詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督「リトル・ミス・サンシャイン」

2006-12-27 14:24:16 | 映画
監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス 出演 グレッグ・キニア、スティーヴ・カレル、トニ・コレット

 この映画は「押す」映画である。押し切っていく。映画である。
 「リトル・ミス・サンシャイン」コンテストをめざす少女(末っ子)を乗せて黄色いバスがアリゾナからカリフォルニアまで旅する。その途中にバスはギアが故障する。どうするか。家族で押して押して押しまくる。いったん走り出せば惰性で走って行ける。だから、止まるな、止まるな、止まるな、障害物は体当たりではね除け、突っ走れ。
 「押す」という行動が一番明確なのは、そのバスのシーンだが、ほかにもいろいろ出てくる。
 たとえば一家そろってのディナー。メインはフライドチキン。皿は紙皿。飲み物はスプライト。そしてコップは変な模様の入ったコップだったり、青いプラスチックのコップだったりする。しかし、とりあえずはそれで飲み食いはできるはできる。しかし、繊細さを欠いている。そして、その繊細さに欠ける部分を、なんというのだろう、生きていることのバイタリティーが押し切っていく。食事中の会話も繊細さを欠いているといえば欠いているのだが、配慮というものより、そこにある事実を直視し、それに体当たりしていく。押し切ってしまう。
 人間にできることは「押す」こと、押し切ることであるという単純な思想がこの映画を輝かせている。
 クライマックスもおもしろい。「ミス・リトル・サンシャイン」というくらいだから子供が対象のコンテストである。最後に出場者は特技を披露するのだが、末っ子のダンスは「きわもの」である。色狂いのおじいちゃんが教えたストリップダンスである。もちろん主催者側は止めに入る。しかし、一家は、それを止めさせない。一家で舞台に上がり、娘と一緒になって踊る。娘の行動を「押し」、そうやってすべてを押し切ってしまう。
 普通の映画(?)なら、最後はハッピーエンドになるのかもしれない。末っ子を応援する一家、それに感動する観客、そして末っ子は晴れて1位に……。しかし、この映画はそんな「空想」は撥ね除ける。もちろん末っ子は優勝しないし、家族は「おしかり」を受ける。
 でも、それが楽しい。とても明るいものが残る。
 何が残ったか。家族とは「押す」人間のことである。困っている人がいたら「押す」。ひたすら押して、走り出したら、それが走り終わるまで一緒についていく。その「走り」に乗っていく。下りたりはしない。
 押して、走って、乗る--それが家族だ。
 振り返れば、さまざまな「押す」が出てくる。自殺未遂をした伯父を押して押して家族の中に引き入れる。色弱がわかってパイロットになる夢が立たれた長男を末っ子が無言で押して立ち直らせる。さらには途中で死んだおじいちゃんを病室の窓から「押して」出して病院から逃走する……。家族は、いつでも何かを押しているのだ。
 押してどうなるか。どうにもならない。何も成功しない。ただ、押し合ったね、一致団結したね、という心が残る。幸せは確かにこの「押し合った感覚」、その肉体の記憶の中にある。「押す」というのは考えてみれば力任せのようであって、そうではない。「押す」というのは押されるものの反応を確かめながら押すのだ。車が走り出せばもう押さない。押さずに、飛び乗る。飛び乗って走る。この単純な構造が、繰り返されて、肉体そのものになっていく幸福がこの映画にある。

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高橋睦郎「学ぶということ」

2006-12-27 13:15:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 高橋睦郎「学ぶということ」(「現代詩手帖」12月号)。
 オックスフォード。町に迷って突然墓地に出る。そこで高橋は若者たちが墓蓋に足を伸ばしたり腰掛けたりして本を読んでいる。音楽を聴いている。議論している。

