詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

友部正人「おばあさんのやかん」松浦寿輝「旅」

2006-12-19 13:23:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 友部正人「おばあさんのやかん」松浦寿輝「旅」(「現代詩手帖」12月号)。
 友部正人の「おばあちゃんのやかん」は不思議なあたたかさがある。ふるさと、といっても12月18日に触れた正津勉の「さらばさるべしさようなら」のように具体的な場所(地名)が出てくるわけではない。「おばあさん」が「ふるさと」とし登場する。そして、その「おばあさん」は、常に何かと一体である。「おばあさん」自身がひとつの感情なのである。

おばあさんはやかんの上に
やかんは火鉢の上に
火鉢のまわりには十二人の兄弟

 「まわり」まで含めて「おばあさん」なのである。「おばあさん」がひとつの肉体というよりも「まわり」を含んだものだからこそ、その一体感のなかに友部はすーっと溶け込んでいく。
 書き出しの3行につづく各連も、「まわり」を描いている。2連目。

街が桜の花びらでうまるころ
おばあさんはやかんに乗って旅に出た
まだ年は八十歳だった

 「街が桜の花びらでうまるころ」は単に「おばあさん」が亡くなった時(日時)をあらわしているのではなく、やはり「まわり」をあらわしているのである。何月何日よりも「まわり」に何があったかが重視されているのである。
 そして、その「まわり」は実は時間を超える存在である。
 6、7、8連。

まだおばあさんが家にいて
火鉢の上でお湯をわかしていたころ
ぼくには不思議な思い出がある

外には雪が降っているのに
家の中は暖かく
裏庭には桜が咲いていた

暗い夜道を帰って来ると
やかんの上にはおばあさんがいて
裏庭にはいつも青空があった

 外は雪でも裏庭には桜、時間が夜でも裏庭には青空。それは、友部の頭の中の記憶ではなく、感情なのである。「暖かな」ということばがあるが、あたたかな思い出(あたたかな感情)の、そのあたたかささが「まわり」の具体的な在り方なのである。
 感情は「忘れる」ということがない。感情はいつも時間を超越する。空間を超越する。そのとき「詩」があらわれる。最終連。

町が桜の花びらにうまるころ
真新しい畳の匂いをかぎに
おばあさんがやかんにのって帰ってくるよ

 最後の「よ」もいいなあ、と思う。感情をしっかりと押えている。動かないものにしている。なんといえばいいのだろうか、ちょうど俳句の「切れ字」のような感じだ。「おばあさん」はいつも友部のこころのなかに生きている。その喜びが「よ」のなかに輝いている。

 *

 松浦寿輝「旅」は「感情」というより「感覚」の「旅」である。
 「感覚」と「感情」(友部)、「頭脳」(正津勉)はどう違うのか、それ単独に取り上げると説明がしにくいが、正津、友部の作品と松浦の作品をつづけて読んでみると、松浦は「感覚」で考えている、「感覚」で感じていることがわかる。
 「旅」という詩には「また」ということばが繰り返し出てくる。

わたしはまたふたたび幽暗の河をさかのぼり

 この書き出しには「また」と「ふたたび」と同義のことばが繰り返されてもいる。「また」は20字、22行の作品に 4度も登場する。このすべての「また」は「感覚」である。先に私は、松浦は「感覚」で考え、「感覚」で感じると書いたが、それは便宜上のことであり、ほんとうは思考や感情にまでたどりついていない途中の「感覚」である。思考や感情になる以前の途中というものが松浦の「感覚」なのである。
 松浦が「また」を繰り返すのは、その思考でも感情でもない自分自身の「感覚」を「感覚」として立ち止まらせるためである。「感覚」が先走って何かを見落とす--ということを、松浦は恐れているようでもある。世界のすべてを「感覚」と融合させる、そのために「またふたたび」どころか、「また何度でも」「旅」をするというのが松浦のことばである。松浦の肉体が旅をするというより、ことばが旅をするのである。

葉のへりから滴る雨粒が地面に落ちるまでの 時間の変化に目を凝らす

 そういうものが人間に認識できるか。頭脳では認識できない。感情でも抱き留められない。ただ感覚だけが「感知」するのである。
 松浦のことばは「感知」の一瞬をもとめて、ひたすら肉体と頭脳と感情をゆっくり歩ませ、なおかつ差異をもとめて繰り返し。繰り返し(また)によって、初めて差異が生まれる。初めて(一度)では差異は存在せず、したがって何も「感知」することはできない。「感知」する人間として、松浦は自分自身を提出しようとしているように思える。

コメント
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