詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木坂涼「調べ」、白石かずこ「あの男は半島だ」

2006-12-21 23:15:27 | 詩(雑誌・同人誌)
 木坂涼「調べ」、白石かずこ「あの男は半島だ」(「現代詩手帖」12月号)。
 木坂涼の詩を読んで感じるのは「共感力」だ。木坂は木や鳥など自然への共感力がとても強い。

         小鳥よ
      お前たちだね
     音のふるさとは

       ふるさとを
  わずらわせていないか
クラヴィーアは耳をすます

    羽根一枚の色合い
        ぬくもり
         危うさ

         小鳥よ
      お前たちだね
     音のふるさとは

 「小鳥よ/お前たちだね」と呼びかけることばのなかに潜む共感力。特に「お前たちだね」の「ね」。自分の「感じ」のおしつけではなく、確認。「ね」は確認の「ね」である。「小鳥よ/お前たちだね/音のふるさとは」という倒置法も、静かに静かに近付いていく共感力を伝えていて、素敵だ。



 白石かずこの「共感力」は肉体の共感力である。「あの男は半島だ」には「韓国の詩人金光林先生に捧げる」というサブタイトルがついている。その前半。

もう半世紀も前だ わたしはあの男が
虹のように 立っているのをみた 詩祭の丘の上に
それから わたしたちは兄と妹になった
わたしには ちいさな島があるが あの男にはない
あの男は上半身もぎとられた半島だ

 「上半身」とは朝鮮半島の北部を指す。確かに地図では北が上だから北朝鮮と韓国の分断は上半分をもぎとることかもしれない。この上半分を白石は「上半身」と呼ぶ。その「身」に直接的な共感がある。
 白石にとって思想は肉体なのである。共感はイデオロギーに対して共感するのではない。感情に対しても共感はしない、というと言い過ぎになるかもしれないが、白石は肉体そのものに反応する。

男の半島は生涯 切られた上半身 そこの父母と一言も話せず
消息すら知らず もうすぐ父母と同じ齢(よわい)八十才になろうとする時
ああ 切られた半島の上に もはや父母の空はないぞ

 北にいる父母は死んだ。そのとき、「父母の空」も消える。ここでも白石は男の父母の肉体に共感している。反応している。井坂洋子は「ひとりの人間には 一人ずつの/空と大地と海が用意されている」(「冥からの」)と書いたが、このひとりを白石は自分自身の問題ではなく、他人の問題としても共感する。それも抽象的な概念としてではなく、肉体として共感する。
 死とは肉体が消えることである。肉体が消えると空も消えるのである。
 白石の「兄」である金光林は上半身は「北」にある。そこには父母がいるはずだった。しかし、その父母が死んでしまって、金の上半身は孤独だ。孤児だ。そうしたありようを精神の問題としてではなく肉体の痛みとして感じ取っている。
 白石の詩の最終行。

半島男よ一緒に粥を食べよう 詩(ウラミ)をたっぷりまぜて

 肉体があるから「食べる」という動詞も生々しく生きてくる。「ウラミ」は浄化された精神の形ではない。肉体の痛み、苦悩がつまった感情である。そういうものを白石はさらに肉体で消化し、肉体に戻すのである。




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