詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『西洋皿』(和光出版)

2006-12-30 22:41:28 | 詩集
 秋山基夫『西洋皿』(和光出版)
 「壽歌」。

初孫の挙式の宴や桃の花
隣の席の母が
箸袋を開いてちょこちょこ書き付け
どお?と言って見せた
どうしようもない句だ、と思ったが
黙って隣の席の妻に渡した
箸袋は恭しく次々に隣の席へ渡され
口々にお世辞やら何やらが発せられ
最年長者だから許されるふるまいなのか
ずいぶん気軽なことだが
これはこれで結構なことだった

 「どうしようもない句だ、と思ったが/黙って隣の席の妻に渡した」の2行に秋山の「詩」がある。意識と実際の行動の差。あるいは裂け目。そこから鮮明に現実が見える。そして、批評が始まる。批評としての詩というものがある。それが秋山の「詩」である。
 秋山が見ている現実は、母の作った句が「どうしようもない」ということだけではない。そうしたものをありがたがって、あるいはありがたがるふりをする人がいるというところまで向けられる。批評の対象がひとつの存在(この作品では母の句)だけでなく、それを取り囲むようにして存在するものへと広がり、そうした社会のありようを浮かび上がらせる。批評はそこまで広がる。その広がり方こそが秋山の「詩」であると言えばいいのだろうか。
 また、その批評は、秋山自身へも引き返してくる。作品の続き。

彼女が短歌を習っていたら
初孫の嫁御うつくし大瓶に花桃を生け集ふわれらは
などと手軽には詠まなかっただろう
わたしは慣用表現羅列の謝辞を覚え直し
費用の収支を考え
顔色がややさえない

 自分自身への批評は、しかしこの作品では少し「さえない」。笑いになりきれていない。たぶん挙式の主役が秋山の長男であることが「初孫」「母」「初孫の嫁御」というように間接的にしか書かれていないことと関係がある。一種の「照れ」がある。照れていて、自分自身を笑いの対象にしきれていない。対象にしきれてはいないけれど、ここでは笑いの対象にしなければ作品として成立しない、という「批評」が秋山に最後の3行を書かせている。
 批評へのこだわりが秋山の「詩」なのである。本質、思想なのである。このことは、この作品が最後に「注釈」を抱えていることによってさらに鮮明になる。

*和歌には古くから壽歌を詠むことが制度としてあっただろう。俳諧は発句で主人をほめるからであっただろう。現在の短歌、俳句には制度としてあるのだろうか。現代詩は個人的につくることがあっても制度としてはない。

 この「注釈」は「注釈」であることを拒絶している。作品とは何の関係もない。秋山自身の「美意識」(文学的美意識)の表明である。現代詩は「制度」を持たない。それゆえに秋山は現代詩をつくるのだ、という意思の表明である。この「注釈」を読むと、まるでこれが書きたくて秋山は「壽歌」という作品を書いたのではないかとさえ思えてくる。
 どんな制度にも属さない現代詩。どんな制度からも自由な批評。ことばの運動。それが秋山の書きたいものなのだろう。
 そうした思いを、「注釈」の形を借りて、あるいは先行することば(詩作品)を批評するようにして書いてしまう。秋山は、心底、批評的人間なのだと思う。秋山の批評的人間性がとても色濃くあらわれている。批評のなかに秋山がいるのである。



 秋山はこの詩集のなかにいくつか俳句を書いている。その俳句よりも、「七月の光のもとで」の次の3行が俳句的だった。

赤いバイクが山を登っていく
お宮の石段に人影はなく
蝉が日暮れまで鳴いている

 1行目と2行目の間に「切れ」があり、切れをはさんで二つの世界が向き合い、向き合うことで互いを批評する。響きあう。批評とは、本来、こんな風に向き合ったものと響きあわなければならないのだと思う。響きあう響きのなかに「詩」がある。
 「壽歌」は批評を書かなければいけないという義務感(?)のようなものが作品を苦しくしているが、この3行ではのびのびとしている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする