詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(5)

2006-12-02 23:17:08 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「無人島で」(『四季のスケッチ』収録)にはことば(日本語)について語られている。もし清岡が無人島へ何か一冊本を持っていくとしたなら……。

ぼくにまで最も魅力的であるもの、それはなぜか、ぎりぎりの単位までばらばらに解体された、遠く懐しい母国語の集合体なのです。母国語の単語たちのすべてが、小学校の入学式に並んだ新入生のように発音順に整列し、爽やかな潮風に吹きかえされている、一冊の古ぼけた、ありきたりの辞書なのです。

 「辞書」のことばには「と」がない。「と」による結びつきがない。言い換えると……。

一つの響きしかもたない一つの単語は、おびただしい意味やイメージをその周囲に、可能性においてまぶしく放射しています。ほかの単語たちとの生臭い脉絡を断たれている、決定的な位置。

 他の単語(ことば)と結びついていな、「と」の欠如によって意味の、イメージの可能性を無限大に持っているのが「辞書」のことばである。そして、それは「詩は言葉を物(ショーズ)のように扱う」という定義を思い起こさせる。
 その詩とことば(物としてのことば)とについての思いめぐらしのなかに、清岡の、ことばに対する独特の思いが語られている。

しかし、言葉を本当に物(ショーズ)のように扱えるでしょうか? それでは、言葉はピアノの音や大理石のかけらのようになってしまい、言葉を住まわせている空間が見えないではありませんか? ぼくは、母国語の辞書という思いがけない独特な空間の全域にはげしく戦慄するのです。

 清岡によれば、ことばは物(ショーズ)ではない。ことばは「空間」である。ことば自身が抱え込んでいる「空間」ではなく、ことばを「住まわせている空間」--それが「ことば」である。
 この「空間」は、最初に清岡の作品について触れたときに紹介した「宇宙」によく似ている。「ぼく」と「きみ」はそれぞれ「宇宙」を持っている。それは、「ぼく」と「きみ」はそれぞれ別々の「宇宙」に住んでいるということでもある。
 そしてその「ぼく」と「きみ」が出会うことによって、ふたつの「宇宙」が出会い、融合し、合体する。そんなふうにして、ことばとことばが出会い、それぞれの「空間」(宇宙)が融合し、合体するのが「詩」なのではないのか。--清岡は、そんなふうに考えているのだと思う。
 「詩」とはことばとことばの出会いである。そしてそれはことばが住んでいる「空間」(宇宙)同士の出会いである。融合であり、合体である。言い換えれば、あるいは正確にいえば、ことばが出会うのではなく、ことばを住まわせている空間(宇宙)が出会うのが「詩」なのである。
 そして「ことばを住まわせている空間」(宇宙)が出会うということは、実は、それぞれの「空間」(宇宙)の奥へと分け入っていくことなのである。それを清岡は次のように書いている。

母国語の辞書という空間の中に侵入します。--すると、そこは、また別な海の底につづいている。

 ことばを住まわせている「空間」。それが出会うことによって、単独では見えなかった「空間」が見えてくる。
 それは単に見えてくるというものではない。「別の海の底につづいている。」ということばが指し示しているように、別のものにかわってしまうのである。「空間」から「海の底」へと世界が変わったように、まったく別の次元--しかし、「つづいている」次元が現れるのである。
 それは一種の生成なのである。

 清岡の詩、「と」によって結びつけられる単語と単語の出会い。それは単語の持っている「宇宙」と「宇宙」の出会いであり、ふたつの「宇宙」が出会って始まる世界は、それまでの「宇宙」とつづいてはいるが、「空間」と「海の底」ほどの違いがあるものなのだ。異質なもの、まったく新しい「次元」なのである。
 清岡は、そうしたものを書こうとしている。
 ことばとことばが出会い、その結果、日本語の「空間」を耕して、新しい「宇宙」が生まれる、生成する--そういう瞬間を描こうとしている。
 この作品は、清岡の「詩論」というべき作品である。
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