監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス 出演 グレッグ・キニア、スティーヴ・カレル、トニ・コレット
この映画は「押す」映画である。押し切っていく。映画である。
「リトル・ミス・サンシャイン」コンテストをめざす少女(末っ子)を乗せて黄色いバスがアリゾナからカリフォルニアまで旅する。その途中にバスはギアが故障する。どうするか。家族で押して押して押しまくる。いったん走り出せば惰性で走って行ける。だから、止まるな、止まるな、止まるな、障害物は体当たりではね除け、突っ走れ。
「押す」という行動が一番明確なのは、そのバスのシーンだが、ほかにもいろいろ出てくる。
たとえば一家そろってのディナー。メインはフライドチキン。皿は紙皿。飲み物はスプライト。そしてコップは変な模様の入ったコップだったり、青いプラスチックのコップだったりする。しかし、とりあえずはそれで飲み食いはできるはできる。しかし、繊細さを欠いている。そして、その繊細さに欠ける部分を、なんというのだろう、生きていることのバイタリティーが押し切っていく。食事中の会話も繊細さを欠いているといえば欠いているのだが、配慮というものより、そこにある事実を直視し、それに体当たりしていく。押し切ってしまう。
人間にできることは「押す」こと、押し切ることであるという単純な思想がこの映画を輝かせている。
クライマックスもおもしろい。「ミス・リトル・サンシャイン」というくらいだから子供が対象のコンテストである。最後に出場者は特技を披露するのだが、末っ子のダンスは「きわもの」である。色狂いのおじいちゃんが教えたストリップダンスである。もちろん主催者側は止めに入る。しかし、一家は、それを止めさせない。一家で舞台に上がり、娘と一緒になって踊る。娘の行動を「押し」、そうやってすべてを押し切ってしまう。
普通の映画(?)なら、最後はハッピーエンドになるのかもしれない。末っ子を応援する一家、それに感動する観客、そして末っ子は晴れて1位に……。しかし、この映画はそんな「空想」は撥ね除ける。もちろん末っ子は優勝しないし、家族は「おしかり」を受ける。
でも、それが楽しい。とても明るいものが残る。
何が残ったか。家族とは「押す」人間のことである。困っている人がいたら「押す」。ひたすら押して、走り出したら、それが走り終わるまで一緒についていく。その「走り」に乗っていく。下りたりはしない。
押して、走って、乗る--それが家族だ。
振り返れば、さまざまな「押す」が出てくる。自殺未遂をした伯父を押して押して家族の中に引き入れる。色弱がわかってパイロットになる夢が立たれた長男を末っ子が無言で押して立ち直らせる。さらには途中で死んだおじいちゃんを病室の窓から「押して」出して病院から逃走する……。家族は、いつでも何かを押しているのだ。
押してどうなるか。どうにもならない。何も成功しない。ただ、押し合ったね、一致団結したね、という心が残る。幸せは確かにこの「押し合った感覚」、その肉体の記憶の中にある。「押す」というのは考えてみれば力任せのようであって、そうではない。「押す」というのは押されるものの反応を確かめながら押すのだ。車が走り出せばもう押さない。押さずに、飛び乗る。飛び乗って走る。この単純な構造が、繰り返されて、肉体そのものになっていく幸福がこの映画にある。
この映画は「押す」映画である。押し切っていく。映画である。
「リトル・ミス・サンシャイン」コンテストをめざす少女(末っ子)を乗せて黄色いバスがアリゾナからカリフォルニアまで旅する。その途中にバスはギアが故障する。どうするか。家族で押して押して押しまくる。いったん走り出せば惰性で走って行ける。だから、止まるな、止まるな、止まるな、障害物は体当たりではね除け、突っ走れ。
「押す」という行動が一番明確なのは、そのバスのシーンだが、ほかにもいろいろ出てくる。
たとえば一家そろってのディナー。メインはフライドチキン。皿は紙皿。飲み物はスプライト。そしてコップは変な模様の入ったコップだったり、青いプラスチックのコップだったりする。しかし、とりあえずはそれで飲み食いはできるはできる。しかし、繊細さを欠いている。そして、その繊細さに欠ける部分を、なんというのだろう、生きていることのバイタリティーが押し切っていく。食事中の会話も繊細さを欠いているといえば欠いているのだが、配慮というものより、そこにある事実を直視し、それに体当たりしていく。押し切ってしまう。
人間にできることは「押す」こと、押し切ることであるという単純な思想がこの映画を輝かせている。
クライマックスもおもしろい。「ミス・リトル・サンシャイン」というくらいだから子供が対象のコンテストである。最後に出場者は特技を披露するのだが、末っ子のダンスは「きわもの」である。色狂いのおじいちゃんが教えたストリップダンスである。もちろん主催者側は止めに入る。しかし、一家は、それを止めさせない。一家で舞台に上がり、娘と一緒になって踊る。娘の行動を「押し」、そうやってすべてを押し切ってしまう。
普通の映画(?)なら、最後はハッピーエンドになるのかもしれない。末っ子を応援する一家、それに感動する観客、そして末っ子は晴れて1位に……。しかし、この映画はそんな「空想」は撥ね除ける。もちろん末っ子は優勝しないし、家族は「おしかり」を受ける。
でも、それが楽しい。とても明るいものが残る。
何が残ったか。家族とは「押す」人間のことである。困っている人がいたら「押す」。ひたすら押して、走り出したら、それが走り終わるまで一緒についていく。その「走り」に乗っていく。下りたりはしない。
押して、走って、乗る--それが家族だ。
振り返れば、さまざまな「押す」が出てくる。自殺未遂をした伯父を押して押して家族の中に引き入れる。色弱がわかってパイロットになる夢が立たれた長男を末っ子が無言で押して立ち直らせる。さらには途中で死んだおじいちゃんを病室の窓から「押して」出して病院から逃走する……。家族は、いつでも何かを押しているのだ。
押してどうなるか。どうにもならない。何も成功しない。ただ、押し合ったね、一致団結したね、という心が残る。幸せは確かにこの「押し合った感覚」、その肉体の記憶の中にある。「押す」というのは考えてみれば力任せのようであって、そうではない。「押す」というのは押されるものの反応を確かめながら押すのだ。車が走り出せばもう押さない。押さずに、飛び乗る。飛び乗って走る。この単純な構造が、繰り返されて、肉体そのものになっていく幸福がこの映画にある。