現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
「秋の歌」(『ひとつの愛』1970年、講談社刊)は「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」という美しい行が印象的な作品である。その行が強烈なために何度も読み返してしまう。
この作品には「と」が書かれていない。それなのに私は「と」を感じる。「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」ということばに。
そして、この詩は、その行を中心にして、私の中で世界を反転させる。何度も繰り返し読んでいるうちに、私はこの作品を第 1連、第2連、第3連、第4連と読んでいるのではなく、後ろから読んでいることに気がつく。「鏡」ということばが出てくるせいかどうかわからないが、まるで鏡に映った像、「逆像」として詩を読んでいることに気がつく。
この作品は「秋のうた」というタイトルだが、秋ということばはタイトルだけにしか出てこない。そのかわり、「ダリア」を含む最終連に「夏」と「冬」が出でくる。「秋」とは「夏」と「冬」のあいだにある。夏「と」冬を結びつけいてる。夏「と」冬を結びつけいてるのが「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」というイメージなのである。それは夏「と」冬を結びつけるだけではなく、同時に夏「と」冬を切り離している。瞳「と」拳を切り離すように。
この1行を、第3連の最後で清岡は「残酷な言葉」と定義している。なぜ残酷なのだろうか。
第2連の最終行「世界のすべてが まるでわからなくなるのだ。」
それは世界をわからなくさせるから残酷なのだ。わかっているはずのことがわからなくなる。何か強烈な引力で、わかっているはずのものが凝縮して、今まで知らなかったものにかわってしまう。それがたとえば「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる」というイメージである。
イメージが鮮烈であればあるほど、それが何を意味するのか、それがわからない。なぜ、それが存在するのかわからない。
そして、そこに存在するものがくっきりと目に見えるのに、その意味がわからない--ということが「愛」なのである。「愛」とは「世界のすべてが まるでわからなくなる」ことなのだ。「あなた」ということばは書かれていないが、その省略された「あなた」がいることははっきりわかる。「あなた」がいるから「ぼく」がいるのだということもはっきりわかる。それが「愛」というものだが、わかるのはそれだけである。そのために世界がわからなくなり、世界がわからないために、「愛」そのものもほんとうに存在するのかどうか不安になる。「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」--そういうしかなくなる。「致命的な」とは「絶対的な」というのに似ていると思う。それがなくなれば「ぼく」は生きてはいけない。そういう意味で「致命的」なのである。
この詩は循環する。最終連から読み直し、第1連にたどりついたとき、もう一度第1連から読み直したくなる。
目覚めた瞬間、その新しい世界にであって、「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」「思いだせない」と意識してしまうのは、それが全体的に存在するはずであるという感じ(感覚、感情)が清岡にあるからだ。それが「ある」という感覚だけが鮮明で、どんな具合にして「ある」のかわからない。(第1連)
その一瞬の実感と不安。世界のすべてを見失ってしまう。(第2連)
理解する手がかりをなくした世界。そこに何かがやってくる。「愛」とは無関係に思えるもの、「愛」とは断絶したもの(つまり、「残酷な」存在--これを清岡は「言葉」と呼んでいる)が唐突にやってくる。ふいの言葉が「世界」だと自己宣言する。(第3連)
「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」この1行が「世界」である。この1行が「愛」である。
そこには過去(夏)と未来(冬)が同時に存在している。つまり過去「と」未来が結びつき、ひとつになっている。それはあなた「と」ぼくとの結合そのものである。つまり、愛そのものである。
「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」という1行が「愛」だと言っても、その「愛」は「あなた」には伝わらないかもしれない。
ここで語られている「愛」は「あなた」に向けて語った愛ではないからだ。だからこそ「あなた」が省略されている。
では、誰に向けて語った「愛」なのか。
清岡自身、というのでもない。それを超越している。清岡に向けてというよりも、清岡の「愛」そのもの、清岡の肉体の、あるいは精神の内部にあると同時に、清岡からあふれだし、清岡を否定してしまう可能性のあるものに向けて語ったことばなのである。
清岡は自分がどんな存在であったとしてもかまわない。過去がどう定義されようとかまわない。同時にどんな存在になろうともかまわない。未来がどうなろうとかまわない。そういう過去「と」未来のあいだ、過去「と」未来を結ぶ「現在」に生きている。
愛の絶頂にしか書けない、強烈なラブソングである。
「秋の歌」(『ひとつの愛』1970年、講談社刊)は「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」という美しい行が印象的な作品である。その行が強烈なために何度も読み返してしまう。
なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと
深く長い眠りの 洞窟からではないのに
一瞬 記憶喪失にでもかかったように
ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない
そこには たちこめる青く白い霧の乱れ。
のどが激しく乾く夜中にいちど そして
どんな恐怖よりも透明な朝早く もういちど
世界のすべてが まるでわからなくなるのだ。
ああ そんなに深い悲しみの空の涯から
いつも真先にたどりつく 一つの漂流物。
その残酷な言葉を ぼくは誰に語ろう?
熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。
夏のあいだを泣きあかした 瞳のように。
それでも冬に挑もうとする 拳のように。
この作品には「と」が書かれていない。それなのに私は「と」を感じる。「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」ということばに。
そして、この詩は、その行を中心にして、私の中で世界を反転させる。何度も繰り返し読んでいるうちに、私はこの作品を第 1連、第2連、第3連、第4連と読んでいるのではなく、後ろから読んでいることに気がつく。「鏡」ということばが出てくるせいかどうかわからないが、まるで鏡に映った像、「逆像」として詩を読んでいることに気がつく。
この作品は「秋のうた」というタイトルだが、秋ということばはタイトルだけにしか出てこない。そのかわり、「ダリア」を含む最終連に「夏」と「冬」が出でくる。「秋」とは「夏」と「冬」のあいだにある。夏「と」冬を結びつけいてる。夏「と」冬を結びつけいてるのが「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」というイメージなのである。それは夏「と」冬を結びつけるだけではなく、同時に夏「と」冬を切り離している。瞳「と」拳を切り離すように。
この1行を、第3連の最後で清岡は「残酷な言葉」と定義している。なぜ残酷なのだろうか。
第2連の最終行「世界のすべてが まるでわからなくなるのだ。」
それは世界をわからなくさせるから残酷なのだ。わかっているはずのことがわからなくなる。何か強烈な引力で、わかっているはずのものが凝縮して、今まで知らなかったものにかわってしまう。それがたとえば「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる」というイメージである。
イメージが鮮烈であればあるほど、それが何を意味するのか、それがわからない。なぜ、それが存在するのかわからない。
そして、そこに存在するものがくっきりと目に見えるのに、その意味がわからない--ということが「愛」なのである。「愛」とは「世界のすべてが まるでわからなくなる」ことなのだ。「あなた」ということばは書かれていないが、その省略された「あなた」がいることははっきりわかる。「あなた」がいるから「ぼく」がいるのだということもはっきりわかる。それが「愛」というものだが、わかるのはそれだけである。そのために世界がわからなくなり、世界がわからないために、「愛」そのものもほんとうに存在するのかどうか不安になる。「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」--そういうしかなくなる。「致命的な」とは「絶対的な」というのに似ていると思う。それがなくなれば「ぼく」は生きてはいけない。そういう意味で「致命的」なのである。
この詩は循環する。最終連から読み直し、第1連にたどりついたとき、もう一度第1連から読み直したくなる。
目覚めた瞬間、その新しい世界にであって、「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」「思いだせない」と意識してしまうのは、それが全体的に存在するはずであるという感じ(感覚、感情)が清岡にあるからだ。それが「ある」という感覚だけが鮮明で、どんな具合にして「ある」のかわからない。(第1連)
その一瞬の実感と不安。世界のすべてを見失ってしまう。(第2連)
理解する手がかりをなくした世界。そこに何かがやってくる。「愛」とは無関係に思えるもの、「愛」とは断絶したもの(つまり、「残酷な」存在--これを清岡は「言葉」と呼んでいる)が唐突にやってくる。ふいの言葉が「世界」だと自己宣言する。(第3連)
「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」この1行が「世界」である。この1行が「愛」である。
そこには過去(夏)と未来(冬)が同時に存在している。つまり過去「と」未来が結びつき、ひとつになっている。それはあなた「と」ぼくとの結合そのものである。つまり、愛そのものである。
「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」という1行が「愛」だと言っても、その「愛」は「あなた」には伝わらないかもしれない。
ここで語られている「愛」は「あなた」に向けて語った愛ではないからだ。だからこそ「あなた」が省略されている。
では、誰に向けて語った「愛」なのか。
清岡自身、というのでもない。それを超越している。清岡に向けてというよりも、清岡の「愛」そのもの、清岡の肉体の、あるいは精神の内部にあると同時に、清岡からあふれだし、清岡を否定してしまう可能性のあるものに向けて語ったことばなのである。
清岡は自分がどんな存在であったとしてもかまわない。過去がどう定義されようとかまわない。同時にどんな存在になろうともかまわない。未来がどうなろうとかまわない。そういう過去「と」未来のあいだ、過去「と」未来を結ぶ「現在」に生きている。
愛の絶頂にしか書けない、強烈なラブソングである。