現代詩文庫「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
初期詩集『円き広場』(1988年)から「円き広場」。
この作品には清岡の「詩」の要素が凝縮している。すべてそろっている。この詩を読むことは、清岡の詩集全部を読むのに等しい。
「と」は一か所のみ使われている。「膨張と同時の収縮を」。「と」によって膨張と収縮という反対の概念が結びついている。そしてそれは「同時に」ということばで結びつきを強いものにしている。
これに先立つ「遠心にして求心なる」と「遠心と同時に求心」と書き換えても意味は同じである。「にして」は「と同時に」と同じ意味を持っている。
また「十条の道を放射す/即ち そのままにて/十条の道を吸収す」の放射、求心の関係は、やはり「と」によって置き換えることができる。放射「と」求心。そして、「即ち そのままにて」は「にして」と同じ意味である。「放射にして求心」と言い換えうる。
「と」とは「と同時に」という意味であり、「にして」という意味であり、また「即ち そのままにて」という意味である。それは「と」によって結びつけられるものが正反対のものでありながら一体(ひとつ)になっていることを指す。「と」は正反対のものをひとつにする力である。
「と」にによって成立するこの世界は「詩」「音楽」「恋」を超越する完璧なものである。
そしてこの「と」は「広場」として具象化されている。その広場には十条の道がある。「広場」を通って、人は「十条」(全方向)へと行くことができる。「広場」へはどこからも来ることができ、また「広場」からはどこへでも行くことができる。それはあらゆる可能性の「場」である。
清岡は、その全体的な可能性、「劇的」瞬間に「眩暈し 佇む」。放心し、自己自身ではなくなる。
清岡に「詩」の原風景というものがあるとすれば、この「円き広場」がそれである。清岡の「詩」はこの「円き広場」に始まり、「円き広場」に終わる。常に「円き広場」をさまざまな形で繰り返している。
*
『円き広場』の詩集に含まれる「と」、あるいは「と」の言い換えを含む詩行の例をいくつか。
「新と旧」。「鉄橋」と「円き広場」の変形である。そこを通って人はどちらへも行くことができる。そして、この「にて」は漢字で書けば「以て」であり、また「以て」は「即」でもある。「即」は「同時」でもある。凝縮した「一瞬」、切り離すことのできない「瞬間」でもある。
「甘く悲しき」には「と」が隠されている。「甘さ(甘み)」と「悲しさ(悲しみ)」が「と」さえも省略された形で強く強く結びついている。「甘く悲しき」は「甘さ即、悲しさ」である。「と」が省略されているのは、それが切り離すことのできないもの、融合し、一体となっているものだからである。こうした瞬間に、清岡は「眩暈」を感じ、それを書き留めるのである。
同じく対立する概念が「と」を省略された形で表現されたものに、
というものもある。
対立する概念を同時に抱え込む人間の感情--それは「円き広場」なのである。あるいは、ひとつの感情を対立する概念で描写してしまう人間の理性--それが「円き広場」なのである。人間そのものが「円き広場」なのである。そこでは感情(感性)と精神(理性)とが自由に交錯する。行き交う。そして、それぞれを深めあう。高めあう。それが清岡の「詩」である。
初期詩集『円き広場』(1988年)から「円き広場」。
わがふるさとの町の中心
美しく大いなる円(まる)き広場
そは 真夏の正午の
目覚めのごとく
十条の道を放射す
即(すなは)ちまた そのままにて
十条の道を吸収す
おお 遠心にして求心なる
ふるさとの子 二十歳(はたち)
幼き日より広場に
はじめて眩暈(めまい)し 佇む
意識の円き核の
かくも劇的なる
膨張(ふくらみ)と同時の収縮(ちぢまり)を
かつて詩にも 音楽にも
恋にも 絶えて知らざりき
この作品には清岡の「詩」の要素が凝縮している。すべてそろっている。この詩を読むことは、清岡の詩集全部を読むのに等しい。
「と」は一か所のみ使われている。「膨張と同時の収縮を」。「と」によって膨張と収縮という反対の概念が結びついている。そしてそれは「同時に」ということばで結びつきを強いものにしている。
これに先立つ「遠心にして求心なる」と「遠心と同時に求心」と書き換えても意味は同じである。「にして」は「と同時に」と同じ意味を持っている。
また「十条の道を放射す/即ち そのままにて/十条の道を吸収す」の放射、求心の関係は、やはり「と」によって置き換えることができる。放射「と」求心。そして、「即ち そのままにて」は「にして」と同じ意味である。「放射にして求心」と言い換えうる。
「と」とは「と同時に」という意味であり、「にして」という意味であり、また「即ち そのままにて」という意味である。それは「と」によって結びつけられるものが正反対のものでありながら一体(ひとつ)になっていることを指す。「と」は正反対のものをひとつにする力である。
「と」にによって成立するこの世界は「詩」「音楽」「恋」を超越する完璧なものである。
そしてこの「と」は「広場」として具象化されている。その広場には十条の道がある。「広場」を通って、人は「十条」(全方向)へと行くことができる。「広場」へはどこからも来ることができ、また「広場」からはどこへでも行くことができる。それはあらゆる可能性の「場」である。
清岡は、その全体的な可能性、「劇的」瞬間に「眩暈し 佇む」。放心し、自己自身ではなくなる。
清岡に「詩」の原風景というものがあるとすれば、この「円き広場」がそれである。清岡の「詩」はこの「円き広場」に始まり、「円き広場」に終わる。常に「円き広場」をさまざまな形で繰り返している。
*
『円き広場』の詩集に含まれる「と」、あるいは「と」の言い換えを含む詩行の例をいくつか。
鉄橋にてつなげられたる
新と旧ふたつの小さき市街
(「馬車」)
「新と旧」。「鉄橋」と「円き広場」の変形である。そこを通って人はどちらへも行くことができる。そして、この「にて」は漢字で書けば「以て」であり、また「以て」は「即」でもある。「即」は「同時」でもある。凝縮した「一瞬」、切り離すことのできない「瞬間」でもある。
おお
コロンブスの夜よ
なんぢのいかに甘く悲しきかな
(「商船の夜」)
「甘く悲しき」には「と」が隠されている。「甘さ(甘み)」と「悲しさ(悲しみ)」が「と」さえも省略された形で強く強く結びついている。「甘く悲しき」は「甘さ即、悲しさ」である。「と」が省略されているのは、それが切り離すことのできないもの、融合し、一体となっているものだからである。こうした瞬間に、清岡は「眩暈」を感じ、それを書き留めるのである。
同じく対立する概念が「と」を省略された形で表現されたものに、
甘き苦さもと悟れとや
(「札」)
というものもある。
対立する概念を同時に抱え込む人間の感情--それは「円き広場」なのである。あるいは、ひとつの感情を対立する概念で描写してしまう人間の理性--それが「円き広場」なのである。人間そのものが「円き広場」なのである。そこでは感情(感性)と精神(理性)とが自由に交錯する。行き交う。そして、それぞれを深めあう。高めあう。それが清岡の「詩」である。