになってしまうだろう。


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伊藤信一『豆腐の白い闇』

2006-12-17 14:17:19 | 詩集
 伊藤信一『豆腐の白い闇』(紙鳶社、2005年07月10日発行)。
 「朝」の3連目。

停留所のいたんだ鉄の板の数字とは無関係に
バスが別の場所の朝の空気を運んできて止まった

 これはバス停の時刻表通りではない時間にバスがやってきた、という意味かもしれない。「板の数字」は時間、「無関係」はその時間とは無関係(つまり、違った時間)ということかもしれない。
 けれども私は、そこに意味ではなく、意味を拒絶して存在する何かを感じた。「詩」を感じた。「無関係」ということばに「詩」を感じた。
 バスが時刻表通りにバス停にやってこないということは、日常的にはありふれたことである。正確に到着しなかった(出発しなかった)ことを、「板の数字とは無関係に」とことばにするとき、そこには正確に到着しなかったということ以上のものがふくまれている。「意味」を超越したものがふくまれている。
 それは何か。
 何かなんて、もちろん私にはわからない。ことばを書いている伊藤にはわからないのだと思う。わからないからこそ、ことばをつづける。
 「バスが別の場所の朝の空気を運んできて止まった」の「別の場所」とは意味の近似値としては「前のバス停」になるが、伊藤が感じているのは、そういう連続性とは「無関係」の「別の場所」であるだろう。こことは「別の場所」というよりも、それを超えたもの、それがほんとうは夢見られているのだと思う。現実を超越したものを見ているのだと思う。
 だからこそ、先の2行は次の3行を呼び込む。

朝はここでもとぐろを巻いている
電柱の影が長く伸びて
バスを串刺しにした

 バスの上に電柱の影がかぶさる。そうした風景を描いていることは、ことばの奥を読み取ろうとする努力をしないでも、だれにでもすぐわかる。
 だが伊藤のことばは、現実を描写する普通のことばからちょっと浮遊している。少しだけ「無関係」に動こうとしている。その現実とことばの不連続性のなかに、私は伊藤の「詩」を感じる。
 現実を少しだけ引き剥がし、その引き剥がした部分から、伊藤の肉体・感性が見えるような気がする。

 「野球のような」の最後の連。

不意にコーチに肩をたたかれている
これがこの時代のヒューマニズムなんだな

 打ち込まれたピッチャー。交代をつげるコーチ。肩をたたかれる--というのは実際の行動なのだろうけれど、これが「肩たたき」(退職の勧め)と重なる。退職の勧めとしての「肩たたき」とピッチャーの交代は本来は「無関係」であるが、それが「肩たたき」ということばのなかで出会うとき、そのことばが(動作ではなく、というのが重要なことかもしれない)、野球から浮遊する。その隙間に「ヒューマニズム」がするりと滑り込んでくる。
 この行には、伊藤が引き剥がしたものと、その引き剥がしのあわいにのぞく伊藤の肉体・感性がくっきり見える。「肩たたき」ということば、人生の交代をつげることばの、なんともいえないいやらしさを批判し、同時にそれを受け入れるしかない人間の悲しみが見える。

 ことばと現実の関係を、すこしずらして、ことばをじっくり見つめる。するとことばが、ちょっと違ったふうに動いていく。その動きにつきあう。そのていねいさのなかに伊藤の「詩」がある。


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