詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(7)

2006-12-05 23:44:13 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「奇妙な幕間の告白」(「現代詩」昭和31年4月号)は「戦争責任」について書かれた文章である。吉本隆明らの厳しい姿勢に異議をとなえている。こうした文章の中にも「と」にかかわる内容が書かれている。
 「と」はある存在と別の存在を隔て、同時に結びつける。「と」を中心にして、いわば矛盾する逆方向のもの、分離と結合が出会い、ひとつのものになる。新しい「宇宙」を生成し、そのなかでふたつは一体になる。
 その矛盾し、矛盾を乗り越えて融合する運動。それを感じさせる文章がこのエッセイの後半に出てくる。

 戦争の共犯者であり、かつ同時にその犠牲者であるという意識、それこそ、ぼくの胸を今もなおつらぬいている短刀である。( 115ページ)

 「と」とは「かつ同時に」と同義である。たとえば「石膏」のきみ「と」ぼくは、きみであり、「かつ同時に」ぼくなのである。そして「決闘」に出てくる「二重の宇宙」の「二重」とは「かつ同時に」の言い換えでもある。
 先の文章は、すぐそのまま次の文章につづいている。

この欺瞞、この矛盾、しかしそれは、戦争への協力と抵抗という明確な図式で裁断され得るものではあるまい。( 115ページ)

 戦争への協力(戦争の共犯者)「と」抵抗(犠牲者)。この「と」は「かつ同時に」である。それは「二重」に重なり合い、融合したものである。だから「裁断」などできない。清岡の意識は、いつもそうした「二重」のものへと向けられる。
 「と」によって分離されたものが、「と」によって結合される。ひとつになる。「二重」になる。「二重」は空間的な在り方である。それが「かつ同時に」と言い換えうるのは、そうした分離・結合が空間的なものとしてのみ存在するのではなく、時間的にも存在することを意味する。「と」による分離・結合は、空間・時間が融合した「宇宙」でのできごとなのである。
 同じ意味合いのことを清岡は、さらに言い換えている。何度も言い換えるのは、それが清岡にとってなんとしてでも明確にしておきたいことだからである。

戦争に対して、いわゆる協力することも抵抗することも、ともになし得なかった二十才前後の人間にも、加害者であると同時に被害者であるという二律背反的な意識はあり得たのである。( 115ページ)(谷内注、「被害者」は「彼害者」と表記されているが単純な誤植と思われるので引用に際して「被害者」に書き換えた。)

 「かつ同時に」は「同時に」と単純に言い換えられている。「矛盾」は「二律背反」と言い換えられている。
 この「矛盾」「二律背反」は、また先の引用部分では「欺瞞」とも書かれていたが、「矛盾」「二律背反」のなかから「欺瞞」を少しずつ分析し、その構図を明確にして行くのが清岡の「詩作法」なのである。

 そしてこのとき重要なのは、「加害者であると同時に被害者である」という文の中の「ある」ということばだ。「戦争の共犯者であり、かつ同時にその犠牲者である」という文の中の「ある」という動詞だ。
 「……であると同時に……である」。「……であり、かつ同時に……である」。
 この「ある」は単に存在していることを意味するのではない。「ある」のなかには「動き」がある。この「ある」は「なる」とほとんど意味が同じなのである。
 戦争の協力者に「なり」、かつ同時にその犠牲者に「なる」。加害者に「なる」と同時に被害者に「なる」。
 「ある」は、むしろ「なる」と読み替えた方が清岡の意識に即しているかもしれない。私たちはどちらにも「なる」。なりうる。

 「石膏」のきみ「と」ぼくは、きみがぼくで「あり」、ぼくがきみで「ある」というより、きみがぼくに「なり」、ぼくがきみに「なる」のだ。だからその「二重の宇宙」の「二重性」は「なる」という過程でのみ見えるもの、意識されるものであり、生成が完結すればひとつに「なる」ものでもある。
 「と」を中心にして繰り広げられる運動は「ある」を突き破って「なる」という運動のなかで展開されるものなのである。

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