大学の町に迷っていて 突然出た明るい墓地
五月の草花が乱れ咲き 蜜蜂が羽音を震わせる中
碑銘板に背を凭(もた)せ 墓蓋に腿を伸ばして
テクストを読むのに余念のない 髭の若者
向いあった墓に胡座(あぐら)して 議論に夢中の二人もある
通りかかる大人の誰一人 咎める者もない
咎めないのは 墓の下の死者たちも同じ
若い体温の密着を むしろ悦んでいる面持ち
生は死と 死は生と いつも隣り合わせ
学ぶとはつまるところ その秘儀を学ぶこと
生きて在る日日も 死んでののちも

 最後の1行が不思議だ。「生きて在る日日も」はわかる。学ぶということは生きているときにすることである。それにつづけて高橋は「死んでののちも」と付け加えている。そんなことができる? できたとして、誰にその事実を確認できる? 死んだあと、生と死が隣り合わせであると死者が学んでいると誰が認識できるだろうか。
 ところができるのである。それが「詩」である。

 この詩の「キーワード」はしかし「死んでののちも」ということばではない、と私は感じている。いや、「キーワード」なのかもしれないが、そのことばだけでは、なんのことかわからない。「死んでののちも」の「死」に対応するものがこの作品には隠されていて、それが真の「キーワード」なのだと思う。
 なかほどの「大人の誰一人」。詩文学とはほど遠いそっけないことば。これが「キーワードだ。「大人」が「死んでののちも」で描かれている「死」よりもさらに死んでしまった人間である。
 大人と若者は隣り合っている。その境界線はあるようで、具体的には存在しない。具体的に存在しないにもかかわらず、隣り合っていることを忘れ、むしろ隔絶した状態で生きている。共存している。それは墓蓋と若者の関係に非常に似ているようで非常に違っている。大人は「墓蓋」よりもさらに死んでいる。完璧に死んだ状態なのだ。「墓蓋」の方が若者の体温と密着しているから、まだ、「隣り合っている」と言えるのだ。「大人」は「若者」と接していない、見えるのに接していない。だから完全な「死」である。それに比較すれば、墓蓋の下の人間は直接的に若者と接している。ゆえに、そこから何かを学びうる。学んでいるように見える……。
 もちろん、これは「比喩」である。「比喩」でしか語ることのできないことがらである。
 そして、この「比喩」を語っているとき、高橋は、どちらに属しているのだろうか。若者を咎めない「大人」の一人か。「若者」か。「墓蓋」の下の住人、つまり死人か。「大人」と「若者」、つまり比喩としての「完璧な死人」と「若者」の両方を見つめ、さらに「若者」と比喩ではない「死人」の両方も見つめている、どこにも属さない人間である。どこにも属さないかわりに、どこにも属すことができる人間である。両方を往復する人間である。往復するとは、見つめながら、あれこれ考えることである。

 たとえ高橋が「大人」、若者から完全に隔たってしまった人間、比喩としての完璧な死人であったとしても、「生と死が隣り合っている」という秘儀を学ぶことはできる。「若者」を見ればいいのである。見て、考えればいいのである。
 「若者」が何をしているか。「若者」が「死」をどんなふうに取り扱っているか。それが気がついたときが生と死の隣り合っていることを学ぶ好機なのである。「若者」と「死」を往復するとき、その「隣り合い方」がわかるのである。高橋は、それをオクスフォードで発見した。

 「死」を旅によって洗い流す--そういうことを高橋はしたのだと思う。その痕跡が、「学ぶということ」に残っている。「操舵室にて」にも残っている。

晴れわたったダブリン湾 外洋のアイリッシュ海
だが それは見える海 その先には見えない海

 旅は見える海に触れながら、その先の「見えない海」を見ることだ。
 生と死が隣り合っている--ということは肉眼では見えない。ところが、高橋は、それを肉眼で見たのである。オクスフォードで見たのである。そして、その肉眼が「大人」を完璧な死人に見せたのである。
 肉眼を取り戻した高橋がここにいる。
 「通りかかる大人の誰一人 咎める者もない」という1行は、あまりにもそっけなく、散文そのものであり、「詩」になっていないようで、その実、このどうしようもないそっけなさ、そう書くしかなかった肉眼が、「死んでののちも」という強いことばを引き出すのである。

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